【Interview】美しい人生を生きてきた両親だと思っています~『きらめく拍手の音』イギル・ボラ監督インタビュー

韓国のドキュメンタリー『きらめく拍手の音』が、6月10日からポレポレ東中野で公開されている。聴覚障害者同士の夫婦の日常を、その二人の長女であるイギル・ボラが紡いだ瑞々しい映画だ。

聴覚障害者を親に生まれ、成長過程で葛藤を経てきた人を「CODA」(Children of Deaf Adults)と呼ぶそうだが、その「CODA」の経験を本格的に語った映画としても注目されている。

本サイトでは、公開後の後発記事ということもあり、イギル・ボラ監督がその経験をいかに映画に昇華させたかに質問の重心を置いている。

日本でもこれまで、自分の家族をテーマにしたドキュメンタリーは数々作られてきた。その多くは、撮影をきっかけに関係の改善や修復、あるいは停滞の打破を図るものだった。しかし『きらめく拍手の音』の家族はもともと、とても温かく円満。ボラ監督自身も「愛情たっぷりの家族です」と教えてくれた。それでも作られるべき強いモチベーションはあったのだ。それを知りたかった。
(取材・構成=若木康輔/通訳=根本理恵)



両親には話したいことがたくさんあるんです

 インタビューを受ける際の監督は、個々の質問にじっくり考えながら答えていくタイプ、自分から明確に話したいことがあるタイプなど、さまざまです。ボラさんは?

ボラ 映画を理解してもらうのに必要なことはお話しつつ、相手を見て「こういうことが訊きたいのでは?」と考えながら少しずつ変えていきます。上映後のQ&Aでもまず場内を見渡して、観客に若い世代が多ければ彼らに伝わりやすい話をしますし、親の世代が多いなと感じたら、その年代の方たちに理解してもらいやすい話題を選びますね。

 ドキュメンタリーの制作は取材対象者との信頼を築くところから始まりますが、『きらめく拍手の音』では、ボラさんはご両親を撮った。他者を撮るのとは別の難しさがあったのでは。

ボラ そう、あまりにも近い存在なので、どれ位の距離を置けばよいかの調整は難しかったです。両親へのインタビューでも、家族だからわざわざ質問するまでもない、と聞き漏らしてしまった要素があるんです。私にはよく分かっていることでも、それはあくまで自分の記憶なんですよね。映画は、撮れていないものは素材にならない。

聞けていない……と後で気付いた部分は知恵を絞り、インタビュー以外の表現によって盛り込んでいきました。

 ボラさんがカメラを回したいとお願いした時、ご両親は?

ボラ ほとんどすぐにOKしてくれました。手話自体が視覚を基盤にした言語ですから、二人とも映像にはすごく慣れているんです。映画の中でも、結婚式を迎える若い父がカメラに向かって手話で挨拶する、古いビデオの映像が出てくるでしょう? 子どもの頃からそれを見ては、親にとっては自然なことなんだなと思っていました。それに、話したいことが二人にはたくさんありますし。

カメラは少数者の中に入ると、時には武器になってしまう場合がありますよね? 例えばですが、反体制的なデモを撮影した映像を、鎮圧したい政府側が恣意的に扱う可能性は常にあると思います。幸いなことに両親は、カメラに向かって話すことで世の中に何かを伝えられるのだとすぐに理解してくれました。

『きらめく拍手の音』より

 反抗期はあったのでしょうか。

 ボラ ありました。期間はすごく短かったけれど、その分強烈に。

 ずっと良い長女だったのに、突然、高校を中退して旅に出たいと言い出した。映画でも語られている話ですが、その時?

ボラ いえ、その前、中学生の頃です。正確には反抗期というより思春期特有の感情かな。両親のことを恥ずかしいと思ってしまった時期があるんです。家族で外に出かけた時、手話で話しかけられると決まりが悪くてじっとしていたり、お店の前で「あの野菜、幾らか聞いて」と頼まれても「自分で聞いてよ」と嫌がったり。

その頃、好きな男の子がいて。ある日、塾の帰りに一緒に歩いていると、道端で母にバッタリ会ったんです。母は手話で「もう遅いから一緒に帰ろう」と。親が聴覚障害者だと彼には話していなかったので、私はとても慌てて、「早く帰って!」と邪険に言ってしまったんです。母は察して、先に帰りました。それから……家に帰ると、母が私にずっと背中を向けているんです。

手話の世界は、相手を見てコミュニケーションが成立します。話したくない時は顔を背ける。背中を向けるのは絶対の無視です。母はそれだけ怒っていました。

私はなんとか母に弁解したいと思いました。申し訳ない気持ちで一杯だったし、同時に、親の障害を周りの人に説明する役目を子どもの頃からずっと担ってきた、その辛さも知ってほしかった。

でも母は、私が肩を叩いても頑なに洗い物を続けるんです。ようやく振り向いてくれたと思ったら、烈しく「私の存在を否定するような娘には、家にいてほしくない。出て行って」。

私は悔しくて悲しくて、大泣きしました。そんな状況になってしまった責任が、私にも、母にもないことはよく分かっていたからなおさら。

それからの私は、「自分がろう者なのをお母さんが恥ずかしいと思っていないんだから、私もお母さんを恥ずかしいと思うのをやめよう」と決めました。母にはふだん図々しいところがあるんですが、むしろそこを見習おうと。

些細な一夜の母子喧嘩でしたが、私にとっては大きなターニングポイントとなった出来事です。ちなみに、その男の子とは結局うまくいきませんでしたけど(笑)。


 『きらめく拍手の音』を見た人はみんな、きっと大好きになるご両親です。しかし若い頃は教師になる夢を断念するなど、障害のための挫折を経験していますね。一方で、ボラさんは頑固なまでに自分の道を通して、こうしてドキュメンタリーの作り手になっています。将来の選択肢を自由に行使できた娘が、親の苦労を描く。映画の、特に繊細なところです。

ボラ 希望の仕事に就けなかった両親の過去は、以前は考えてもみないことでした。初めて話を聞いた時はショックでしたね。「どれだけ悔しかっただろう……」と怒りで震えました。

私の両親に限らず、韓国にも多くのろう者がいます。聴覚障害者のための教育をしっかりと受ければ、自分の望む道に進めたはずの人がたくさんいるんです。

私は学校で「しっかり勉強すれば将来は科学者にも大統領にも、宇宙飛行士にだってなれる」と教わり、素直にそれを信じてきました。両親たちは、そんな夢さえ持つことが許されなかった。その人生について、強く考えさせられました。

それが、『きらめく拍手の音』を完成させる大きな動因の一つでした。映画を作ること自体が、立ち遅れている聴覚障害者教育への社会的働きかけ、ひとつの運動になると思ったんです。

でも両親は、そういう話を笑顔で話してくれるんですよね。若い頃の挫折も、会社を倒産させてしまった時のことも。改めて胸が熱くなりました。苦しさ、悔しさを私や弟の前では顔に出さず、ものすごい努力で育ててくれていたんだなと。美しい人生を生きてきた二人だと思います。

だから私も自然と、両親に頼らない生き方をするようになりましたし、泣き顔も見せないようにしてきたんです。

▼page2 カラオケの場面からきっと何かが伝わるはず。観客を信頼しています に続く