【Review】差別のなかで自身の根源的なルーツを切望する少女の過去と現在‐‐『サーミの血』 text大内啓輔

 (c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION

 『サーミの血』という題名だけを聞くと、本作が「サーミ人」という固有の民族をめぐる物語であると想起するかもしれない。自身もサーミの血をひくという監督のアマンダ・シェーネルが初の長篇映画である本作において自身の民族的なルーツを物語のテーマに選び、そして映画に登場するすべてのサーミ人には実際にサーミに出自を持つ人たちを起用するという徹底ぶりを知ったならば、この意欲作がサーミの民族的な歴史や価値観に対する何かしらの問題提起を含むものであると想像するのは、むしろ当然のことだろう。

 もちろん、それが一概にまちがいであるとはいえないし、少なくとも現代に生きる少数先住民族としての監督の立場を表明しはするだろう。しかしながら全篇をとおしてみると、それは部分的なことにすぎず、本作は過去と現在を往復する半世紀以上にわたる時間のなかで、自らの根源的なルーツを希求するひとりの少女が葛藤や困難に立ち向かうなかで成長してゆく物語であり、その境遇を普遍性をともなったすがたで描きだす。日本でも前回の東京国際映画祭で審査員特別賞と主演女優賞を受賞するほか、世界各国で高い評価を高めてきた。

 物語は1930年代、スウェーデン北部のラップ・ランド地方が主たる舞台となる。そこに昔ながらのトナカイとともに暮らす少数先住民族であるサーミ人の姉妹、エレ・マリャ(レーネ=セシリア・スパルロク)とニェンナ(ミーア=エリーカ・スパルロク)。彼女たちの「再会」から映画ははじまるが、その再会はおよそ半世紀以上は過ぎたであろう今、妹のニェンナの葬式という場で果たされることになる。

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 まだ明転していない画面のなか、ノックを繰り返しながら母親に呼びかける男(オッレ・サッリ)の声が響く。つづいて部屋のなか、ノックの音に気づいているものの気分を落ち着かせようとしているのか、神経質に煙草に火をつける老女(マイ=ドリス・リンピ)のすがたが映し出される。この場面だけでも、現在はクリスティーナという名をもつエレ・マリャが心を閉ざしていることを窺わせるが、その理由が直後の車内の場面で明かされる。

 その息子が運転する車のなかサーミの民族音楽を流しながら「母さんの生まれ故郷の音楽だよ」と話しかけると、彼女は「耳障りな音楽」であると冷たく言い放ち、サーミの人たちは「物盗りだしウソつき」で「口を開けば文句や愚痴ばかり」であり、自分が「あそこの人たち」とは何の関わりも持たないのだと、サーミへの徹底した拒否反応を示す。「サーミの血」をひくことは彼女にとって悲劇的な運命であり、乗り越えるべき障害だったのだ。

 この日は妹のニェンナの葬式であり、そのための帰郷であったことがわかる。妹はエレ・マリャとは異なりサーミ人として生き、その共同体で生涯を送ったのだろう、会場はサーミの言葉が交わされ、民族的な統一感が保たれている。同行した彼女の孫娘も民族衣装のコルトに着替えており、それを目にした彼女は耐えられなくなったように早々にホテルへ戻ってしまう。彼女にとって「サーミの血」とは忘れるべき過去なのだ。

 ホテルに戻り、冷静になった彼女は騒々しいクラブフロアを訪れるも、もう何も聴こえない。窓外の景色にトナカイ狩りにでかけるという親族らのヘリコプターを眺めているうちに、思い出すことを拒否していた過去の記憶へと誘われてゆく……。

 

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 さて、「サーミ」とはいかなる民族なのだろうか。現在ではノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシアの4カ国に分断されるかたちで存在するサーミ人は、トナカイ遊牧民として知られる。かつては「ラップ」と呼ばれていたが、現在では彼らの呼称を尊重して「サーミ」と呼ばれる(「ラップ」というとき、それは差別的なニュアンスを含むことも映画を通してわかる)。およそ7万5000人ほどがいるとされ、ウラル語族に属する。百科事典的な説明ではこうなるが、彼らの特徴は、伝統的な歌であるヨイクや色彩の美しさで知られるコルト、代名詞ともいえるトナカイの遊牧など画面を通して知ることができる。監督がいうように「サーミ文化を学ぶための教育映画」ではないにせよ、未知の観客にとっては忠実に再現されているディテールはたいへん興味深いものとして映る。

 十数世紀の歴史をもつサーミ人だが、1800年後半から同化政策、1900年以降にはスウェーデンでは人種生物学の影響から分離政策の波に飲まれることになった。1913年には、トナカイ飼育業の児童を公立の基礎学校から排除すべく寄宿学校が設立された。これが映画の舞台となる、少女たちが通う学校である。

 そして80年代から90年代にかけて、先住民族の権利に対する政策の見直しが行われた。今ではトナカイ放牧に携わる人口はサーミ人の1割程度だとされ、民族衣装を着ることや狩猟採集を行うことは少なくなっているという。エレ・マリャが少女時代を過ごした30年代は、多数民族社会から偏見や差別を強く受けた時代であり、その後の権利回復までの揺れ動く価値観のなかにあったといえる。

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 若かりし日のエレ・マリャが生きたのは、サーミ民族への激しい差別や偏見に晒されていた時代である。妹とふたりで舟を漕ぎ、林を抜けてはじめて寄宿学校を訪れるときからすでに、彼女たちは向けられる奇異の視線に無自覚ではいられず、とりわけ彼女たちを「捕まえれば賞金が出る」のだと笑いものにする若者たちの振る舞いはきわめてショッキングである(この場面では文字通り「サーミの血」が流れる)。そして同時に、現在においては当然に非人道的とされる差別的な行為が、歴史をとおしてサーミ人に限らず、あらゆる人種に対して理由付けをもって行われてきたこと(サーミの場合、科学的に「特異な人種的特徴」をもつとされ、分離政策の対象となった)、人類が発揮する普遍的な暴力性であることも示しているだろう。

 物語を通して強調されることは、彼女が受ける差別的な暴力というのが直接的に身体に与えられるものとともに、さまざまな場所で眺められ、「観察」される対象として扱う「視線」によってもたらされるものだということだ。そうした暴力視線の極致は、生徒たちが「身体検査」をされる場面である。クラスの優秀な生徒であるエレ・マリャが代表して骨格や歯などの身体のサイズや健康状態が乱暴に検診される。つづいて全裸になることを強要され、写真に収められるときのフラッシュの閃光は、攻撃的な視線をむき出しにする。その一連の様子は科学的な研究のために観察して記録するようであり、本人の意思など不問にしてよいのだという傲慢さに満ちている。さらに窓の外には「身体検査」の一部始終を覗き見する若者たちがいる。エレ・マリャが望むのは、こうした「観察の視線」から解放されることなのだ。彼女は思う、共同体から逃れることが最善の解決策にちがいない。しかしながら、それらの視線がサーミの共同体から抜け出たあとにも付きまといつづけることを、彼女はまだ知らない。

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 自身に「サーミの血」が流れていることによって差別されていることを自覚したエレ・マリャにとって、自分が属する世界の「外」へと飛び出したいと願うことは自然なことかもしれない。そんな彼女に「外」の世界を垣間みせる人物がふたりいる。ひとりは寄宿学校の教師であるクリスティーナ(ハンナ・アルストロム)であり、もうひとりは彼女が思いを寄せるニクラス(ユリウス・フレイシャンデル)である。

 この女性教師からは聖書をはじめとする勉学や教育、教師という職業、ひとりの女性としての生き方を教えられ、エレ・マリャは彼女をモデルとして「人格形成」に決定的な影響を受け、新たなアイデンティティを獲得していく。そのことは、エレ・マリャがはじめてサーミの共同体を抜け出してダンスパーティへと向かうときに彼女のワンピースを無断で拝借し、さらに名前を訊ねられるととっさに「クリスティーナ」と名乗ることではっきりする。装いを変えること、それは視覚的に「変身」することであり、「血」は変えることはできないが、服装は変えることができる。衣服を変えることでアイデンティティも新たに規定される。その結果、彼女は「外」へ飛び立つための切符を手に入れるのだ。

 そして、ダンスパーティの場でエレ・マリャに名前を尋ね、「切符」を与えるのがニクラスという青年である。一時的な滞在なのであろう軍服を着た彼はダンスパーティに彼女を誘い、やってきた彼女とダンスをして彼女とキスをする。もともとの彼の誘いが気まぐれでしかないのかどうかはさておいて、エレ・マリャが夢見るニクラスとの関係が、きわめて甘い「ロマンス」的であるとはいえるだろう(彼女が首都へやってきたのちの物語を成功譚として描けば「ワーキングガール」を主役としたメロドラマになりそうな設定でさえある)。

 ともあれ彼女は服装と名前を変える(借りる)ことで「サーミの血」から逃れ、ひとりの個として生きることを決意する。鉄道に乗り込み、大都市ウプスラへと向かう。その切符が片道切符なのかどうかは、彼女もわからない。ただ、言語的な能力や「クリスティーナ」としての戸籍の問題など、さまざまな困難が待ち受けていることはまちがいない。

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 エレ・マリャ=クリスティーナがはじめてウプスラを訪れたときの静謐なひとときは、ウプサラの街なみを印象的にとらえたシンメトリックな画面構成と、言葉を発さないにも関わらず饒舌な彼女の表情によって美しく感動的な場面である。彼女は街を歩いたあと、意を決してニクラスに教えてもらった彼の家を訪ねる。ニクラスとの生活が保障されていると信じていたエレ・マリャだが、もちろん現実は甘くない。しばらく泊めてもらうあいだ、書物やピアノ、電話機などに静かに触れて喜びを感じるエレ・マリャ。だが、彼女が手に入れた彼との恋人関係はかりそめのものにすぎないようだ。ただ、憧れていた学校にも通うことができるようになっていく。

 これ以上は物語の筋を詳述することは避けたいと思うが、名前と出自を偽った少女がひとり上京することを考えるとその困難は想像に難くないだろう。ここで重要なのは、新しい人格を手にした彼女がなおも、「観察の視線」から逃れることができないことである。ニクラスの誕生日会に招かれた場違いな彼女がにわかに注目を浴びる場面で、彼の友人たちにヨイクを歌ってほしいと懇願される場面がある。もちろん彼らは好意で口にしているわけだが、そのうちのひとりが酷薄にも「私たちは人類学専攻なの」と口にする(さらにはヨイクをヨーデルといい間違う)ことで、彼女はサーミという属性から逃れられないこと、そして好意の視線と差別のそれとは根を同一にしているということを知るのである。

 ただし、そうした視線の力学は寄宿学校での生活のときからすでに仄めかされていたのだった。というのも、エレ・マリャがサーミの共同体から逃れようとする場面で、姉を止めようとする妹に対して「ラップ人」と軽蔑をこめて呼ぶのである。ここでエレ・マリャは、彼女たちを差別してきた視線とにわかに同化してしまう。つまりこの場面において、エレ・マリャにとってサーミ人であり続けるか、あるいはサーミ人を差別する視線と同化するかしか、彼女には選択肢として用意されていないことが予告されていたのだ。彼女はふたつの世界の狭間で揺れる。その選択を迫られる彼女のアンビバレントな感情を現出する顔つきは、言葉ではなく俳優の演技や表情で語らせようとする本作全体の性格のなかでもとりわけ素晴らしい。

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 民族的な差別を受けながらもエレ・マリャは「クリスティーナ」となって教師の職に就き、孫娘を授かっていることが、老年に差し掛かった彼女から窺い知れる。もしも彼女が半世紀生まれるのが遅ければ、彼女はもっとスムーズに自己実現を達成していたのだろうか?あるいは、彼女の一世代下の息子のように、時代や性別が異なればもっと豊かな生活を望むことができたのだろうか?そう問うことは野暮なのかもしれない。ただし、彼女がウプサラに着いて、生きるためにニクラスの家の家政婦にしてくれと頼んでいたことからも、サーミ人であることとともに女性であるという条件が彼女の生きる道を険しくしていたことはまちがいない。

 本作を鑑賞するほとんどの観客は、サーミとは遠い場所で生きているはずだ。そして映画を通してエレ・マリャに共感してきた観客たちは、彼女と同様にふたつの感情で揺れているはずである。サーミの民族的な表象や特性に対して「人類学」的に関心を抱くとともに、民族的な人格をこえて彼女の普遍的な人間、ひとりの女性として自分の居場所や生き方を見つけることを願うこと。常にそのふたつの思考のレンズを通して、私たちは彼女を眺めるのだろう。

 監督によれば、彼女の一族のなかにもサーミのアイデンティティを変えた者と留まった者の対立がいまだに根強くあるという。映画のエレ・マリャとその息子の関係は、ごく単純に構造化すれば、二項対立を体現しているといえる。現在も進む近代化のなかでかつての暮らしを続けることが難しくなり、新たな問題を抱えていることは、ホテルでエレ・マリャと同席した観光客が苦言を呈していたとおりである。

 そのとき、その二項対立に囚われない選択肢こそ、無垢な存在としての孫娘が体言しているのだといえるかもしれないと思い至る。彼女からは二世代下の、回想のエレ・マリャと同じくらいの年頃であるだろう孫娘は、現在、伝統的なアイデンティティを豊かに表現し、現代社会に生きる新たな世代に属している。エレ・マリャの過去への旅が終わったとき、その思いが新たな世代へと掛け渡しされることで、彼女は救済されるだろう。本作が、サーミという個別の民族に属するひとりの人間を描きつつ、その問題を普遍化する力をもった、豊かな表情をもつ女性の物語であるのだと断言してみたい。そして何よりも、その表情によって雄弁に思いを伝える少女の表情が、言葉少なだからこそ語られるべき物語があると、たしかに伝えてくれているのである。

(c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION

 

【作品情報】

『サーミの血』
(2016年/スウェーデン、ノルウェー、デンマーク/108分/南サーミ語、スウェーデン語/原題:Sameblod/DCP/シネマスコ―プ)

監督・脚本:アマンダ・シェーネル 音楽:クリスチャン・エイドネス・アナスン 出演:レーネ=セシリア・スパルロク、ミーア=エリーカ・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ、ユリウス・フレイシャンデル、オッレ・サッリ、ハンナ・アルストロム 後援:スウェーデン大使館、ノルウェー王国大使館 配給・宣伝:アップリンク

2017年9月16日(土)より新宿武蔵野館、アップリンク渋谷ほか全国順次公開

【執筆者プロフィール】

大内 啓輔(おおうち けいすけ)
早稲田大学大学院修士課程修了。論文に「リヴェット的反復 『セリーヌとジュリーは舟でゆく』をめぐって」、「ウディ・アレン『アニー・ホール』におけるオートフィクションの様相」など。