【寄稿】「映画の適切な長さ」とは?〜『毎日映画コンクール』選考委員たちに問う text 原一男

現在『ニッポン国VS泉南石綿村』が公開中の原一男監督から、さる1月に発表された『第72回毎日映画コンクール』の講評に対する公開質問の文章が寄せられた。具体的には、講評にあった(映画の)「適切な時間」という表現に対する違和感である。
原監督は当初、自身のホームページでこの文章を発表する予定だったが、広く議論を望む、ということで、ドキュメンタリーに特化したサイトである「neoneo web」への寄稿を申し出られた。
原一男監督の新作は、たしかに215分の大作である。しかし、ドキュメンタリー映画における上映時間は、たとえばコンクールへの出品作品の中で「長い」というような、相対的な問題で意味付けられるものではない。本文でも触れられているが、“長いドキュメンタリー”は歴史的にいくらでもあるし(5月に台湾で上映されるラブ・ディアズ=フィリピン の新作は640分だ)、監督やプロデューサーといった作り手の総意として提示される“時間”であることを、頭に入れておくべきだろう。まずそれがあって、はじめて観客の生理や興行的価値など、様々な指標が“映画の時間”に対して問題化されていくのであろうが、いずれにしても、ドキュメンタリー映画にとっての
「適切な時間」とは何か。多様な指標に対して具体的な言葉で言及されたからこそ、この問題に対する「問い返し」や建設的な議論を期待したい。選考委員の皆様、読者の皆様、いかがでしょうか。ご意見お待ちしております。
(neoneo編集室 佐藤寛朗)

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【Interview】原一男、90分インタビュー『ニッポン国VS泉南石綿村』 text 原田麻衣


「『毎日映画コンクール』選考委員たちに問う」

第72回毎日映画コンクール 選考経過と講評(その1)
■ドキュメンタリー映画賞「三里塚のイカロス」

他に、「おクジラさま ふたつの正義の物語」▽「夜間もやってる保育園」▽「やさしくなあに~奈緒ちゃんと家族の35年~」▽「抗い 記録作家 林えいだい」▽「ニッポン国VS泉南石綿村」

「三里塚」に、「取材対象にぐいぐい迫る感じにドキュメンタリーの強さ」「完成度が圧倒的」「映像と音楽が調和」と高い評価が集まる。「ニッポン国」にも「原告団の普通の人々が徐々に変わっていく姿にエンターテインメント性がある」との評価。「やさしくなあに」にも「一家族の35年間を110分に凝縮させた」などと称賛あり。第1回投票で、「三里塚」4、「ニッポン国」1。

<講評>
いずれも取材対象者に真摯に長期間向き合った力作だった。社会の片隅を見つめる視点も良い。中でも「三里塚のイカロス」は、適切な上映時間と映像の質が映画としての質を一層高めていた。農民、農家に嫁いだ学生、元空港公団職員らが振り返る三里塚闘争。同時に映像は離着陸する航空機と鳴り響く轟音(ごうおん)をとらえ、いまだ空港が彼らの人生に重くのしかかっていることをいや応なく突きつける。

くしくも最終選考に上がった「抗い 記録作家 林えいだい」で林が残した言葉が、受賞作の本質を表している。「歴史の教訓に学ばない民族は、結局は自滅の道を歩むしかない」と。それを問い続ける代島治彦監督の執念にも圧倒された。(中山治美)

◆ドキュメンタリー部門 2次選考委員
金平茂紀(TBS「報道特集」キャスター エグゼクティブ・エクスパート)▽中山治美(映画ジャーナリスト)▽森達也(映画監督)▽森直人(映画評論家)▽ヤンヨンヒ(映画監督)
(毎日新聞 2018年1月28日より)


「第72回毎日映画コンクール」の選考過程と講評を読み、違和感というか、疑問を抱いた。その講評が発表されてから早2ヶ月以上経つ。黙っていようかと逡巡はあったが、このまま看過してはいけないのではないか、と考えたので、選考委員の人たちに公開質問をしたい。

「三里塚のイカロス」が受賞したわけだが、その受賞理由にこう書いてある。

中でも「三里塚のイカロス」は、適切な上映時間と映像の質が映画としての質を一層高めていた

私が注目したのは「適切な上映時間」とある部分だ。最終候補に残った作品で、最も長い作品は、私たちの「ニッポン国VS泉南石綿村」だ。「三里塚のイカロス」は、138分。他の作品も皆、2時間前後。つまり「適切な上映時間」でない作品とは、私たちの「ニッポン国VS泉南石綿村」を指している。この講評では、長いから評価できない、と読める。このくだりを読んだとき、私は信じられない、と思った。選考委員の中には現役のドキュメンタリーを作る監督が二人いる。その二人が、長いからダメだ、と主張しているのだろうか? あまりにアホらしくてため息つくしかない、と思ったものの黙っていられない。

作品の長さに関して「適切な上映時間」=2時間前後でなければならない、といったい、どこの誰が決めたと言うんだろ? あくまでも、作者が選びとったテーマを描くために、対象である人物や物事が指し示す世界を的確に描写するために、自ずと作品の長さが導き出されるものだ。

「ショア」やワイズマンや王兵らの作品には、私たちの作品より、もっと長いものが多い。小川紳介監督「1000年刻みの日時計」(3時間42分)だって長い。それらの作品が、長いからダメだ、という人は誰もいないだろう。いや、実はそれらの作品もまた、長いからダメだと考えているのだというのかな? なら、その“新説”をぜひ聞かせて欲しいものだ。まさか、二人の選考委員が、そう考えているとは思えないのだが。そう言うと、私たちの作品が「ショア」やワイズマンや王兵や小川紳介らの作品と同等のおもしろさ、テーマの先鋭さ、表現された世界観の濃密さを持っていると言いたいのか? と反論されるだろうか? そうであるならば、はっきり、そう書けばいいだけのことと思うが。なぜ、わざわざ「適切な上映時間」などと曖昧な言い方をしたのだろう? という疑問は、晴れない。

現実的には……確かに映画は2時間くらいの長さが、ちょうどいい、という考え方、態度があることは私だって知っている。観る側の体調や緊張感の持続などのことを考えると、という理屈だ。上映する劇場側もプログラムを回転しやすいという面もあるだろう。現に私たちだって、そう考えた。プロデューサーであり構成を兼ねる小林と編集に取り掛かる前に話し合った。なんとか2時間に仕上げようよ、と。そして1年間かかって2時間17分の長さに仕上げた。

そのバージョンを渋谷のシネヴェーラで2日、2回だけ上映した。上映後のQ&Aで観客の一人の発言、「もうちょっと長くてもいいんじゃないでしょうか?」。そうか、ということは、もう13分くらい増やして2時間半くらいでも、いけるかな、と思い、小林に相談した。編集に取り掛かる前に、とにかく2時間なんだから、あのシーンも入らないから、このシーンも無理だから、と言われ、強引に忘れようとしていた様々なシーンが私の脳裏に蘇った。編集の秦さんが提案してくれた。まずは入れたいシーンを全部入れましょう。それから、どんどん切っていきましょう、と。ありがたい、と思った。言われた通り、入れたいシーンをみんな入れたら4時間30分になった。それから、少しずつ吟味を繰り返しながら、再編集に1年かかって、やっと3時間35分になった。

断っておくが、2時間バージョンを作ったときに、編集をしたもので検討した、ということではない。1年間の編集マンを拘束したギャラ、音楽家に払うギャラ、整音するためのスタジオのレンタル料などきちんとお金を払って仕上げたのだ。それを再編集したわけだから、丸々1本分の仕上げ費を無駄にしたことになる。自主制作の私たちには、キツイ金額だ。いや、無駄ではないのだ。一旦、2時間バージョンを作ったからこそ、自信を持って、もっと長いものにしないと表現しきれない、描ききれない、と確信できたのだから。自主制作の私たちにとっては、うまくやれば、1本分の仕上げ費で済んだものを、という苦さは、ある。ま、そんなことを言っても仕方がない。試行錯誤をする上で、必然だったからだ。

繰り返すが、2時間にしようとして頭の中だけで考えたわけではなく、実際にお金をかけて作った上で、やはり長い尺が必要と判断したわけだ。ここまで説明したら、分かってくれるだろうか?

「適切な上映時間」……幾度となく反芻したのだが、本当によく理解できないのだ。選考委員たちが「適切でない上映時間」の、私たちの作品に対して何を言いたかったのだろうか?その語句の裏側で他に何か言いたいことがあったのではないか? と勘ぐってみたくなる。通常、ある作品に対して“長い”と言う時は、退屈である、と感じられるときに、使う。作り手にとってはさも意味ありげにシーンが繋がれていても観る側にとっては何のイメージも喚起しない単なる説明的な映像の羅列だったりする場合、だ。もし、そうであるならば、ハッキリそう言ってくれた方が納得できる。少なくても、選考委員たちの言い分としてはこちらも理解しやすい。もちろん、反論はするだろうけどね。

繰り返すが「適切な上映時間」ではない、という部分が具体的な表現としてリアルに受け止められる講評なのだが「適切な上映時間」を基準に作品を選考する選考委員たちの、ドキュメンタリー観を是非とも伺いたい。