【Interview】原一男、90分インタビュー『ニッポン国VS泉南石綿村』 text 原田麻衣

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大阪・泉南石綿村。石綿(アスベスト)産業が発達していたことからそう呼ばれている地域では、アスベストによる疾患に苦しむ人が多くいる。もちろん今に始まった問題ではないが、ようやく訴訟という形で明るみになった2006年、原一男はそこにカメラを向け、最高裁の判決が出るまでの8年間、泉南の人々を追い続けた。病気と闘う人々、裁判で闘う人々、まさに「ニッポン国VS泉南石綿村」という様子が丁寧に描かれている。

初の一般上映となった山形国際ドキュメンタリー映画祭2017では市民賞を受賞、第22回釜山国際映画祭ワイド・アングル部門ではメセナ賞(最優秀ドキュメンタリー賞)を受賞、そして特別招待作品として上映された第18回東京フィルメックスでは観客賞を受賞した。

監督はこの作品を「平成のニッポン人の自画像を描いたもの」であると話す。『全身小説家』から23年、監督の目に昭和と平成はどう映っているのか、そして平成のニッポン人とはいかなるものか、90分にわたるインタビューのなかで、その詳細を語ってくださった。
(取材:原田麻衣、沈念 構成:原田麻衣)


「表現者」ではなく「生活者」を映すということ
奇跡を見ているような気がして、少しずつ惹かれていった

——(山形国際ドキュメンタリー映画際での)上映後に、製作動機についての質問があったと思います。そのとき監督は、関西テレビの方から持ちかけられた企画であり、自分でこの題材を選んだわけではないとおっしゃっていました。そこから8年間撮影を続けられたわけですが、このような題材の魅力に気づかれたのはどのようなときだったのでしょうか。

原:ちょっと長くなりますが……。関西テレビのプロデューサーをしている人がいて、関西テレビで一本番組を作ったことがあったんですよ。その評判がよくて、また一緒にやろうということになったんです。それで定期的に会って、この材料かあの材料かって考えてたんですが、なかなかうまくいかなかった。何回目かに会った時にアスベストはどうですかって言われたんですが、そのとき私はアスベストのことについて何も知らなかったんですよ。ただ、知らないことをどうって聞かれたことがきっかけで、ふとやってみようかということは自然にありうることじゃないですか。自分も次の題材を何にしようかっていう空白の時期だったので。まあ、乗ってみようという気持ちになって、じゃやりますかねってなったんです。もうちょっと丁寧にいうと、関西テレビには夕方のニュースの枠がありますよね。1時間くらい。その中で10分くらいのちょっとした特集、というような形で3ヶ月か4ヶ月に一つ作って、最終的には一つの長いものを関テレで放映するというイメージなんですよ。短いものを作れば、それに対する報酬が出るじゃないですか。私たちの経費が出るということです。そういうことで取材を初めて4ヶ月くらい経って、[関テレ側に]持っていったんです。

しかし持っていったら、相手から呆れられたんですよ。私たちの内容が酷かったんです。うちの小林(佐智子、原監督夫人)は構成する能力が非常に優れている。私もほとんど小林に構成してねって丸投げした状態で、小林ならなんとかやってくれるだろうと思ってたんですね。映画でいうと最初の隠岐島のシーンがあるでしょう。あのあたりがメインで、10分くらいあったらなんとかなるかしらねって彼女に任せていたんです。僕も内容をどんなふうにできているのかチェックしないまま関テレに持っていって、小林のイメージとしては、材料はこれだけあって、どうしましょうかというくらいのつもりで行ったわけです。ところが、向こうは完成形を持ってくるはずだと思っていたようで、12、3分の映像を観て呆れかえっていて。私も一緒に観ていて、これはあかんだろうと思いました。でも、小林をせめようもないでしょう。それで、いろいろ考えたんですが、10分は10分なりの見せ方があるだろうと思ったんです。しかし、10分なりの見せ方を今さら勉強しても、そういうものを目指しているわけではないので、もう自主製作してもいいだろうと、そういう形で本格的にやるようになりました。

それで、お金をどうするかということが問題になって、私はそのとき大阪芸大の教授でしたから、教員のための研究経費を応募して、研究テーマが通ったんです。お金を3年間貰えたことでかなりのところまで撮影が継続していたという経緯です。今の質問にあった泉南の人たちに対する興味ですが、それは実は私にとって一番の問題だったんです。これは何度か言ってるんですが、私は20代でドキュメンタリーを作り始めたときから「生活者」という言葉を使っています。庶民とか、市民とか、国民とかというような意味と大体同じですが、私は「生活者」の生き方をしたくないんです。カメラを向ける気もないんですね。「生活者」の対義語は「表現者」です。「生活者」は、自分と自分の家族の幸せに尽くす生き方、「表現者」は、もっとたくさんの貧しい人とか、困難な状況にある人とか、他人の幸せのために人生を追い求めていく生き方。私の中では、そういう定義があるわけです。で、私はドキュメンタリーの主人公としてとにかく「表現者」を選ぶんです。自分自身がやっぱりものすごくコンプレックスの塊だと思うんですよね。自分が弱くてどうしようもないから、過激な生き方をしている人にカメラを向けることで自分の弱さを鍛えてもらおうという期待と、過激な人は世の中を動かす力を持っていて、普通の人はそこに刺激されて行動を起こすというイメージを持っていたんです。だから過激な人を主人公にした映画を作ろうと決めて、実際にそういう映画を作ってきたんです。

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それで、1本目の『さようならCP』、2本目の『極私的エロス・恋歌1974』、3本目の『ゆきゆきて、神軍』、4本目は『全身小説家』。4本目を撮り終えて、もっと強い人を探したんですよ。ところが、どこを探してもいない。10年間探しても、いない。昭和の時代が終わって、平成になりました。なんでいないのかずっと考えたあげく、ふっと気がついたんです。あぁ、昭和という時代だから、私の言うところの過激な人、過激な生き方というものが成立していたんだと。平成という時代になると、もう過激な生き方が、時代の中で許容されなくなったと気づくわけです。そうしたら、自分はどういう人を主人公にして映画を撮ればいいんだろうという、低迷とは少し違うんですが、目標を見つけられない時期が続いていて、そういう時期に、水俣やってみませんかという話があったんです。水俣といえば私より一つ前の世代の土本典昭さんがシリーズで何本か作っていて、これは国際的にも日本の中でも映画史に残るような作品です。小川紳介さんもそういう影響を受けているわけです。水俣やってみませんかって言われたときに、小川プロと並んで土本さんの後をやるということにはどうしても悩んだんです。つまり、先輩のやった仕事の後に私がのこのこ出かけてやる意味があるのかと悩んでいたんです。

だけど土本さんもご高齢で、とにかく水俣いってみましょうって言われて、行って初めて、水俣病の問題はまったく解決されていないんだということを現地の人の案内で思い知るんですよ。それで、土本さんももう体がいうことをきかないし、もう自分で作品を作るのは無理だなというのをわかっていたし、じゃ、なんとかしなきゃならないなと思う人がやるしかないじゃないかということで、気を取り直して始めてみようかなって。それで、先を始めて2、3年後に泉南の話があるわけです。水俣も泉南も、イメージとして同じですよね。水俣が先行して始まったんですけど、そんなにすぐ入り込んだわけじゃないんです。自分は絶対に撮らないって決めたまさに「生活者」の人たちだからです。水俣もアスベストも。

ま、水俣の話はちょっと置いといて。アスベストの話を持ちかけられて、アスベスト問題が起きている現地に行って、いろんな人に会って、アスベストはどういうものなのかをまず学習することから始める。それで原告団の人たちと人間関係を作っていく。そんなことから少しずつ泉南に通い始めたんですが、裁判が始まった直後だったので、裁判の様子は撮影できないんですね。それで、裁判のスケジュールに沿って、こちらも出かけてカメラを回しながら少しずつ原告団の人たちと関係を作っていったんです。だけど、どう考えてもこの人たちは「生活者」ではないかって。普通の人を撮って、面白い映画ができるかしら?そういう疑問は最後の最後まで実はあるんです。映画ができてもなお、これ面白いのかねっていう不安がずっとあったんです。

話を戻しますが、それでも少しずつ裁判は、最高裁まで一審二審三審と進んでいく。水俣は遠いから夏休みと冬休みにしか行けないんですが、泉南は近いから、裁判が動くたびに通っていたんです。それで夏休みになって、水俣へ行く。水俣に行くと、いろんな人に会っていろんな話を聞きます。だけど、この人に会うと、あの人の悪口を、あの人に会うと、この人の悪口を、という感じなんです。つまり、裁判がいくつも行われていて、勝った裁判も負けた裁判もあるんですね。負けた裁判の人は勝った裁判の人の悪口を言う。足を引っ張るような悪口を言うんです。で、同じ裁判の中でも、線引きということが必ずあって、はずれた人がまともに補償をもらった人に対してやっぱり恨み辛みを持つわけです。それから、政党の思想がそのまま運動の中に持ち込まれる。つまり、日共系と反日共系の思想的な対立が運動の中にあって、それが憎悪を生んでしまう。何とか面白い映画を撮ろうと思って行くけれども、何日間かいるうちに、そういう悪口を聞き続けて、結局、もういいや、帰ろうって、その繰り返しです。だから、何を撮ればいいのかと悩むんですね。もちろん少しずつ撮れてはいるんですが、もうこれは難しいなぁと相当めげて帰ってくるんです。

でも、泉南に行くとほっとするんですよ。泉南の人と顔を合わせると。泉南の人は本当にいい人だなぁってことは少しずつ肌でわかってくる。そして弁護団がまた、ものすごくいい人たち。弁護団の人たちの原告団に対する態度が純粋で、本当にひたすら尽くすんです。そういう様子をそばで見ているうちに、奇跡を見ているような心が洗われるような感じになって、少しずつ惹かれていったんです。それでも、1本の映画を作るということを考えたときに、どうすれば面白い映画になるんだろうかと思いました。

それで「生活者」というふうに定義しましたけど、「生活者」は撮る人間にとって非常にやりにくいです。どういうことかというと、「表現者」の人は最初から自分が表現者として生きている。例えば、『神軍』の主人公はもう自分のほうから、犯罪みたいなことをやる、それを撮ってくれ撮ってくれって、隠さないんですよ。「生活者」の人は、裁判をやっているときの時間と空間は撮ってもいいと言ってくれます。自分の名前を明らかにして、運動をやっていますから。ただ、映画にするためにはアスベストの被害というのが、どんなふうに苦しいものなのかを撮ろうと作り手は思うでしょう。それを訴えるのが大事なんですから。アスベストの病気は、同じペースで徐々に悪くなるのではなくて、ゆっくり悪くなって、あるとき一気に病状が悪化して死んでいく残酷な病気なんですね。しかし本当につらい場面を撮らせてもらわないといけない。こっちも自分で考えながら嫌になるんですが、少しずつみんなに病状を聞いて情報を仕入れるんです。だんだん悪くなって死ぬ人がいるかもしれないでしょう。なんとかその人を口説いて、撮らせてもらわなければならないと思うわけです。直接頼んでもなかなか承諾してくれないというのはわかるので、しかるべき人に紹介してもらってなんとかならないでしょうかとお願いする。自分と自分の家族が苦しんでいるときに、いいですよ、撮ってくださいという人なんていない。それでも、行き詰まっているし、撮っているのも裁判の過程の様子だけです。映画的には裁判所の中が一番面白いわけですが、それは法律上撮れない。裁判が終わって、報告集会が行われるけれど、それは映像的ではないです。一応は撮りますが、面白くはない。だんだん焦ってきます。その連続が、実は最後の最後まで続いていくんですが、それでもその合間をぬって、そこそこ少しずつ仲良くなった人の群像劇を作っていったんです。一人一人の人生について、短いシーンやインタビューの中で見えてくるように構成していく。その作業は少しずつやっていたわけです。

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