【Review】『スーパーシチズン 超級大国民』の日本公開と「台湾巨匠傑作選・2018~ニューシネマの季節」と台湾 text 吉田悠樹彦

ワン・レンの代表作

台湾映画のニューシネマの代表作家の一人のワン・レン監督による『スーパーシチズン 超級大国民』が日本で公開された。この作品はシリーズ3部作<『超級市民』(1985年・日本未公開)、本作(1995年)、『超級公民』(1999年・未公開)>の中編にあたる。228事件に端を発する戒厳令(1949年施行)が解除され出獄した主人公コーの物語だ。

冒頭、友人が白色テロで銃殺されるシーンからはじまる。友人と読書会をやっていた大学教授は拷問を受け、友人の名前を口走ってしまう。その結果、その友達は殺されてしまう。この白色テロは、観光地としての台湾のイメージからしてみるとイメージしにくいが、筆者も現地で台湾の歴史に関する展示でみてその実態を知った。

この主人公は人生も終わりに近づいた大学教授だ。自らの記憶をたどりながら、展望台から街を眺めていく。総督府、中正国立堂など国家のシンボルから、事件で亡くなった仲間たちと過ごしたもうない街まで―台北市のメジャーなスポットがかつて弾圧の現場であったことも明かされる。主人公の記憶と回想の回廊の中に観る者は立たされる。撮影された時代のまだ戒厳令下の記憶も残る台湾の風景が広がっていく。

物語では捜索され荒れた家、投獄される父親、離婚になる家庭、弾圧される娘、その生き様が描写される。そして娘と結婚した旦那もまた、政治活動をするようになり、現代台湾の選挙の中で一家は再び警察から捜索をうける。台湾では本作が公開された翌年の1996年に直接選挙によって首相を選べるようになる。この映画の描写も民主化の時代の空気を感じさせる。

主人公は当時の仲間たちと話す時に、政治的なニュアンスを込める場面では日本語を使って話す。これは主人公たちが228事件の時に内省人にあたり、日本統治期の台湾で同化教育を受けたことを示す。ホウ・シャオシェンの『悲情城市』(1989年)では「おまえ日本語話せるか」というのは内省人の放棄のキーワードだった。台湾は多言語であり多くの言語・エスニックグループが混じるトランスカルチャーともいうべき状態にある。政治と並んでエスニックグループや言語、そのレトリックを読み解くことが重要になる。

『スーパーシチズン』で、名前を打ち明けてしまったことを悔いる主人公がたどり着くのは、友人が自分が死ぬことで仲間たちを生かしたという地平だった。台北市の近くには犠牲者たちの墓地がある。惨めに無縁仏の如く山奥に放置されてた墓地を監督はヒントにした。彼は友人の墓を見つけ出すと、「ごめんなさい」と頭を地につけ日本語で謝り、墓に蝋燭をたてると周囲の同じように虐殺された人達の墓と一緒に供養をするのであった。

台湾映画に限らずこの国の表現全般を読み解く上で重要なのは作品の意味、裏の意味、隠された真の意味や、台湾からみたコンテクスト、欧米からみたコンテクスト、日本からみたコンテクストという表現の解釈を吟味することである。白色テロの犠牲となった人々のことを描いた作品だが、同時に作品の背景に複雑な意味があるのだ。それは台湾映画が初期から政治と深く関係があったこととも関係してくる。国民党政権は共産党との戦いの敗因の1つは文芸政策の失敗にあると考え、1940年代には蒋介石らは映画に深く関心を持っていた。検閲、統制、管理といったシステムとの関係も重要になる。

ホウ・シャオシェンと比べると本作の編集・美術は物語調でモノトーンにみえるところもある。その一方でホウが直接的に語らず、雄大な台湾の自然などを用いて美的に昇華するのに対し、本作はリアリズムだ。民主化の後とはいえ95年の台湾でこの映画はストレートに映ったはずだ。


台湾ニューシネマ

日本人で初期に台湾映画をみてきた論者に戸張東夫がいる。戸張はジャーナリストを経て学者になったが時間があるときに中国語圏に映画を多くみていたと関係者は語る。ファン・愛好家に終始することなく研究者の可兒弘明・山田辰雄との交流を経て研究にした。また日本人で初期に台湾映画に関する研究書を刊行したのが小山三郎だ。

台湾に映画が入ってきたのは1899年とされる。日本統治時代も台湾では多くの映画が撮影・上映された。終戦後の台湾では中国映画と異なる独自な発達を遂げる。上述のように政治が映画に興味を持ったことも背景にあった。広く世界へと知られることになったのはニューシネマといわれる才能たちがでてきてからだ。

戸張によればニューシネマとは映画学校で学んだ経歴の持ち主の一群の新世代の監督たちが題材を文学作品に依拠し始めたことから以前と比べより深く日常生活と結びつき、台湾の歴史経験により密着した作品で表現形式は以前として古典的ハリウッド映画の手法を採っているものとしている。1980年代頭からこれら新進気鋭の監督・作品たちはでてきて台湾映画を国際舞台に押し上げ国際映画祭から招待されるようになった。

ポピュラーなのはホウ・シャオシェンの『悲情城市』(1989年)だろう。日本でも人気のこの映画は、撮影後フィルムは日本で現像されヴェネチア国際映画祭でグランプリをとった。ワンはこの『悲情城市』より先に今回の三部作の最初の『超級市民』(1985年)を発表している。発表当初、この作品は台北の暗黒部分を発表したとしてカットされた。ホウ・シャオツェンや近年日本で取り上げられることが多いエドワード・ヤンなどが日本に紹介される中、ワンについてもホウと『坊やの人形』(1983年)などの作品があることから日本への紹介が望まれていた。なおワンは『坊やの人形』に収められた、彼が担当した第3話『リンゴの味』でも貧しい台湾と意識が低い国民を台湾人を描いたとして、国家の面目をつぶすものとして批判を受け危うくカットになりかけた(削蘋果事件)。美しいホウ監督の作品にない味わいが、ワンの作品にあることが伝わってくるかもしれない。

本作は戒厳令が解除された7年後の作品だ。ワンは戸張のインタビューに戒厳令のおかげで多くの不公正な政治が合法とされ、さらにそれは一人一人の心の中に入り込んで検閲するようになった、台湾の人々は小さな時から自己規制をするようになり、誰もが心の中に新聞局電影(映画)検査処(1955年成立)を持っているようだったが、それは今思えば滑稽なことでもあると答えている。

戸張は当時の台湾社会は改革要求で盛り上がる1980年代の台湾社会の中で、改革の拡大進化か弾圧と白色テロの時代への交代かをめぐり政権内部ではつばぜり合いが演じられ、1986年に最高指導者の蒋経国が改革に踏み出し翌年に戒厳令が解除されるまでの不安と希望が入り交じった時期の言論の自由が今まさにはじまろうとしてはじまらない微妙な時期でもあり、その時代にニューシネマが生まれたことで時代に縛られているような側面もあると述べる。ニューシネマの担い手たちは当時新進で教育レベルが高いことが共通の特徴だったが、国民党独裁政権による権威主義政治と戒厳令でがんじがらめになっていた。本作の主人公コーの後半生はまさにこの時代を象徴している。

ニューシネマ再考

近年は20世紀の歴史の再考の季節だが、山田や小山らが手掛けた「近代中国人名辞典」の修訂版が2018年に刊行された。一世を風靡したニューシネマ、ポスト・ニューシネマも再考の時期だ。本作を含む台湾映画を紹介する「台湾巨匠傑作選・2018」では名作たちを楽しむことができる。ニューシネマとそれに続くかたちで90年代からとされるポスト・ニューシネマと語られるホウ・シャオシェン、エドワード・ヤンの名作をフェスティバルでは多く見ることができる。ポスト・ニューシネマのツァイ・ミンリャンの名作たちもアン・リーの父親三部作こと『推手』、『ウェディング・バンケット』、『恋人たちの食卓』も全て上映される。ツァイはマレーシア出身、アン・リーはアメリカ在住の台湾華僑であることを考えてみることも興味深い。青春映画の『藍色夏恋』(イー・ツーイェン)のデジタルリマスター版も楽しみだ。彼らが題材とした文学、例えば朱天文を代表とするなどの文芸作品も重ねて読んでいくと良いかもしれない。

2010年以後に公開された人気作では、1986年・台北一の繁華街で繰り広げられる「モンガに散る」(ニウ・チェンザー)、日本語版がリメイクされた『あの頃、君を追いかけた』(ギデンズ・コー)も上映される。ニューシネマの頃は『台湾新電影時代』や『あの話、この時』で知ることができるだろう。加えてニューシネマが台頭する前に武侠映画のヒット作を送り出しカンヌでも評価されたキン・フー(香港で武侠ブームを招く『大酔侠』を香港で発表後、台湾で活躍。武侠映画の巨匠。)の名作たちも楽しむことができる。ニューシネマ以前の名作たちもしっかり押さえておこう。

かつて台湾の情報は日本では限られていた。一昔前は台湾の美術を公共の美術館で展示しにくかった時代があったと先人たちが回想するのを目にしたことがある。ニューシネマが日本へ本格的に紹介されるようになると、台湾映画は歴史や生活文化を映したものとして脚光を浴びた。その時代から見ても現代は恵まれている。

今日では台湾映画では映画のみでなく現代美術・メディアアート・文学など周辺領域を視野に入れてみていくとさらに興味深い。台湾の芸術界は「1つになるには狭すぎる」といわれるほど各ジャンルが密接につながりあっている。映画から多くのジャンルを知ることもできる。筆者は商業映画を引退したツァイ・ミンリャンの『玄奘』(2014)の展示を現地でみたことがある。この作品はパフォーマンスも行われたようだ。彼のこれからの仕事も楽しみだ。2014年のひまわり学生運動は日本の知識層にも刺激を与え論壇でも広く話題をまいた。中国語プロパーでなくても、幅広く台湾文化を語ることでその魅力を開いていくことが重要だ。

参考文献:
戸張東夫,寥金鳳,陳儒修,「台湾映画のすべて」,丸善,2006
小山三郎編著,「台湾映画」,晃洋書房,2008
黃建業,「 跨世紀台灣電影實錄 : 1898-2000 (上)(中)(下)」,台北 : 行政院文化建設委員會 : 財團法人國家電影資料館, 2005

【映画情報】

臺灣巨匠傑作選・2018

4月28日~6月15日
新宿K’s cinemaほか全国順次公開

http://taiwan-kyosho2018.com/ 

【執筆者プロフィール】

吉田悠樹彦(メディア研究、上演芸術研究)
台湾の大学で日本近代の上演芸術・映像に関して講義をしたことがある。レニ・リーフェンシュタールや日本近代映画の検閲制度に関する著作もある。著作多数。大学で映像文化論を担当し写真・映画・メディアアートなど映像文化を論じた。