【Review】ネオ・パラレル・ドキュメンタリーの秀作『ケイト・プレイズ・クリスティーン』 text 大田裕康

『ケイト・プレイズ・クリスティーン』は、1974年7月、フロリダ州サラソタのテレビ局で実際に起こった、ショッキングな事件の真相を解き明かそうとするドキュメンタリーである。ニュース番組を受け持っていたクリスティーン・チャバック(当時29歳)が、生放送中にカメラの目の前で、突然、拳銃自殺を遂げたのであった。

戦場における死でもなく、犯罪性を帯びた死でもない彼女の死は、視聴者が直かにテレビを通して見たリアルタイムの死であり、テレビ史上初めて、否応なく見ることを受け入れざるを得なかった自殺の光景であった。

放送史に残るこの衝撃的な事件は、しかし、視聴者の少ないローカルテレビ局で起きた事件であったため、当時からさほど大きな話題にはならず、歳月と共に風化し、次第に人々の記憶から薄れていく。クリスティーンがなぜ放送中に自殺をしなければならなかったのか、その真相は今もなお詳らかではないのだ。

監督のロバート・グリーンは、この不分明なクリスティーンの自殺の真相に、ある卓抜な方法を用いて分け入っていく。あたかも、アリアドネの糸を伝って迷路の中を歩いていくように、謎に満ちた死の真相に向かって歩き始める。そしてそのアリアドネの糸こそが、ユニークなパラレリズムの方法論なのである。

グリーンはまず、クリスティーン・チャバックを主人公にした、「おしゃれで安っぽい70年代風ソープオペラ(メロドラマ)」の製作(映画内映画)を設定する。クリスティーン役に、ケイト・リン・シールという女優が選ばれ、ケイトは、女優としての役作りをするために、クリスティーンがどのような女性であったのかを現地に赴いて調べ始める。

ケイトは、歴史家や新聞記者、また当時の関係者の元を訪ね、様々な証言を集め、クリスティーンの客観的人物像を作り上げようと試みる。だが、どの証言も、憶測や偏見や合理的見解の域を出ず、クリスティーンの実像を捉える作業はなかなか捗らない。

ソープオペラの進行に合わせて、ケイトは、クリスティーンと同じ色のカツラを被り、同じ色のコンタクトを装着し、肌の色を似させるために日焼けスプレーを吹きかける。それまで様々な証言を得ても、容易に辿り着くことの出来なかったクリスティーンの実像が、この時、クリスティーンになりきろうとする女優としての行為によって、一歩前進したようにケイトは感じる。そして、実はこれこそが、監督ロバート・グリーンの狙いであり、このドキュメンタリーがユニークな深層性を持つ理由なのである。

ここにおいて、『ケイト・プレイズ・クリスティーン』は、監督の巧みな演出によって、三つの主題が平行するパラレルな構造へと進展してゆく。すなわち、一つは、ソープオペラ仕立ての映画内映画の製作、一つは、ケイトによる客観的証言集め、そうしてもう一つが、女優ケイトのクリスティーンへの同化、すなわち、女優として、内面からクリスティーンを生きることによって感じ取られるクリスティーンの実像がそれである。しかも、このパラレルな三層構造は、けっして図形的な平行線を描かず、むしろ、絡み合いもつれ合いながら、互いに補足し合い、有機的に手を結び、クリスティーン・チャバックの真実へと迫っていくのである。

自殺の調査を続けるケイトの耳に聞こえてくる様々な証言――鬱病であったから、自殺願望があったから、また、親しい友人がいなかったから、前年に卵巣の手術をし、一年以内に妊娠しなければ子供が持てないことに悩んでいたから、あるいは、同僚のジョージに恋心を抱いていたが、彼はすでにクリスティーンの友人と関係していたから――そうした証言に耳を傾けても、クリスティーンの死に決定的な影響を及ぼしたとは、ケイトには考えられない。スパイスの効いた女性になりたいと願いながら、それが果たせなかったクリスティーンの、孤独と悲しみと、何ものかに対する苛立ちだけがケイトの胸をよぎる。

ケイトはクリスティーンの真実を理解するために、かつらを被って多くの時間を過ごし、彼女の家を訪ね、残された彼女のビデオを見る。そうして、自分なりに一歩一歩クリスティーンの実像に近づきながら、とうとう映画内映画のクライマックスシーン、自殺を再現する撮影の日を迎える。かつらを被り、コンタクトを装着し、クリスティーンと同じ柄の服を着たケイトは、あの日のクリスティーンがそうしたのと同じニュース記事を読み、あの日と同じように紹介すべきはずであった映像が詰まり、クリスティーンがあの日そうしたように、ケイトはカメラに向かって話し始める。

「チャンネル40が、皆さまにお届けするのは、“流血と臓器”のカラー映像です。本日お見せするのは、自殺です」

ケイトはクリスティーンと同じように拳銃を取り出し、右耳の後ろに押し当てる。引き金を引けば撮影は終わる。だが、ケイトにはどうしても引き金を引くことが出来ない。何度撮り直しても、彼女には引き金を引くことが出来ないのだ。

なぜ出来ないのか。理解が及ばないクリスティーンの死がそこに現前していたからか、女優として、まだ役柄になりきっていないことに対する自己嫌悪を感じたからか。そうではない。ケイトはこの時、クリスティーンの自殺の動機を内側から生き、その悲しみ、その孤独、その閉塞感を共有したのだ。この時ケイトは初めて、クリスティーンの実像に迫り、クリスティーンその人へと同化していたのだ。

死に値するほどの理由などない、自分と同じ孤独な女性の死を、ケイトはそこに感じ取り、誰も深く理解しようともせず、ただ好奇の眼差しか向けようとしない人々に対する疑問と怒りが湧き起こり、ケイトはカメラに向かって銃を向ける。

「死ぬのを見たいなら、理由を言って」――実はこの時、ケイトがクリスティーンを演じていたのではなく、同じ孤独と苛立ちと葛藤を共有した二人が一つとなったのだ。

やがてケイトは引き金を引く。血が流れ、うつ伏したケイトはゆっくりと顔を上げ、カメラに向かって、「これで満足? サディストめ」と静かに言い放つ。だが、そこにいるのは、ケイトではなく、ましてやクリスティーンでもなく、ケイトであると同時にクリスティーンである一人の傷ましい女性なのだ。

巧みなパラレル構造を持つこの作品は、クリスティーンの死の真相に迫りながら、同時に、彼女の死に、話題性としての流血しか見ようとしない人々の、その不毛な好奇心に対する鋭い批判をあわせ持ち、さらには、演じるということの秘密と秘儀とを問いかけるドキュメンタリーともなりえているのである。

冒頭のシーンで描かれる、ケイトの女優としての歩みは、(ケイトがクリスティーンと同じ見られる職業であり、共に目標を持ち、共に挫折を経験していることには注意を要するだろう)実は、クリスティーンの孤独な人生とどこかで重なり合うように巧みに描かれている。監督のロバート・グリーンが意図した重層的な効果がそこにはある。すなわち、この映画は“Kate plays Christine ”であると同時に、”Christine plays Kate“でもあるのだ。冒頭のタイトルがそのことを明確に物語っている。

パラレリズムのユニークな可能性を示したこの作品は、2016年サンダンス国際映画祭ドキュメンタリー部門における脚本賞の栄誉に輝いている。だが、それは同時に、この作品が従来のドキュメンタリー作品の範疇を越えた、考え抜かれた脚本の力によって成り立っていることを証明してもいるのだ。奇妙な言い方だが、『ケイト・プレイズ・クリスティーン』は、ドキュメンタリー作品としては、フィクション的要素の占める割合が大きいのだ。映画内映画というフィクションの進行は、ドキュメンタリー部分と常に重なり合い、ほぼ等価に描かれている。だが、そうだからといって、この作品がドキュメンタリーではない訳ではないだろう。

ロバート・グリーンがこの作品で示唆しているものとは、インタビューと引用といった旧来の手法を越え、ドキュメンタリーはその特権的な聖域から出て、フィクションという相対するジャンルとのパラレルな関係を止揚し、互いに交わり手を結んで、いわば、ネオ・パラレル・ドキュメンタリー(筆者の造語)とでもいうべき表現方法を模索すべきだと、そう提言しているように思われてならない。

「フィクションとドキュメンタリーは、混ざりあっていたとしても、分けられるものではないでしょうし、その2つの間のなにかを見つめることができるはずです。そしてそういう混ざり合った中から、真実のようなものや、啓示的な体験が見出されるのです

ロバート・グリーンのこの言葉のどこにも、凝固した、ドキュメンタリー的概念はなく、柔軟で解放された真実への探求心があるだけなのだ。

【映画情報】

『ケイト・プレイズ・クリスティーン』
(アメリカ/2016年/112分/英語/カラー/1.78:1)
監督:ロバート・グリーン
出演:ケイト・リン・シール
プロデューサー:ダグラス・チロラ、スーザン・ベドューサ
撮影:ショーン・プライス・ウイリアムズ
音楽:キーガン・デウィット
原題:Kate Plays Christine

1974年、生放送中に自殺したテレビキャスター、クリスティーン・チャバック。彼女を演じることになった女優ケイト・リン・シールは役作りのため、生前のクリスティーンの足取りを追う。彼女の住んでいた街へ赴き、髪型や肌の色を似せ、精神的にも肉体的にもクリスティーンへの同化を強めていく。しかし、その同化が、ケイトにある変化をもたらせ始める…。

7/15(土)より、渋谷アップリンクほか全国順次公開

公式サイト
http://www.chunfufilm.com/kate-plays-christine
上映時間等はアップリンクサイトで
http://www.uplink.co.jp/movie/2017/48094

【執筆者プロフィール】

大田裕康(おおた・ひろやす)

『2001年宇宙の旅』と『惑星ソラリス』――螺旋と円環による神の存在証明
で、neoneo映画評論大賞2016を受賞。
『わが友ドラキュラ』で、劇団NLT 第6回 新人戯曲賞 審査員特別賞を受賞。
趣味: ギリシャ悲劇の創作を中心に、古代・中世・近代における異端者の戯曲化
( アグリッピナ、バートリー・エルジェベト、マルキ・ド・サド、ルートヴィヒ二世など)
興味のある方は、ブログをご覧ください。