【連載】「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」第26回 『LENNY BRUCE-AMERICAN』

「パーティーで白人が黒人と打ち解ける方法」

A-4の「HOW TO RELAX YOUR COLORED FRIENDS AT PARTIES」。

マイクを持ったままテーブルに行き、お客のひとりにコントに付き合わせる形式。ここではミラーさんという黒人が捕まっている。

ブルース(以下B)「これから、『パーティーで白人が黒人と打ち解ける方法』の典型例をご紹介しよう。……いやあ、このパーティーのご馳走は素晴らしいね、主催者たちはもてなし方をよく分かってる」

ミラー(以下M)「ええ、素敵ですね」

B「なかなかなもんだ。悪いが、あんたの名前を聞いてなかった」

M「ミラーです」

B「ミラーさんね」

M「よろしく」

B「あまり見かけたことはないが、この近所かい?」

M「ええ、町の反対側に」

B「ああ、そうかい、なるほど。……ジョー・ルイス(※1)は大したボクサーだよな、本当に凄い奴だ。あんなのはもう二度と現れないだろうよ」

M「そうですね」

B「タバコあるかい?」

M「どうぞ」

B「なんだ、あんたがやるのはタバコだけ?(※2) ほう、大したもんだ。俺はここにどんな人が来てるのかよく分かってないんだが……あんたは知ってるか?」

M「ええと……」

B「どうせヘブども(※3)ばかりだろうけどな。……おっと、ひょっとしてあんたまでユダヤ人じゃねえだろうな? いや、別に構わないんだ、俺の親友もユダヤ人でね。ときたま夕食に誘って家に呼んだりするんだぜ。中には感じの悪いユダ公もいるが、お前さんはなかなか悪くないユダヤ人に見えるぜ」

B「そういや、あのボー・ジャングルスっての。タップダンスの神様だ、あいつの右に出る者はいねえよ。お前さんもたまに踊るのか? だって黒んぼはみんなタップダンスが上手いんだろ? あんたたちには生まれ持ったリズムの才能があるのさ。タップダンスをするために生まれてきたようなものよ」

B「俺が思うにだな、どんな奴だろうと自分の居るべき場所に留まってさえいりゃあ問題ねえんだ。最近の社会の混乱は全部そこから来てるんだ。だからさ、ウン……ジョー・ルイスを讃えて、乾杯!」

B「ジョー・ルイスねえ。俺に言わせりゃジョー・ルイスってのは、物事の始め時と終わり時をしっかり分かってた奴なんだ。黒んぼはみんな見習うべきだと思うぜ……。いや、悪気はねえんだ、ここに来るまでにもう何杯か飲んでるもんでね。もう何か食べるものは取ったかい?」

M「いえ、まだ何も」

B「そうかい、でもスイカはもう無いかもよ。フライドチキンもさ。サイコロやカミソリがあればいいんだけどな(※4)

B「俺、あんたのことが気に入ったぜ、ぜひとも家に招待したいな」

M「ありがとうございます」

B「ぜひ家に来てほしいが、実はちょっとした問題があるんだ……俺には妹がいてな、聞くところによるとあんたたちは……。妹がいるんだよ。(※5)つまりさ、あんただって自分の妹がユダ公と一緒にいたら気に食わねえだろう? そういうもんなのさ。俺の妹が黒んぼとそういう関係になるのは見たくないんでね」

B「俺の妹はな……(モグモグ)。お前、やらないと誓うか? 俺の妹に手出ししねえな? 約束するか? 黒んぼはみんな、女をその気にさせる香水ってのを持ってるらしいな。本当か? お前もそんな香水を持ってるのか? うん、ぜひ家に招待したいんだが、妹もいるし、暗くなるとなあ(※6)……」


2017
年の日本でも通用してしまう人種差別ネタ

ベロワさんは翻訳と一緒に細かく注釈も作ってくれた。以下の通り。

(1)ジョー・ルイスは史上2人目のアフリカ系アメリカ人世界ヘビー級王者。ニックネームは「褐色の爆撃機」。世界王座25連続防衛の記録保持者であり、現在もこの記録は破られていない。
(2)黒人はみなドラッグをやっているという思い込みに基づく驚き。これに限らず、この寸劇全体が白人が考える黒人のステレオタイプのショーケースになっている.
(3)ヘブ(Hebes)はユダヤ人に対する蔑称。ヘブライ人(Hebrews)に由来
(4)黒人はみな賭博の常習者で刃物で喧嘩をするものという……
(5)特にアメリカ南部では、白人の女を性欲的に好む黒人に自分の妻や妹を犯されるのではないか、という恐怖心が根強くあり「レイプ・コンプレックス」とも呼ばれている。
(6)黒人は暗闇では姿が見えなくなり、それをいいことに……という、これもステレオタイプのイメージ。

この翻訳と注釈を読ませてもらい、レニー・ブルースの笑いの型を知った時、唖然となった。うっすら想像していたのとは逆に近い。極めてフェアだ。
黒人の法律上の平等を求める公民権運動が、アメリカ全体で大きな波になっていた時期のジョークである。ユダ公、ニガー(黒んぼ)と何度も言いながら、何よりもまっすぐに白人の無知から来る差別意識を撃っている。
同時に、日本での評価がいつまでも曖昧なのが分かった気がした。差別語を連発して世間を刺激した―そんな表面を浚ったカウンター・カルチャー的な賛意だけが、一人歩きし過ぎているのではないか。


しかし、ブルースの質の笑いはかつては確かに遠かった。ふた昔前なら「多人種国家アメリカならではの緊張感があるネタ」と冷静に解釈すれば済んでいたぞ。
ブルース演じる白人を日本人、ミラーさんをアジアの人と置き換えてみよう。50年以上前には際どかった切り口が、風化しているどころか、2017年の日本では通用し過ぎる位に通用する。がっかりするほど。

例えば、ネットのニュースを読んで韓国人キライ、とよく口にする女性が、懇談の場で会った男性がコリアンなのを知って絶句し、急に「あ、でも私、K-POPとか好きでしたよ」とトンチンカンに言い出す。
そんないたたまれない光景は、京都のラーメン屋に限らず、日本全国どこでも繰り広げられている。

「ニガーと言っちゃいけない? ケネディが演説で『ホワイトハウスで働く全てのニガーに感謝します』と言えば、途端に良い言葉に変わるさ。そしたら次に狩られる言葉はブギーか何かだろう」という発言でも知られるように、レニー・ブルースの芸風の根っこには、生真面目とすら言っていい公平性がある。
偽善を鋭く嗅ぎ取る嗅覚とそれを口にせずにおられぬ小児的な暴力性は、含羞によってバランスを保たれている。そこに今回、気付けた。

要するに「パーティーで白人が黒人と打ち解ける方法」は、ひとつの優れた掌編として味わうと、非常に物悲しいのだ。
俺は別に黒人なんか怖くねえ。仲良く話してやろうじゃないか……と余裕を示すほど、どんどんドツボにハマッていく。そんな〈白んぼ〉に対して、レニー・ブルースはギリギリのところで優しい。白も黒も、どっちもパーティーで話相手が見つからない同士。これを前提に会話が作られている。レニー・ブルースが古くならない理由は、案外、この〈ぼっち感〉がヘソかもしれない。

▼page3  ブルース、ディラン、ポール・サイモンに共通するもの に続く