【Interview】あらゆる人間が望む2つのことは、愛と安全です。 『祝福 ~オラとニコデムの家~』アンナ・ザメツカ監督インタビュー 


あらゆる人間が望む2つのことは、愛と安全です。
『祝福 ~オラとニコデムの家~』
アンナ・ザメツカ監督インタビュー

ワルシャワ郊外のとあるアパートの中では、アルコール依存の問題を抱える父と、別居して他の男性と暮らしている母に代わって、14際の少女オラが自閉症の弟の面倒を見ながら、ひとりで家事をこなしている。彼女の願いは、弟が無事に初聖体式を受け、家族が再び一緒に暮らす日がくること……。

『祝福 ~オラとニコデムの家~』は、大人のような責任を担わされながら懸命に生きる「アダルトチャイルド」の日常を映し出し、世界中にいる無数の彼ら彼女らの心の叫びを観る者に訴えかけるドキュメンタリー映画だ。本作を、「親が自分の役割を果たせない世界の森で、彼らの道を探す現実的なヘンゼルとグレーテルの物語」と語るアンナ・ザメツカ監督に、この稀有な作品の誕生を可能にした背景と、ドキュメンタリーでありながら脚本を執筆するという制作の手法などについてうかがった。
(取材・構成=小林英治 翻訳=福井麻子)


詩人であり預言者のようなニコデム

―――あなたは映画を学ぶ前に、ジャーナリズムや人類学、写真といったことを学ばれていますね。『祝福 ~オラとニコデムの家~』のようなドキュメンタリーを撮るには、対象となる家族との信頼関係を築くことが重要だったと思いますが、その過程で人類学やジャーナリズムを学んだ経験が活かされていますか?

アンナ・ザメツカ(以下AZ)
:例えば人類学を勉強することは、人間に対する興味をとても引き起こすんですね。同時に、対象を通して自分自身に多くの疑問を投げかけてくる学問なんです。そういった人間に対しての好奇心を抱く性質は、確かにこの映画を撮る上で助けになりました。ただ個人的には、映画監督になるには、哲学と文学と心理学の要素が一番重要だと思います。

―――実際にカメラを回すまでに、オラやニコデムたちとどれくらい一緒に時間を過ごしたのでしょうか。

AZ:
撮影に入るまでに1年3カ月かかりました。撮影は30日間です。最初にこの家を訪ねたときは、本当にカオスのような状況でした。映画というものは整理整頓されたものですから、映画にするにはコンストラクション(構造/構成)が必要です。でも現実のカオスの状態にはそれがまったくなかったので、彼らの現実の中から、私が一番興味を惹く要素を探し出さなければいけませんでした。そこで、まず自分で自分に尋ねたんです。「これは一体、誰を主人公にしたらいいだろうか?」と。

―――監督ご自身もオラと同じような経験をされたことがあり、「彼女の気持ちが完全に理解できた」ということですが、ニコデムはどのような子どもに見えましたか。

AZ:
私にとってニコデムは障がい児ではありませんでした。少なくとも、彼の障がい児であるという部分をフォーカスしたくはありませんでした。私が見るニコデムの中には、詩人の要素と預言者のような要素がありました。あるときニコデムに学校の宗教の時間のノートを見せてもらったんですが、そのノートには、彼の考えたとても詩的で、個人的な十戒が書いてありました。「私に食料を与えてください。私を救ってください。ゴミを捨てないでください。私をからかわないでください」。そのノートを見て、彼は自分のヴィジョンを持っている子どもだと感じました。何よりもニコデムは非常に内省的な子で、いつも頭の中で何かを考えています。


ドキュメンタリーにおける脚本とカメラの影響

―――クレジットに「監督・脚本」と明記されているように、この映画はドキュメンタリーではありますが、あなたが脚本(スクリプト)も書かれています。日本では、一般的にはドキュメンタリー映画というと、事前に脚本のようなものは存在しないと思って見る人も多いのですが、ドキュメンタリーにおける脚本について、監督の考えをお聞かせください。

AZ:私にとって、カメラを構えて眼の前で何かが起こるのをじっと待っているというのはとても退屈なんです。ですから、ドキュメンタリーを作るときも、普通のフィクションと同じようにスクリプトを作ります。ただ、フィクションと違って、絶対に台詞は書きません。どのように書くかというと、先ほど言ったように、まずカメラを回し始める前に、その対象ととても長い時間を過ごします。人類学者がよくやるように、研究対象の場所に行って、長い時間をかけて研究するのです。

―――いわゆるフィールドワークの手法ですね。

AZ:まさしくその通りです。そうやって長い時間を過ごしていると、あるシチュエーションで何が起きるのか、主人公たちがどんな反応をするのか、どういう行動をとるのかということが、ある程度予測できるようになってきます。一番重要なことは、彼らが感情的にどういうふうに反応するかということです。映画では登場人物の感情というのが一番大切です。台詞ではありません。アクションではなくエモーションをとらえること。

―――その本当の感情をとらえるために、脚本としてアウトラインのようなものを設定するということでしょうか。

AZ:長い時間を過ごしていると、彼らがどう反応するかだけではなく、彼らが何を望んでいるかもわかってきます。例えばオラがお母さんに電話しているとき、不満を言っていても、その声にはお母さんに対する愛情が感じられます。オラは胸の中では別居している母親に戻ってきてほしいと思っているんですね。フィルムの中では誰も嘘はつけません。感情は絶対に演じることはできないのです。劇映画とドキュメンタリーの違いで言えば、一方は俳優が演じますが、ドキュメンタリーは実際の人間が演技をするのではなく、真実の感情を表すのです。

―――少し脚本の話題と逸れますが、ドキュメンタリーであっても、カメラがあることで「演じる」ことが起きることははないですか?

AZ:もちろんそういう面はあります。ただ最初は演じていても、だんだんカメラに慣れていったり、ずっと演じ続けることに疲れてしまいますから、そうなってからが大事です。

―――「演じる」とまでいかなくても、カメラがあること自体が、何かしらの影響を与えることはないですか? これは良いとか悪いとかではなく。


AZ:やはりあると思います。もちろん彼らのその日の状態にもよりますし、カメラの存在が彼女たちをイライラさせることもあります。例えば、オラは機嫌が悪い時に、むしろスタッフを利用して、「私たちはこんなに問題があるんだよ!」と見せようとすることもありました。「助けてほしい」というときに利用するときもあれば、「もう、やってられないわ!」と癇癪を起こすようなときもあって、1年3カ月の準備のあいだにも非常に様々な状況、感情というのを表していました。ですから、私はカメラというものが壁に止まったハエのように、ニュートラルな存在であると信じているわけではありません。やはり影響を与える部分はあります。

―――逆に、あなたがそういったカメラの影響を利用することもありましたか?

AZ:
例えばオラの怒りを撮るときに、彼女にカメラをぐっと近づけることで、カメラに対するオラの怒りも増幅されて、怒りの感情を収めることができました。もちろん自分たちが撮影によって対象を傷つけたり批判したりするようなことは、絶対にしたくないと思っています。ただ、真実の感情を撮るためには少しのリスクが必要で、それをしなければいけない瞬間というのもあります。いずれにせよ、とても大事なのは、「私は映画を撮っている」ということを、相手にもしっかり理解してもらうことです。


▼Page2 初聖体式を映画に導入した2つの理由 につづく