ブルース、ディラン、ポール・サイモンに共通するもの
それにしても。LP1枚とはいえ、この年になってついにレニー・ブルースを勉強する日が来るとは。感無量だ。中学高校の頃から、ずっと憧れだけはあった。BIGな人達がさらに敬愛している存在だったのだ。
○ザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(67)。世界中の影響力を持つ人物が集まったコンセプトのジャケットの中に、レニー・ブルースがいる。一番上の列・左から4人目。
○ボブ・ディランに「レニー・ブルース」(81)がある。「彼の洞察力は早過ぎたのだ」と繊細なメロディでストレートに故人への思いを綴る、字余り暗喩番長にしては珍しいタイプの楽曲。
○サイモン&ガーファンクルの「7時のニュース/きよしこの夜」(68)。曲の中に、レニー・ブルース死去のニュース原稿を読み上げる声が入っている。同年の激しい「簡単で散漫な演説」でも「レニー・ブルースから真実を学んだ」と。
○ボブ・フォッシー監督、ダスティン・ホフマン主演の映画『レニー・ブルース』(74)。テレビの深夜劇場で見て、モノクロ画面の憂鬱さに殴られた。バイト代をはたいてVHSソフトを買ったのに、再見するのが怖くてそのままにした、僕にとっては特別にこじれた1本。この原稿も結局、見ないで書いている……ただ、話の焦点は本盤の後、猥褻罪を巡る戦いの頃だったと記憶している。
特に導かれたのはサイモン&ガーファンクル。「7時のニュース/きよしこの夜」の、2人の美しい歌声に大規模デモを指揮するキング牧師の動向、ベトナム戦争継続の姿勢を明らかにする政府の発表、そしてブルースの死のニュースが重なる、1曲まるごと対置法のアイロニーには相当シビれたし、今もこういう演出に強い憧れがある。
1968年には、アート・ガーファンクルが老人ホームを訪れ入居者にインタビューした録音が、「老人の会話」というタイトルでアルバムに収録されている。僕の聴くメンタリーへの執着は、かなりの部分、サイモン&ガーファンクルが原点なのだ。
こうして並べて検討してみると。大物達のレニー・ブルースへの敬意は、あくまで個人的な琴線の問題と思われる。タブーを破って権力に睨まれ、戦った。だから尊敬する―こういう事象的な、ジャーナリスティックな惚れ方をする人のほうが遥かに多かっただろうが。
先に紹介したネタと、同じユダヤ系のディランやポール・サイモンの作風は、どこか似ているのだ。
彼等のブルースへのシンパシーは、分からんでもいいところまで理解できちゃう(まだ何者でもない無力な時は抜け目無くセルフプロデュースできるのに、成功すると途端にそのコントロールに悩む)、ヤレヤレと溜息が出る面まで含めてのものではないか。
レニー・ブルースは映画の脚本家でもあった
前述した『やつらを喋りたおせ!』。これが実は、自伝として読む場合はそんなに面白くない。
猥褻罪裁判でヘトヘトになっている時に書かれたため(それに麻薬……)、全体を人間不信の憂鬱が覆っている。触れたくない点(妻との離婚、人気の低迷など)は避けているので、かえってバイオグラフィーが掴みにくい。なのに、あの高名な評論家が弁護に協力してくれたなどとつい強調して、いささかカッコ悪いことになっている。勝訴を目的に法律を頭に叩き込むのは、芸人としての勘にはプラスに作用しなかったのでは、とも思ってしまう。
その分、正直な書ではあるのだ。よく読むと、コメディアンになったのは除隊後の就職難のためで、ショービジネスへの意欲は二の次だったと分かる。野心を持ってコメディの世界に革命を起こしたというより、我流でやっていたら自然と波紋を起こす運命になったのが正確なようだ。
僕がほろりとなったのは、1950年代にハリウッドで脚本家契約していた時期があるんだと打ち明ける時の筆が、スタンダップ・コメディについて語る時より熱を帯びている点。
実際、短篇に関わったり、『THE ROCKET MAN』(54)という日本未公開の映画に共同脚本で参加したりしているのだが、それこそYouTubeでこの映画の予告編を見ると、少年が魔法の銃を手にして一家に巻き起こる騒動……といった感じの、ファミリー向け小品のようす。
それでも誇らしく書くということは。この人にとってコメディは通過点で、いずれ作家になりたい望みがあったのではないか、と想像が働く。
一方で、自分はコメディアンで終らないと明確に意識し、映画への転身に成功した人物がいる。レニー・ブルースと入れ替わるように人気を得た、ご存じウディ・アレン。
定説としては、スタンダップ・コメディアン時代のアレンは、ブルースの影響からは離れている。舌峰鋭く世間を相手にした結果、急速にキャリアを縮めた先輩を反面教師にするように、自分をひ弱な立場に置くぼやきネタを選んだと。
小心者のおどおどキャラは多分にペルソナで、素顔はかなり冷静なスポーツマン、なんてところまで踏み込んだフォスター・ハーシュの鮮やかな作家論『ウディ・アレンの世界 愛と性と死そして人生の意味』(堤雅久・沢田博訳/1981-1982 CBS・ソニー出版)にも、レニー・ブルースの名はほぼ出てこない。
確かに対照的だが、それでも僕はどうも、両者は通じている気がするのだ。
訳してもらった本盤の噺の中に、レニー・ブルースの一般イメージとは違い、攻撃的な風刺と無縁のものがある。せっかくなので、それも全文を紹介しよう。
▼page4 運命論的なネタの時は、まるでウディ・アレンのよう に続く