【Interview】『恋とボルバキア』喧嘩は散々した4年間でした~小野さやか(監督)・港岳彦(構成)インタビュー


2017年 『恋とボルバキア』(2)
―プロデューサーは小野さやか以上にモンスター

――『恋とボルバキア』の話に戻ります。先ほどもお聞きした通り、『僕たち女の子』とは骨組みから変えていくことを一から始めたわけですが、その決断は、映画化の段階からプロデューサーになった橋本佳子さんも含めて?

小野 そうですね。『僕たち女の子』が『恋とボルバキア』になるまでには、橋本さんの存在は大きいです。プロデューサーが代わると、こんなに変わるのかという。

 橋本さんはねえ。小野さやかという女傑、モンスターがいると思っていたら、もっと凄いモンスターがいたという感じ(笑)。地下にあるドキュメンタリージャパンの会議室に呼ばれた時は、えらいところに来ちゃったなと思って。とにかく頭の回転が速い。速過ぎるほど。

小野 うん。そう。

 橋本さんの情報処理のスピードに、こっちが追い付かないんです。こんなに頭のいい人見たことないって位。それまでは小野さやかがガーッと言うとみんな圧倒されていたんですけど。橋本さんは、彼女のガーッをいちいちバットで叩き壊す(笑)。

小野 橋本さんの存在は大きいと感じたのは、プレビューの時でした。そのたびに、全く違う解釈を持ち込んでくるんです。例えば、あゆちゃんの妹が登場する場面で「この子は男の子なの?」と質問してくる。妹だし、見る人も妹と了解するだろうと疑いもなく思っているところに、全く別のアングルを差し出してくるんです。ギョッとします。
私と港さんがストーリーにグッと入り込んでいる時に引かせて、素材を素材としてしか見られなくなっていることに気付かせてくれる。そういうのが凄く上手で。
港さんに対しても、実績のある脚本家だから云々は抜きに、それであなたはどういう人なの? とゼロから関係を築き上げていって。緊張感がありました。

 緊張した緊張した。今でも緊張する。

小野 橋本さんの凄さは二人とも、いつも肌で感じています。

 それだけあの方は強烈なキャラクターを持ちながら、究極はこっちに委ねる。表現を尊重するんです。ここは絶対に譲れないというところで、スッと「じゃあいいよ」。あの度胸は、なかなか無い。

小野 でも、何度も改稿した中で、橋本さんがうんと言わなかった構成が一つあって。ボルバキア主観のナレーションを書いてくれって、港さんに頼んで……。

 突然、この人が「これはSFドキュメンタリーだ!」って言い出したんですよ(笑)。また新しい観念が暴走し始めた、「いやー、そういうのはやめたほうが……」って言ったんだけど、とにかく書けと。

小野 宇宙からやって来たボルバキア星人が、登場人物を見ながらノリツッコミをしていく展開です。結局は港さんと話したのを基に、私が書いてみて。

 プレビューした時のことは忘れられないもん。「よーし、これから地球を征服するぞー」みたいな明るいナレーションを読み上げる彼女と、橋本さんの表情。どんどん重い空気になる中で響くエアコンの空調音(笑)。

小野 前の晩まで「これでいける!」と盛り上がりまくってたんですけど、耐えられなくなって途中で読むのをやめて。橋本さんが「じゃあ、やめよっか」(笑)。でも、自分の中では大切なナレーションで、今も本棚に仕舞っています。未だに、あれが実現できたらなあ、と惜しむ思いは少しある(笑)。

――でも、未知の存在を設定する発想になる、その回路も分かる気がします。小野さん自身が、登場人物に共感ベースで会いに行ってはいないから。
『恋とボルバキア』への映画マスコミの反応は、少し重たいらしい。僕なりに理解は出来るんです。作品の良し悪しとは別に。ホルモン投与を勧められている人の性別、レズビアンと女装家の違いなどをもしも間違えて書いたら当事者を傷つけてしまうのでは……と考えると、僕だって腰が引ける。

 分かります。だって僕、『恋とボルバキア』というタイトルにはずっと反対していましたもん。これで行くなら下りるとまで言った。宿主の性を転換させる生物だから象徴的だと言っても、バクテリアの一種ですからね。この人たちにそんなタイトル、絶対に付けてはいけない。
ところが対象者の反応は違ったんですよね。そこは現場で直接会っていなければ分からないものなんだなと。僕もそれこそ傷つける「のでは」と、倫理的な意味で反対していたから。でも、やはり反対していた橋本さんも終盤には納得して。

     
『恋とボルバキア』より

2017年 『恋とボルバキア』(3)
―登場人物と関わってきた4年間なりの答え

小野 男女の性別やLGBTQではない観念で、登場人物たちを捉えたかったんですよね。観念という言葉は、実は私は引っかかるんですけど。映画学校時代、「観念で作るな。観念で作るうちは向いてないぞ」と言われ続けたから(笑)。
ただ、4年間も関わってきたんだから、その4年間なりの自分たちの答え、イメージを掴まないと撮ってきた意味が分からなくなるな、と思ったんです。
そんな時に聴いて凄く良かったのが(映画の挿入曲になった)MILKBARの「Bacteria」。それでバクテリア、性別などのワードで検索しているうちにボルバキアの存在を知って。凄くしっくり来たんですよね。具体的に細菌としてのボルバキアのここが、というより、あまり知られていない生命体を介すれば沢山のイメージがつながるな、というところが。それ位ぼやけているほうが、性別に対する答えを訳知り顔で出されるよりもこの映画には良かったと思っています。
答えが見つからないまま提示しよう、ということは、橋本さんと3人で話し合っている時に決めましたし。

――面白いのは、8人を撮っている空気がそれぞれ違うと感じるところです。一人で生きていくと決めている王子とカメラの間には、あるピンとしたものがあり、迷っている魅夜に再会した時には、ほっとけない友達を見るような近しさがある。
それぞれの心情や状況の反映だとは思うけど、撮っている小野さん個人の悩みや人恋しい感情なども、8人を通してあぶり出されている気がします。『アヒルの子』とは別の形で、『恋とボルバキア』も小野さやかの自画像かもしれない。

小野 うーん。そういう意識はあまりないです。自分の中の物語の範疇ではないものも撮っています。自分の描きたいものだけ純粋培養で作ったわけではなくて。港さんや橋本さん、配給の東風や劇場の人の意見も聞き入れながら編集しました。
一番答えるのがしんどかったのは、ポレポレ東中野の小原治さんから問われた「この編集のバージョンは小野さんのやりたかったことから遠ざかっていないか。より近づいたのであれば何も言うことはありません」だったかもしれません。
作品は自分の許容範囲をとっくに超えていたので、ほんとうに私がやりたいことって何だったっけ、というお題目にそこからまた向き合わなければいけませんでした。

――自画像という印象は、自然と感じ取れたことなんです。自分の描きたい明確な視座を持って8人を切り取るのではなく、揺れている8人に「人なり」で合わせている。そこに今のあなたが巧まずして出ているのではないか。

小野 ああ……。撮影期間、私は29歳から33歳でした。その間、恋人はいないし職場や人間関係もいろいろ変わるし、将来のことを考えると不安になって。そんな時に撮っていたことで、確かに興味のポイントは自然と寄せられていったかもしれません。

 例えば、井上魅夜さんが都落ちの形で東京を離れて、きつい肉体労働を強いられていることを話したり、そういった雰囲気を醸し出しているところを捉えたくだりなんて、他の監督のものとはやはり違うんです。痛みというか、捉え方がリアル。ああ、彼女も同じような仕事をしてきたんだな、経験に根差しているものだなと思っちゃう。
当たり前の話かもしれないけど、彼女でしか撮れないというものを彼女は上げてきます。対象者との関係の作り方、表面的ではない腹を割りきった付き合い方も含めて。喧嘩も散々したんだろうな……と素材を見ているだけで察しますし。それでも出演者のほうがよく付き合ってくれてる。
みんなの意見を取り入れて作ったと言っても、ジャッジしたのは彼女だし。彼女の個性で作られた映画だと思いますよ。

小野 私の場合、『アヒルの子』でセルフドキュメンタリーをやっていることは大きいと思います。他のドキュメンタリー作家と比べて、そこは間違いなく。
テレビ版から撮っている出演者には、DVDを見てもらいました。だから、「私もカメラの前に自分をさらけ出して傷ついたことがあるよ」と言うことができるんです。あゆちゃんやみひろちゃんが家族と一緒に撮られる時に、お互いにどんな気持ちでいるのか現場でも想像しやすいし。

『恋とボルバキア』より

▼page5 2017年 『恋とボルバキア』(4)―分からないから撮らせてほしい に続く