日常ということばがおもいおこさせる光景や、そこに寄り添う人がいること、たとえば、アパート近辺の公園のベンチや、勤務先から帰宅する夜の街路、コンビニの駐車場の角、行きつけの食堂で、ひとり、ふたり、あるいは幾人で今日をうつろい、顔をあわせ、声をかわすこと、ありふれている、そう言ってもかまわないかわりばえない暮しを厭うでも執心するでもなく、いつからか、今ここで生きているということが、つづけられる生活の連々を見つめる日々の瞳に埋もれてゆく。名のないおもいでにかわってゆくのかと、経るほど静かに。あなたへのおもいが見なれた光景と諸共に、日常に拡がってゆく。
だとしても、今ここにつづく日常はあたりまえではない、そのことをわかっているから、なにげない日々が壊れてしまうのはたやすく、そんなことはわかっているから、日々を共に生きる人に、伝えたいおもい、伝えるべきおもいを届けられないこともあった。やわらかなまなざし、さりげなく人を気づかう話、ほほえみにゆるむ頬、おもいを晒してしまえば、そんなあなたがいる光景を見ることができなくなるかもしれないから。だから、丁寧に生きている。生きようとしている。このままでいいわけではない。人へのおもいと日常の輪郭とは、きわどくふれあい、ひとつのおもいに壊れる日常、日常をまもるために仕舞いこんだおもいがせめぎあう。躊躇いや悲しみやよろこびの切なさが、その均衡でふるえるように、秘かで僅かな表情や仕草となってあらわれる。日常にそよいでいる。それを照らす「歌」がある。それを見つめる映画がある。
本作は四首の短歌を原作にした四章からなる長篇映画として成立している。歌人の枡野浩一と監督の杉田協士が選者となり、映画化を前提として一般公募された短歌のテーマは「光」、結果、第一章「反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった」(加賀田優子作)、第二章「自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた」(宇津つよし作)、第三章「始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち」(後藤グミ作)、第四章「100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る」(沖川泰平作)の四首が、四章それぞれの原作となり、四人の女性の日々に「光」をあてる映画が撮られたのだった。ただし、本作を見るかぎり、タイトルである『ひかりの歌』の「歌」と、原作である「短歌」の詩形式の「歌」のありかたとは、必ずしもイコールで結びつけることはできない。よりつよく結びついている「歌」のありかたがある。それは、杉田監督の前作『ひとつの歌』の「歌」だ。かつて杉田監督は、『ひとつの歌』のインタビューのなかで映画と「歌」の関係を「僕が映画でやろうとしてる時間って今まで生きてきてどんどん記憶が薄れてく中でぼやっと思い出す場面、その集積みたいな感覚なんですけど、歌もそのスイッチの一つっていうか、かつて聞いた歌をふっと耳にした時に自分が今なんでここにいるのか思い出せるっていうか、そういう感覚です」と述べていた。(http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/higuchi_sugita/)
『ひかりの歌』の「歌」は、 『ひとつの歌』の「歌」と地つづきに響いている。
短歌を原作に映画を制作するという稀な試み、四首が四つの章を構成する原作「短歌」と映画『ひかりの歌』との関連をどのようにとらえればよいのか。近年には、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』という同名の詩集を原作に映画化がはたされているが、小説、漫画、アニメ、戯曲等、さまざまなジャンルの作品を原作として、映画は制作されつづけている。その多くは、原作とされる作品のテクスト、ストーリー、イマージュを受け継ぎ、そこに原作への解釈をくわえ、原作との距離をはかりながら映像化するということで成立していると言っていい。実写化、アニメ化、あるいはリメイク作品にしろ、そこではかられる原作との距離の大小が、結果として制作された映画の位置、意義を決定するならば、短歌を原作とした本作においても同様の視座が成り立つが、31文字の短詩形である短歌四首が、2時間半におよぶ映画『ひかりの歌』とどのような結ばれかたをしているのかとを見ることは、本作の内実を示す手がかりとなるだろう。
杉田監督は、枡野と写真短歌集『歌 ロングロングショートソングロング』(雷鳥社)を刊行しているが、かつて、作家の中上健次は、短詩形である俳句を「カメラ」を喩えに論じていた。俳句を「ポケットカメラ」に、散文で書かれる小説を「大きなカメラ」にたとえ、「ポケットカメラ」が瞬間をとらえる遊撃性を短詩形の意義にかさね見たのだった。短詩形である俳句と短歌を一様に語ることはできないが、ここで中上は、カメラのありように仮託し、短詩形と小説の差異を写真とムーヴィーの違いによって言いあてようとしたのではない。もしも、静止画と動画の差異が念頭にあったとしても、中上が問題としたのは、彼自身の語彙にしたがえば、物語との距離のとりかたと言えるものだった。だから、この発言が四半世紀以前のものであり、当時と現在ではカメラそのもののありようが、カメラと生活の結びつきが、そのメディアの意義そのものを揺さぶるほどに変容している事実を考慮にいれたとしても、中上の見地が今なお有効におもわれるのは、このためだ。中上健次が見た短詩形の遊撃性とは、ドキュメント性と仮構の問題も含意されていて、中上が自らの実践において線引きをした小説と短詩形の差異は、物語と非物語の領野の問いとして、よこたわっている。
『ひとつの歌』にまつわる先のインタビューで杉田は、自身監督をつとめる映画が、物語の要請する時間とは別の時間のありかたを撮ること、一義的に物語に回収されることのない瞬間、光景を見つめることを意志していると、明確に述べている。映像によってドラマをつみあげてゆくことの物語が宿すカタルシスを映画にうつしだすのではなく、「誰かと誰かが交わす時間みたいなものを見ていくだけでもいいんじゃないか」「『ひとつの歌』では誰かがただ歩いていたり、誰かが何かを見ていたり、たまに誰かと目が合っちゃったりっていうのが軸になる映画」を実践したのだと。この意志は『ひかりの歌』にも継承されている。そして、短詩形である四首の原作と映画『ひかりの歌』との関連は、ここにあるのだ。
短歌や俳句といった短詩形の作品は、一般的に、その稀少な語にたいして、多くの内容や意味、あるいは物語が内包され、圧縮され成立している、そう認識されることがある。この見地に立つかぎりは、その圧縮 を解凍するように、短詩形作品の解釈が、長大な物語として展開するということもありえるだろう。しかし、そもそもそのような物語や散文的解釈との関連のなかだけ短詩形を、あるいは詩を、「歌」をとらえようとしても、その詩形式のありようを汲み尽すこと、言いあてることはできない。中上が見たように、それらはどこかでかさなりながらも乖離している。そして、本作『ひかりの歌』において、すくなくとも、原作短歌の解釈=映画化と図式にされてはいない。原作となる四首は、杉田が「歌もそのスイッチの一つ」であると言った映画の契機としての「歌」のphrase(フレーズ)だ。映画『ひかりの歌』は、その文言の仕草を映像で書きなおすかのように、その光景へといたる「誰かと誰かが交わす時間」をつむいでゆく。
日常に埋もれ、けれど、日常にこそひそむ光景や関係が、本作には籠められている。「取り返しがつかない、その人にとって世界が変わってしまう瞬間が、それはそれとしてあるけど、その人はまたずっと生きていかなきゃいけない、その映画も続いていかなきゃいけないっていう、もしかしたらのっぺりしてるかもしれない時間」を杉田は、丁寧に、映画にうつしこんでゆく。日常と呼ばれる暮らしのあやうさも、かけがえのなさも、映画は見つめる。その日々のなかで人が見せる、たやすくは解釈などできない、その感情を言い切ることができない仕草や声や表情を映画はいとおしむ。杉田にとり映画に結ばれた「歌」のphrase(フレーズ)とは、物語的な予期とは別のbreeze(そよ風)であり、日々に息衝くかすかな、確かなbreath(息)であり、それらを丁寧に見つめるまなざしに射す「ひかり」なのだ。
※写真は全て©光の短歌映画プロジェクト
【作品情報】
『ひかりの歌』
( 2017/日本/カラー/スタンダード/153 分)
出演:北村美岬 伊東茄那 笠島智 並木愛枝 廣末哲万 日髙啓介 金子岳憲 松本勝 リャオ・プェイティン
監督・脚本:杉田協士
原作短歌:加賀田優子 後藤グミ 宇津つよし 沖川泰平
撮影:飯岡幸子 音響:黄 永昌
編集:大川景子 小堀由起子
音楽:スカンク/SKANK
カラリスト:田巻源太
写真:鈴木理絵 題字:岸野統隆
配給協力・宣伝:髭野純
宣伝:平井万里子 宣伝デザイン:篠田直樹
配給:Genuine Light Pictures
製作:光の短歌映画プロジェクト
2019年1月12日(土)ユーロスペースほか全国順次ロードショー
公式サイト http://hikarinouta.jp/
【著者プロフィール】
菊井崇史(きくい・たかし)
大阪生まれ。 詩や写真、また映画等の評論を発表。 2018年に『ゆきはての月日をわかつ伝書臨』『遙かなる光郷ヘノ黙示』(書肆子午線)の二冊の詩集を刊行。 neoneo誌のレイアウトにも参加する。