2012年 『原発アイドル』(1)
―テレビが分からない者同士で一緒に、と口説いた
――それが『原発アイドル』で、初めて組むことになる。
小野 『原発アイドル』の話が動き出したのは、2011年の6月位です。同期生の髙澤俊太郎くんが『アヒルの子』のプロデューサーだった大澤一生に相談するうち、小野に撮らせたほうがいいという話になって。髙澤くんとは二年のドキュメンタリー短編実習を一緒にやったんですが、あまり良い結果にならなかったので、リベンジの気持ちでもう一回組もうかと。
半年間は二人で撮っていたんですけど、これがテレビの企画として通ったんです。それまでテレビを作った経験がないこともあり、主軸になってくれる存在がもう一人必要だと感じました。その時、港さんのことがピンと頭に浮かんだんです。
――それはもう、脚本家の港さんに具体的にスタッフとして入ってほしいということ?
小野 そうです。学生の頃、寺山修司や谷川俊太郎が構成で関わった『あなたは…』(66)や『小澤征爾“第九”を揮る』(66)、『日の丸』(67)などを見て、テレビの制約の中でこんなに自由なドキュメンタリーが作られる時代があったんだ、と刺激を受けていたんです。
なので、面白い人を入れようと。すでに結果を出していて、出来るだけ組んだ時に化学反応が生まれる人。久々に港さんにメールで連絡したら、返信の文面はイヤそうだったんだけど(笑)。「最寄りの駅まで伺います」と半ば強引に。
港 そう、来た来た。
小野 会うのもイヤイヤでしたよね。
港 だって、どうも膨大な量のテープがすでに回っているらしい。こっちは構成をやってくれと言われても、何をしていいのか分からないわけです。ドキュメンタリーゼミにいたけど、構成の勉強なんてなかったし。一応は先輩として「ああ、構成ね」って顔をしながら話を聞いたけど(笑)。
小野 私もテレビのルールを全く知らないから、「分かんない者同士で一緒に作りませんか」と交渉したんです。それが面白いかなって。制作費は限られているから、ギャラはそんなに出せないことも前もって話しました。
――港さんに求めたのは、キッチリしたコンセプトを提示してくれる人か、一緒に考え、悩んでくれる人か。例えば、「こういう題材は自分には理解できない」と言いつつ軸は作れる人もいます。
小野 うーん。そこまでの狙いは無かったです、正直。ここからここまでやってほしい、と港さんに明確に言ったことはないと思うし。自主性を重んじる校風なので(笑)。ただ、寺山修司や谷川俊太郎が構成で入ったテレビドキュメンタリーが面白かったから、私もそういうのやりたいんです位の軽さで。
――そのハードルの上げ方は、口説き文句としては最悪でもある(笑)。
小野 ホントに何も分かんなかったんで……。作業を始めて、あ、お願いしてよかった、しっくり来るなと思ったのは、素材をベースに考えてくれたことです。半年分の素材を見て、そこからどんな物語が作れるか一緒に考えてくれた。
港 見たといっても、ある程度はOK出しで絞ったものですけどね。どうも人に聞くと普通の構成は、60分尺の番組ならまず80分位につないだものを見て、あれこれ意見を言い、追撮が必要な部分を指示し……らしい。ああ、それでお金を貰えるんだ、と思っていた。ところがどうも雲行きが違う(笑)。5時間位のものを一気に見たんだよね。
小野 見ました。オールラッシュみたいなやつ。
港 見せられても何をしたらいいか分からない。監督が「こういうことをしたいんだ」と言うならまだしも。
僕、いろんな監督と一緒にやってきましたけど、小野さやかが一番暴力的な人なんです。なんて言うのか……徐々に分かってくるのが、やっぱり『アヒルの子』を撮っただけのことはあるなと(笑)。
とにかく全力。今の彼女の言葉は「港さんは素材を活かしてくださって」になってますけど、「私、そこ絶対切らないから」から始まったんだから(笑)。
「原発アイドル」の頃の『制服向上委員会』©アイドルジャパンレコード
2012年 『原発アイドル』(2)
―ドキュメンタリーは私の命綱
港 下調べをして仮説を立てて臨み、現場で壊されてそれを基に再構成していく。それがオーソドックスで、合理的な作り方だと思います。そのやりかたを彼女は採っていないことが途中で分かった。
もちろん、とにかく現場で人間関係を作るんだという戦略は彼女の中に確固としてある。でも、その戦略を支えているのは観念なんですよ。僕が知っているどの映画監督よりも言うことが観念的。
要するに理論的に語ってくれないので(笑)、「え、ちょっと待って、それどういうこと?」となり、2時間位聞いてやっと「あ、そういうことを考えてたの」と。
――ドキュメンタリーは、自分とは違う人生を生きる人を通して何かを表現するもの。アートなど、うまく言葉に出来ない想念をまっすぐ叩きつけられる方法が他にもある中で、小野さんはよく難しい道を選んでいるな、と感じます。
小野 そうですかね……。映画がやりたくて愛媛から出てきて日本映画学校に入ったんですけど、脚本を1本書いてクラスで選ばれたものの、持ちネタを全部出し切ったところがあって。この先も何本も書くのは難しい、書くには人生経験も勉強量も到底足りないなという思いにぶち当たりました。
じゃあ映画は諦めるかとなった時に、ドキュメンタリーと出会ったんです。
他者を題材にするわけですけど、その人の人生や世界を描けば何かの形になる。それが自分の中で指針となったというか。逃げ道を見つけたのかもしれません。
ドキュメンタリーは私にとって最後の頼みというか、命綱に近いんです。自分にはこれしかない、と思ってやっているので、他の表現と比べて難しいかどうかはあまり考えないですね。
港 でもね、彼女はそう言うけど、そこは監督・小野さやかの一部分なんですよ。大きな観念に取材対象者なり現場なりを引き寄せていく強烈なモチベーションを持ちつつ、それだけだったらドキュメンタリーをやる必要は無い。フィクションをやったほうが早いよという話で。
どこかで―僕らスタッフと作業している時と同じ感覚かもしれませんけど―他者とぶつかり合い、火花を散らすことに何かがあるんですよ、この人の中には。そして、それを撮ってきますからね。
本人の中に、冷静な部分と冷静になれていない部分があって……まあ、それを一言でまとめるとメチャクチャな奴ってことになるのか。「整理してくれる人間が欲しい」と言っていたのは、一緒に作業しながらよく分かったというか。
今は一人でもそういう作業も出来るはずです。実際にそういう仕事を沢山しているし。それが、複雑な題材と当たった時にはチームでの取り組みにすぐ切り替えられる。そこは、とても賢い人です。
小野 チームでやる面白さは凄くあるから。それに、出来るだけ同じ人と組み続けることは面白いと思っています。
『アヒルの子』で自分の家族の中にカメラを介入させて、撮ったものを編集してストーリーにした時に、凄く面白い感覚があったんです。一番近しい存在が、映画になった途端、正反対の世界に反転したみたいな。
それが共同作業にも影響していますね。自分が面白いと思う、近しい人たちと何か一つの世界を作る時に、それがうまく反転すればもっと面白いことになるんじゃないかという手ごたえがあるんです。
▼page4 2017年 『恋とボルバキア』(2)―プロデューサーは小野さやか以上にモンスター に続く