【Book Review】制作と批評が織りなすドキュメンタリーの公共性——金子遊『ドキュメンタリー映画術』text 中根若恵

世界との回路としてのドキュメンタリー

昨今のドキュメンタリー映画界が見せる活況についてはことさら論じるまでもない。世界中で多くのドキュメンタリーが生み出され、劇場や映画祭でそれらを目にする機会も増えた。個々の作品に目を向けてみれば、つくり手が対象と距離をとる観察的なドキュメンタリーや、逆に制作者が対象に介入していく作品、そしてときには虚構と現実の境界を曖昧にした表現など、その幅の広さにも目を見張らされる。

量的・質的にかつてない高まりを見せるドキュメンタリーは、カメラによって切り取られ、編集によって再構築された「現実」を提示する。そこで私たちが目にするのは、大自然の驚異や異国の紛争、そしてときにはある家族の過ごす親密な空間など、この世界のどこかにある現実の一片だ。ドキュメンタリーがもたらすのは時間・空間の物理的な制約を超えて、私たちの見る/知る経験を拡張する体験であり、そこにあらわれるのは私たちと世界をつなぐ回路だといえる。そう考えれば、ドキュメンタリーのつくり手たちが担っているのは鑑賞者と世界をつなぐという途方もなく重大な役目だということに改めて気づかされる。

では、ドキュメンタリーを世界との回路として考えるとき、私たちはいかにそれらに向き合えばいいのだろうか。そして、つくり手たちはどのように創造行為を営めばいいのか。

金子遊『ドキュメンタリー映画術』(2017)はまさに、そうした問いを出発点にドキュメンタリー映画への思索へと私たちをいざなう論集である。批評家・映像作家として活躍してきた著者の領域横断的な関心によって成り立つ本書の構成はユニークだ。その前半部は、羽仁進や羽田澄子をはじめ、足立正生や大津幸四郎、鎌仲ひとみといった幅広い世代の映像作家へのインタビューによって構成されている。それに対して後半部に収められているのは、著者がこれまでに様々な媒体で発表してきたドキュメンタリー映画批評である。

 

ドキュメンタリー映画人たち——多様な方法論と多層的な歴史

対象となる映画作家や作品は、その手法から生み出された背景まで多岐にわたっており、読者はまず、その方法論や表現の多様さに驚嘆するだろう。しかし、本書でとりわけ興味深く感じたのが、個々の「点」として存在するかに見える証言や批評がピースのように組み合わさることで、その「あいだ」に多層的な歴史が描き出されていることだ。例えば、前半部のインタビューに注目してみれば、羽仁進や羽田澄子らの語りは戦後間もない日本の混沌とした空気を伝えつつ、熱気に満ちた岩波映画の草創期を立体的に浮かび上がらせる。それに対して、岩佐寿弥や大津幸四郎らの証言は高度経済成長の影響下、大企業の委託事業に専念する方針へ転換していった岩波映画と、社を去り独自の道を進んだ小川紳介らの動きに言及する。そこから浮かび上がるのは60、70年代の社会運動とドキュメンタリーが取り結んだ共闘のかたちだ。

足立正生がドキュメンタリーを媒介に志向した革命思想もそうした時代の熱気を共有している。しかし一方で、そのキャリアの最初期に完成させた前衛映画『鎖陰』(1963)に関する証言は、革命家・前衛映画作家としての足立のキャリアの特異性を浮き彫りにしながら、当時のアートシーンを席巻した実験映画の勢いを描出する。それと同時に、実験映画における個人映画の水脈を語る大林宣彦の証言は、足立らの革命的思想とは距離をとり、私的な世界へと焦点化する高林陽一らの試みに注目することで、単一のカテゴリーに集約できない実験映画の表現の重層性を伝えている。

他方で、のちにグループ現代の創始者となる小泉修吉は主流の政治闘争やアートシーンとは距離をとりつつ、人々の日常的な営みを出発点に、農薬被害などの環境問題を訴えてきた過程を語る。持続的な活動のなかでグループ現代が確立した自主上映の方式は、市民運動とドキュメンタリーをつなぐ重要な基盤として定着することになった。2000年代以降、精力的に活動する鎌仲ひとみの反原発のアクティビズムがまさにそうした市民の上映ネットワークを経由して広がってきたことを考えれば、世代を超えた実践の軌跡に感慨を覚える。

同時に、幾人かの作家の証言は「日本」という枠組みの自明さを揺さぶりながら境界上の問題を浮かび上がらせる。日米関係に翻弄され続ける沖縄に生まれた高嶺剛は、歴史的な沖縄問題に接続させつつ作品制作の根底に流れる自らのアイデンティティの揺らぎを語る。また、イラクで取材を続ける綿井健陽は地理的には日本から隔たったイラクの惨状は、しかし、アメリカを中心としたグローバルな国家覇権へのプレゼンスに固執する日本の私たちとも連続した問題だとほのめかす。

ドキュメンタリー映画論——映画を媒介にした公共性へ

ここで紹介したのはほんの一部に過ぎないが、作家たちが自らの表現と時代を語る証言の数々はドキュメンタリー史の重厚さのみならず日本の現代史の様々なシーンを鮮明に浮かび上がらせる貴重な記録となっている。その一方で、後半の批評パートではさらに著者自身の個人史を振り返る視点が導入され、個人的な経験とドキュメンタリー映画との交わりを起点に、イラク戦争の問題から東日本大震災、原発問題、そしてときにはジャパニーズ・ロックの歴史まで幅広いトピックが論じられている。

後半部を貫いていると私が感じたのが、ドキュメンタリー映画の批評的可能性への注視だ。そこには複雑な様相を呈する社会問題へとドキュメンタリーがいかにコミットできるかを問う姿勢が一貫している。例えば、「不寛容な世界に抗するドキュメンタリー」と題された節では、欧州で高まる移民排斥ムードへと批判的な目を向ける映画群を取り上げ、他者への不寛容さや想像力の欠如に対抗するドキュメンタリーの可能性に注目する。

また、『なみのおと』(2011)をはじめとした震災ドキュメンタリーを扱う節では、震災のもたらした過酷な現実やその表象不可能性と向き合うためにドキュメンタリーが果たしうる役割を考察している。多種多様な映画実践を横断しつつも著者の視点には、ときには忘却に抗い、ときには現実に対する新たな認識を形づくる契機をもたらしてきたドキュメンタリーの批評性への関心が一貫しているのである。

同時に、ここで論じられる映画の批評的可能性はドキュメンタリーへの存在論的考察によって補強されている。例えば、「ハンディカム・ドキュメンタリー宣言」と題された節で著者は、テレビドキュメンタリーとの差異に注目しながら、映画のメディア特性を活かした方法論に言及する。経済性を重視するテレビの現場では忌避されがちな長期間の取材やデジタル化の流れにあえて逆らい選択されたフィルム撮影など、ドキュメンタリー作家たちが採ってきた方法に触れながら強調されるのが、作品の基盤となる制作者自身の「映画的視点」の重要性である。つまりそれは、ドキュメンタリーの核となる映像作家の「主観」に裏打ちされた観点だ。

とはいえ、著者が言うようにテレビの現場ではつくり手の裁量が制限される傾向がありつつも、放送業界ではタブー視されてきた暴力団を追いつつ、人権をめぐる問題を問う『ヤクザと憲法』(東海テレビ制作、2016)をはじめ、扱いづらい題材を取り上げてきたテレビ局の興味深い取り組みにも注目する必要があるだろう。とくに昨今では、テレビが放映したドキュメンタリーの再編集版を劇場で公開する取り組みも一般化しつつあり、建築家の老夫婦の生活を追う東海テレビ制作の『人生フルーツ』(2017)のヒットは記憶に新しい。こうした事例を検討してみれば、テレビドキュメンタリーの領域でも、つくり手の批評性が発揮される可能性は存在していると考えられるのではないだろうか。

しかしここで、ドキュメンタリーの批評的可能性に関わってくるのは、つくり手の姿勢だけではない。本書が最終的に志向するのは、ドキュメンタリーを見る鑑賞者、そしてそれを論じる者を含めたあらゆる立場の人々によって構成される批評的空間=公共性の創出である。ドキュメンタリーは単に完結したテクストとしてのみ存在するわけではなく、それを批評し議論する場のアクチュアリティによって新たな文脈へと接続される。新たな意味を取り込むことで有機的に変動する知のかたちは、著者が述べるように、ドキュメンタリーの批評媒体であるneoneoが目指してしてきた方向性でもあるだろう。

2001年からかたちを変えつつ継続するneoneoに長年関わる著者が注目するのは、商業的媒体では取り上げられづらいドキュメンタリーを積極的に論じてきた、その対抗的な公共性だ。終わりのない戦いの連鎖、格差・貧困問題や環境汚染など、ますます多様化・複雑化していく社会問題を前に、ともすると無力感にさいなまれ口をつぐんでしまいそうになる。しかし、そのような状況だからこそ必要とされるのが多様な意見の交流を可能にするオルタナティブな公共性なのではないだろうか。

もちろん私たちはドキュメンタリーが歴史的にはらんできた負の側面——写し取る行為の加虐性や、見る行為の窃視症的側面、そしてときに人々をあらぬ方向へと扇動する映像の情動的作用——へ十分に反省的になる必要があるだろう。しかし、蓄積された歴史へと批判意識をもって向き合えば、広範な人的・物的ネットワークを媒介するドキュメンタリーというメディアは、新しい公共性を構想していくための重要な基軸となるのではないだろうか。その意味で、オルタナティブな公共圏への参加を私たちに呼びかける本書は「ドキュメンタリー映画術」というタイトルとは裏腹に、つくり手だけではなく観客、批評家、そして研究者をはじめドキュメンタリーに関わるあらゆる人々へと開かれているのである。

【書誌情報】

『ドキュメンタリー映画術』

金子遊著
定価:2700円+税
刊行:2017年9月7日
判型:A5
発行元:論創社

ISBN 978-4-8460-1639-5

http://ronso.co.jp/book/ドキュメンタリー映画術/

【執筆者プロフィール】

中根若恵(なかね・わかえ)
1991年生まれ。名古屋大学人文学研究科博士課程在学中。専門は映像学とジェンダー論。論文に中根若恵「作者としての出演女性——ドキュメンタリー映画『極私的エロス・恋歌1974』とウーマン・リブ」(『JunCture 超域的日本文化研究』7号、2016年)、中根若恵「親密圏の構築——女性のセルフドキュメンタリーとしての河瀨直美映画」(『映像学』97号、2017年)