【連載】「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」第28回「ああ最後の日本兵 横井庄一さん」

捕まったのに親切にされるパニック

伊藤正さんと皆川文蔵さんが横井さんより12年前、1960年(昭和35年)に発見された時の音声も、実はレコードになっている。ソノシートと紙面が一体となった”音の出る雑誌”、「朝日ソノラマ 第8号」(1960年7月)だ。

※東京とグアムをつなぐ国際電話で、伊藤さんが妹と話す

伊藤「もしもし」
「はい。……兄さん?」
伊藤「もしもし」
「はい」
伊藤「あ。あなた、だれ?」
「キミコじゃん」
伊藤「え?」
「キミコよ。分かる?」

伊藤さんの声はなぜか、妙に固くてよそよそしい。すると、補足のナレーションが続く。

NA「この時、伊藤さんは電話をアメリカ軍の謀略だと疑っていた」

後の伊藤さんの手記によると、保護された直後は、遂に捕まったのになぜ人々はこんなにも親切なのか? の疑念が晴れぬのと、いつ殺されるか分からない恐怖がないまぜになり、凄まじいパニックに襲われたそうだ。病院のベッドのシーツで首をくくろうとさえしたそうだ。

一方の皆川さん。新潟県のふるさとに戻ってから二週間後、ようやく落ち着いて、朝日ソノラマの取材に答える。

皆川私も、まあ昔の、書いた……なんというか、(軍人)勅諭とか、または戦陣訓とかってものをあんまり信じ過ぎたからその、悪かったと思って。信じない人が結局、最後の勝利者だと、今になって分かったです。ですから私もあんなものはもう真っ赤な嘘だったと思ってるです。今になって思えば」

この録音を踏まえたうえで12年後の「ああ最後の日本兵 横井庄一さん」を聴き直すと、冒頭で紹介した横井さんと伊藤さんの再会シーンの切迫味が、さらに増す。
横井さんは、初めて知った人に会えてホッとしたが、猜疑心はすぐには拭えなかった(伊藤さんと米軍の内通を疑った)。伊藤さんもまた、横井さんが自分に抱きついて泣きながらも警戒の目付きを解かないことに、かつての自分を見るような戦慄を覚えたそうだ。



改めて、ソノシートの内容を時系列に整理しておく。録音があるものは◎印。また、フジテレビのアナウンサー・露木茂のナレーションを挟んで前後が再構成されているため、ソノシートでの順番は()の内に。
なんであの露木さんかというと、サンケイつながりだから。つまり「ああ最後の日本兵 横井庄一さん」の音声は、フジテレビのニュース番組からのものだ。

[1972年1月24日]
・夕方に発見され、グアム・メモリアル病院に入る

[1月25日]
・グアム警察に潜伏していた現場と、志知と中畠の骨が荒らされぬよう隠していた現場を案内
◎夜、国内外から集まった記者と会見。ジャングルでの暮らしを話す。今の心境を聞かれ、「もう、何が何だか分からない」 (B面)

[1月26日]
◎朝、伊藤正とフジテレビ報道局解説委員・露木茂、FNN取材班らが到着。横井と伊藤の再会。(A面)
◎午前、おちついたところで横井と伊藤、雑談。その模様をFNNが独占取材。(B面)
・皆川文蔵も到着し、合同の記者会見

[1月27日]
◎厚生省の中村援護局長、到着。親類の声を吹き込んだテープを聞かせる。(A面)

横井さんはこの間にもNHKを通じて知人と国際電話で話すなど、他局の取材を受けている。マスコミの、横井さんへの接近競争が目に見えるよう。
露骨な言い方をすれば、フジは同じ潜伏生活を知る伊藤さんをいち早く捕まえたから、横井さんの感情の爆発を捉えることに成功したわけだ。

観念に生きた小野田さんと、リアリズムの横井さん

しばらく病院で休養した後(ケアが必要だったのは環境の激変による精神面で、肉体は医師が驚くほど健康だった)、横井さんがグアム空港を発ち、羽田空港に到着したのは2月2日。
帰国第一声も、僕が持っているレコードの中にあった。東芝音楽工業が同年に制作したEP盤「激動の記録1972年」

横井横井はグアム島で亡くなった英霊を、全部携えて帰って参りました……(聞き取れず)にて、大元帥陛下様より拝領の小銃をお返ししたいために、それを持って参りました。横井、健全になりました次第は、亡くなった英霊のために各々家庭を訪問いたしまして、一一その英霊に対して、冥福を祈らさせて頂きます」

流行語にもなった有名な「恥ずかしながら」は入っていないが、立派な挨拶である。小銃を天皇陛下にお返ししたい、と下士官の筋を通しているのが皮肉で、哀しいけれど、とにかく立派だ。
当時、身の安全が保障されていると分かり、気持ちが落ち着くにつれて軍人の意識が戻って、それと共に、志知と中畠らと一緒に祖国の土を踏めなかった悔しさが相当湧き上がったらしい。

週刊サンケイ臨時増刊の記録によると、この日の記者会見で横井さんは、
「戦争に負けたのは武器が無かったから。戦うだけの力が無いのに戦争をしたから」
と吐露し、つい拳で机を叩いたという。精神論で死地をくぐらされた者の、当然の憤怒だと思う。


一方で、2年後の1974年にフィリピン・ルバング島で発見された小野田寛郎さんがいる。時期の近さから二人はセットで認識されることが多いが、筋金入りの情報部将校で戦後もゲリラ戦を遂行していた小野田さんは、古参兵とはいえ召集の横井さんよりも軍人精神が徹底している。

小野田さんの聴くメンタリーも存在はするのだが、僕は未入手。ただ、小野田さんの帰国会見のニュースフィルムを取り入れた東映の映画『ルバング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974・佐藤純弥)は最近になって見ている。
ここでの小野田さんはギンギンに殺気立っている。敗残日本兵狩りで戦友を撃たれた復讐心のほうが望郷の念よりも強かった、そう語る時の目付きはゾッとするほどだ。

どっちがどうとは言えないものの、横井さんが垣間見せた、銃と弾薬、糧秣が兵隊に十分に行き渡らずして勝てるものかという怒りのほうに、地に足のついた合理性を感じるのは確かだ。
横井さんの手記『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』は、帰国後にまとめたこともあり、そっちの面が強く出ている本だった。


山狩りを警戒して片時も気が抜けない緊張や、日本に帰れる可能性がどんどん小さくなる絶望感に圧し潰されそうになりながらも、横井さんにはヒョイと、それはそれとして……という感じで、より安全な食料の確保の方法、ヤシの実から油を作る製法、潜む穴の通気の工夫などに知恵を絞ることで「毎日が飛ぶように過ぎ去っていく」忙しさにかまけるリアリズムがある。

そこには剥き出しの、生きるしたたかさがある。読んでいて、フシギと力がもらえる本なのだ。

▼page3 横井庄一という人間の、フワフワとした逞しさ に続く