少し前までneoneoの編集に関わっていたので当然かもしれないが、僕の周りにはドキュメンタリー映画を作ったり配給したり宣伝したりする人間が割と多い。そして彼らの間では、『恋とボルバキア』の構成がよく話題となる。
もちろん誰もが、この作品の一番の魅力は登場人物それぞれだと了解している。自分の性の語りにくさと葛藤し、受け入れながら、人との関係や恋に対して適切な感情の置きどころを探す日々。それを見て温かい気持ちになったり、心の奥の寂しさを揺さぶられたりしている。現在好きな人との距離について、改めて考え込んでしまうことも。
その上で自然と、構成がどうこうという話になるのだ。
男か女かと簡単には決めつけがたい人が次々と出てくる。ところが、群像劇の中で軸となる人物は設定されておらず、向かうべき具体的ゴールもない。つまり、見ている人の気持ちをスムーズに寄せていく〈目線〉が排されている。気持ちがどこに運ばれていくのか分からない、不安定な感情をある程度強いた作りになっている。
この思い切りに感嘆させられつつ、組み立てが漫然なのでは? と戸惑う人は戸惑った。10月の「山形国際ドキュメンタリー映画祭2017」開催中も、上映作品ではないのにあちこちで議論の対象になっていた。
『あゝ、荒野』(17)など、劇映画でめざましい実績をあげている真っ最中の脚本家・港岳彦が「構成」でクレジットされている。監督の小野さやかと彼は、
・フジテレビNONFIX『原発アイドル』(12)
・フジテレビNONFIX『僕たち女の子』(13)
・映画『恋とボルバキア』(17)
で三たび組んでいる。どんな共同作業をしてきたのかを中心に、二人に話を伺った。
ドキュメンタリーは事実を映すものであって、脚本家が加わるなんて邪道だ。もしそう訝しむ人がいたならば、ぜひ少し時間をかけて読んで頂きたいです。
(取材・構成/若木康輔)
2017年 『恋とボルバキア』(1)
―構成は50稿書きました
――『恋とボルバキア』は良かったけれど構成をとりとめなく感じる、という声がちょくちょくあって。僕もそうなのかな……と初見では思っていたのですが、再見したら印象が全く逆に。見事な構成だと唸りました。
「大事な人ほど距離を置く」という王子とあゆの関係がまず提示され、次に出てくるのが、片思いをしているみひろとその相手・井戸さん。次は、カップルになっているじゅりあんとはずみ。そして、独力でコミュニティを作っている魅夜のエピソードになる。7人は、それぞれの性のモデルケースとして以上に、相手との関係を通して自分と向き合う者として段階的に登場しますね。
この4組の葛藤や成長が、一子さんの挿話を挟んで三幕劇のようにしっかり組み立てられている。どこのチェーホフかと思ったぐらい。
港 ええ、まあ、全て僕の力ですね(笑)。
小野 結論、早い!
――もとは、王子やみひろ、一子さんら映画と同じ人物が登場する『僕たち女の子』が原型。その後も取材は続き、4年後の今、内容の似て非なる『恋とボルバキア』になった。
小野 4年の間に構成を50稿は作り直しました。面白いストーリー・ラインを作ろうとすれば、もう無限に作れる位の素材量がある。その中からテーマを決めて、性別の揺らぎの問題に絞ったんです。
化粧の場面だけを並べてみたり、幕間に入る〈INTERMISSION〉をお客さんへの化粧タイムとして入れてみたり、フィクション性を立たせるためにテロップでTake1、Take2と打ってみたり。構成でどれだけ遊べるかは港さんと一緒にかなりいろいろ試しましたね。
港 凄まじい量の素材があるし、しかも登場人物の数が多い。巧みに構成していけば何がしかの答えに向かっていく作りに出来るのでは、とも思ったのですが、そこでネックになったのは……ネックという言い方もおかしいですけど、彼女―小野監督が「一人も外さない」と。
普通に考えたら、この人とこの人をオミットしてこうしよう、といった意見に誰でもなると思うんです。せいぜい三組に絞って考えた方が合理的。
小野 まあ、そうですよね。
港 でも彼女は「絶対にそれは違う。取材してきた人は全部入れる」。それで、それぞれの性の揺らぎが複雑だと、構成的には収拾がつかない。
長期間にわたって話し合い、いろいろな構成のヴァージョンを検討した結果、いったんは、ひとつひとつ懇切丁寧にナレーションで説明しようという方向に落ち着いたんです。ああ、やっと一段落だな……と思っていたら、彼女が「一週間ください」と。すると一週間後に今までの構成を全て壊した、見たことのないヴァージョンを持って来て。
プロデューサーの橋本佳子さんと二人で半ば呆然となって見ていたんですけど、橋本さんも凄くて、途中で「これ、ナレーションなしでも行けるんじゃないの?」と。
情報量を詰め込むんじゃなくて、引くっていうやつ。ただ映して、見る人に委ねるって方法論ですね。公開されている完成版は、そのヴァージョンがベースなんですよ。ナレーションなしでこのまま行くのならお役御免だな、ラッキーと思っていたら、「やっぱりいるかも」となって、再び沼の中に……だったんですけど(笑)。
だから、チェーホフみたいだと言って頂きましたけど、実は僕、何もやっていないんです。
小野 いやいや、ゼンゼンやってもらってます。今まで見たことのないドキュメンタリーを作ろうというのが常に念頭にあったので、構成を考えるたびにとんでもなく頭を使うんですよね。凄くいいのに完成版にはないシーンだって一杯あるし。その間、ずっと港さんと話し合って進めることが出来ましたから。
――時間経過の間の、画面にない部分がとても豊かです。例えば、一度は失恋して泣いたみひろがそれでも井戸さんを好きだと力強く言う時、二人にどんな時間の熟成があったのだろうと想像させる。そこも、構成を練って練って出た良さかな。
ドキュメンタリーなのにストーリーのある恋愛映画のように見える、という声があったら、この映画の場合は全て誉め言葉だと思います。
『恋とボルバキア』より
2013年 『僕たち女の子』(1)
―当初は、提案を受けての仕事でした
――小野さんと港さんが初めて組んだのは『原発アイドル』で、次作にあたる『僕たち女の子』も、小野さんが港さんに共同作業を依頼した。それだけの信頼関係をすでに築けていたのですね。
小野 はい。それに、『僕たち女の子』でまた港さんに依頼したのにはもう一つ理由があるんです。
港さんが賞を貰った脚本(『僕がこの街で死んだことなんかあの人は知らない』98・シナリオ作家協会主催大伴昌司賞)が、バイセクシャルを主人公にしていると聞いていたから。
もともとは、当時所属していたLADAKという製作会社の社長・清末亀好さんの提案です。「女装ブームを題材にしてみないか」と。その時は自分の中にも表面的なイメージしかなくて、仕事として受けたという感覚だったんです。でも、このテーマなら港さんの中に何かしらの必然性はあるんだろうな、本職が忙しくても引き受けてくれるだろうな、と思って。
それに……私の勘違いだったんですけど、港さんには男性との経験があると何年も思い込んでいたんですよ。あまりにも出演者たちに対して理解の幅があったので。
港 ああ、それ思い出した。こうした題材の素材に根を詰めて向き合っていると、かなり混乱するんですよ。あまりに多様な性があって。それで僕もとうとう、素敵な老紳士とベッドを共にする夢を見たんです。でもその話を彼女にしたら、しばらく黙っちゃって。「……でも、そういう経験はあるんでしょ?」 何年もそう思ってたって言われて、こっちが驚いた。
小野 待ってたんですよ。いつか話してくれる日が来るだろうと思って……。
――当初は仕事として受けたと言いつつ、こうして何年も粘って映画にまでする。港さんから見たら、小野さんはどういう作り手ですか。
港 凄まじいほどの戦略家であり野心家であり、一方で観念の塊。化け物めいたところがある。
大袈裟に言うと、かなり哲学的な考えを持っている人です。ただ、それを言葉として聞くと破綻しているようにしか受け取れない。どうやらそこを汲み取るのが自分の仕事なんだな、と途中で悟りました(笑)。
あらゆる素材を、批評性を持って狙って撮っていますからね。人を追いかけているうちに自然に撮り溜まった、という意味の素材とは全く違います。何気ないショットにも、ある象徴を込めているとか。
ただ、惜しむらくは彼女は、たむらまさきではない(笑)。一発で象徴が読み取れない素材ばかりなので、「どうして分かんないんだよ!」という本人の暴力的な解説付きで見るしかない(笑)。
小野 『僕たち女の子』は予算の都合や題材のデリケートさもあって、メインカメラは私だったんです。その頃、港さんに言われて一番しんどかったのが「絵のクオリティが低すぎて耐えられない」。
港 そんなこと言ったっけ。
小野 メチャクチャ言うんですよ! 「うわーヤダな。これ撮ってきたの誰?」(笑)。そのたびに自分だからグサグサ、グサグサ刺さる。でも私の撮ってきたもので進めざるを得ないから、恥ずかしいのを堪えて「これでやりたい」と見せるしかない。半分死ぬ思いでやってました。『原発アイドル』の時は人のカメラだから、私も便乗して「撮れてないじゃん」なんて言ってたんですけど(笑)。
言われるのがこっちになった途端、現実の空間を取り入れながら他者に伝わる画を撮ることが、いかに大変なのかがよく分かった。
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