【連載】「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」第28回「ああ最後の日本兵 横井庄一さん」

1972年1月24日、グアム島のジャングルから1人の元日本兵が発見された。
緊急発売された雑誌ソノシートから蘇る、横井庄一さん奇跡の生還劇。


太平洋戦争をまだ続けている人がいた

廃盤アナログレコードの「その他」ジャンルからドキュメンタリーを掘り起こす「DIG!聴くメンタリー」。今回もよろしくどうぞ。

またまた更新が延びてしまった。今回は初心に返るつもりで、連載スタートの前から持っていたソノシート「ああ最後の日本兵 横井庄一さん」を、数年振りに聴き直してみる。

1972年に出版された、週刊サンケイ臨時増刊2月26日号「横井庄一伍長の詳細全記録」の特別付録。

僕より年下の人でも、横井さんの名前を知っている人は多いだろう。
この年の1月、旧日本兵・横井庄一さんがグアム島のジャングルで発見され、本土に戻った。太平洋戦争を戦った大日本帝国が連合国に降伏したこと、民主主義国家として復興したことを一切知らず、たったひとりで持久戦を続けていた兵士が、経済成長まっただなかの日本に忽然と現れたのである。
世の中は、戦争はまだ続いていた……! とかなり動揺した。それで、こんなソノシートが付いた雑誌も緊急発売された。

なにしろ戦後史の大きなトピックなので、この付録だけが取り外され中古レコード屋に出ていたのを、物珍しさ本位で買った。ところが録音は、想像以上に強烈だった。

※グアム島の病院に収容されてからの、かつての戦友・伊藤正さんとの対面

伊藤「伊藤です」
横井「……わッからねえな」
伊藤19年に」
横井19年に」
伊藤「あんたンところに、あのう……」
横井「あ、訪ねてきたんでしょ。(聞き取れず)
伊藤「そうそう」
横井「……ウワーン! ウン、ウウーン!」
伊藤「よかった」
横井「ウワーン」

※親類のメッセージを録ったカセットテープが持ち込まれると―
テープ    えらかったなあ、長いあいだ。ごくろうさんだった本当に、」
横井(被せて)こっちも長く、ああ……サトル。サトルよお」
テープ「神様なんかを信仰したおかげだと思って、喜んで、またこれから先も信仰心を忘れねえように塩梅良くやってもらいてえ、」
横井(被せて)サトル、サトルよお。あと頼むぜ、いいかあ」

再生されるテープに横井さんは必死に話しかける。昔の冒険映画ならユーモラスに描かれた未開人と文明の遭遇シーンが、こんなに生々しく録られているものは、そうは無い。


戦争が終わって27年。どうして横井さんはジャングルの中に潜み続けたのか。捕虜になることは最大の恥と叩き込んだ軍事教育のためだ。敵の人間性を信じなければ、見つかれば殺されると思い込む恐怖になる。だから深くまで穴を掘って住居とし、ネズミやカエルを食いながら、日本軍の反攻と再上陸を待つよりなかった。

言ってみれば、翼賛国家のマインドコントロールにとことん思考回路を規制された人間の悲劇である。しかしこれは、世界大戦という異常状況だけが生む数奇なドラマだろうか?
僕としては、テープに向かって喘ぐように話しかける横井さんの声を、今の僕たちへの手厳しい教訓として紹介したいのだ。
21世紀も「日本人はこうあるべき」「日本人なら許されない」等々の刷り込みが社会のあちこちに根付いているのは、みなさんイヤでも知っている通り。「生活保護を受給するような人は」云々は、あいにく戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」と同じベクトルを向いている。


横井さんとは別行動を取った人ほど早く帰国できた

とはいえ、横井さんはずっと孤独ではなかった。潜伏する日本兵はもっといて、離れたり、死別するうちにひとりになった。まずその経緯を、大宅壮一文庫でコピーしてきた週刊サンケイ臨時増刊の記事と、横井さん本人が2年後に出版した手記『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』(1974・文藝春秋)で確認してみる。

古参の下士官だった横井分隊長(週刊サンケイでは階級は伍長となっているが、実際はもう一つ上の軍曹では?)のいる補給中隊は、昭和19年3月、満州からグアム島に向かう連隊に編成される。
当時のグアム島は、太平洋戦争開始と同時に日本軍が無血占領していたが、戦局が変わって米軍艦隊が近づき、本土空襲を防ぐ重要な防衛拠点となっていた。

○昭和19年7月 米軍の艦砲射撃と上陸始まる。
○8月 猛攻に圧倒されて島は米軍の手中に。日本軍の連絡は中断されたため、横井の中隊もジャングルの中で師団と合流できず。持久戦か襲撃かに意見が分かれ、横井は海に脱して転戦を計画する稲葉小隊長に従う。
○タロホホ川の河口はすでに米軍が陣地を構築。稲葉小隊長のグループは、三手に分かれて持久戦に入ることに。
○横井グループは5人。海野哲男・山内正澄・長尾徳夫・清水茂二。
○衛生兵の志知幹夫、別のグループから合流する。
○一人で放浪していた軍属の二瓶喜蔵、合流。7人になる。
○奥地でいったん落ち着く。伊藤正をリーダーとするグループと合い、情報交換。伊藤のグループから皆川文蔵が合流する。8人に。
○昭和20年6月 上条敬三・藤田秀夫・中畠悟が合流。11人。
○7月 襲撃を受ける。藤田、長尾、上条、山内が戦死。7人。
○二瓶の提案で、タロホホ川の南のほうへ移動。上流へ落ち着く。
○昭和20年9月。いさかいがあり、海野と皆川が立ち去る。5名に(清水・志知・二瓶・中畠)。
○昭和21年春 気の合わない同士で反発しあうようになり、志知と中畠と3人で、清水と二瓶から離れる。よりジャングルの奥へ。
(清水と二瓶はこの後、発見されて投降)
○昭和23年12月 食料のことなどで溝が生まれ、志知と中畠が出ていき1人に。間もなく、互いに仮小屋を焼かれて再び合流。
○昭和25年より、移動を諦めて穴を掘っての潜伏を選択。その後も1人になり、また志知、中畠と合流し……が続く。別行動の時も近くに棲み、連絡は取り合う。
(昭和35年、2人で行動していた伊藤と皆川が発見される)
○昭和39年1月 志知と中畠、死亡。死因は不明。この後は完全に1人に。
○昭和47年1月24日 発見される。夏と間違え、村民の山狩りが終わった時間に外に出たところを見つかる。1年じゅう気温が同じ国のため、日数の計算に数ヶ月の誤差が出ていた。
○発見後、伊藤正・皆川文蔵と再会する。

多少ややこしい年譜で申し訳ないが、よく確認してもらえば、あることに気付くと思う。
敗戦後も残った7人のグループのうち、発見されたのは清水、二瓶、皆川の3人。そう、横井さんと別行動を取った者ほど、先に帰国できた率が高いのだ。

記事の証言を総合すると、横井さんは物凄く小心で、石橋を叩いても渡らないタイプ。もう少し里に近づけばヤシの実などが調達できると分かっても、危険の可能性があればどんなに飢えていようが近づかない。それがしばしば仲間割れの原因になったらしい。また、横井さんは年齢が高くて上官なので、手先の器用さで頼りにされつつ、どうしても他の兵からは浮きやすかったとも。

慎重だから生き残ることが出来て、それゆえに生還が遅れた。なんともいえぬ運命の綾だ。

▼Page2 捕まったのに親切にされるパニック に続く