『ドリーミング村上春樹』(原題はDREAMING MURAKAMI)と日本語で名付けられたこの映画には、村上春樹その人は登場しない。私たちは、デンマークで流通する村上春樹の小説のほとんどの翻訳を手がけているという、ひとりの翻訳家の清廉な佇まいを通じて、その小説世界のイメージを旅することになるだろう。
およそ1時間というささやかな本編を構成するフッテージは、いたってシンプルである。村上にとって最初の小説である『風の歌を聴け』をデンマーク語へと翻訳し、その書籍化を進める翻訳家メッテ・ホルムの姿を中心に、そのなかの「完璧な文章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」という一節をいかに訳すべきか? この問いをめぐる彼女の冒険が描かれる。そして、村上作品のイメージを追って日本を訪れる彼女の旅の道程、そして2016年にハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞を受賞し、デンマークを訪問した村上とメッテが対談のために出会う直前まで――が静かに映し出されていく。
この映画を貫くモチーフを取り出すならば、それはおそらく“二重性”をめぐる問題である。それは彼女も重要視する、たとえば『1Q84』に登場するような並行世界(パラレルワールド)として、ムラカミ作品のなかに内在するテーマでもある。それと同時に、“完璧な翻訳”を求めて日本を訪れ、小説のなかのイメージを辿るうちに、作中の登場人物とメッテの姿が重なりあう。彼女は小説を訳しつつある翻訳家であると同時に、その小説の登場人物でもあるようだ。
その二重性は、時おり挟み込まれる、情景と溶け合うように捉えられたガラスに映る翻訳家の姿として印象的に表現される。幼少期における彼女の小説との出会いや、日本語を学ぶきっかけになった幸運、そして小さい頃のささやかな思い出などが語られるなか、いわゆるファンの熱量のこもった聖地巡礼とは異なる、さまざまな幻想を伴いながらの、静かな足取りの旅が続いていく。
ひとり日本を訪れ、ムラカミ作品の面影を探すメッテ・ホルム。自身も孤独を愛してきたという彼女は「村上春樹の登場人物は孤独のなかで成長する」と語りながら、しだいに小説のなかの登場人物となっていく。彼女が訪れる深夜のデニーズ、バーカウンター、古びたレコード、語りかけてくるピンボール、首都を貫く高速道路、夜空に浮かぶ二つの満月――そんな村上作品でもお馴染みとなった光景を実際に訪れる。『サン・ソレイユ』においてクリス・マルケルが東京を眺めたように、観光者としての新鮮な視線を彼女は持ちつつも、村上作品のイメージを通して、その内面へと深く入り込んでいく。そしてさらに、私たちは彼女とともに旅をすることで想像力を掻き立てられ、ありふれた日常の風景を違った世界――まさにパラレルワールドのように――眺めることができることに、驚いてしまうはずだ。
そして、二重性のテーマは翻訳を続ける彼女にとって、言葉をめぐる問題として関わってくる。ある言語で書かれた小説を、別の言語に翻訳すること。そして翻訳された言葉には必ず、翻訳家自身の声が反響せざるをえないこと。メッテが映画のなかで訳しつつある『風の歌を聴け』からの「完璧な文章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」という文章は、まさに「完璧な翻訳」とは何かを考えるうえで、格好の練習問題となる。メッテと友人の翻訳家との会話のなかで登場する「ムラカミが醸し出す世界観を伝えることが必要なんだ」という言葉が処方箋となるとおり、翻訳家は介入することを避けられず、透明な存在ではありえない。
村上春樹の小説を初めてデンマーク語へと移し替えつつ彼女は、その言語における唯一の翻訳家であるとともに、まもなく誕生するデンマーク版の小説の初めての読者でもある。言葉とともに、小説の世界観を正確に把捉すべく、友人の翻訳家との対話を重ねていく。その原典との“戦い”は、この映画でも引用される「かえるくん、東京を救う」の一節を借りれば、「想像力の中でおこなわれました」ということになるだろう。つまり、その戦いは私たちの知らないところで行われるはずだった。このフィルムの監督であるニテーシュ・アンジャーンは、本来は誰にも見られなかった“戦い”の模様を丁寧にカメラに収め、翻訳された言葉には小説家と翻訳家の声が重なっていることを示してみせる。メッテの姿に小説の登場人物を重ねるという演出は、このことでいっそう感動的なものに感じられる。
さらに“二重性”というテーマから連想を進めると、現実の出来事に応答するフィクションをめぐる、切実な問題にも関わってくるといえるだろう。それは村上自身がしばしば現実問題を語るときに用いてきたメタファーの数々にも象徴されるものだ。よく知られている、エルサレム賞を受賞した際の式典スピーチの“卵と壁”の比喩(「高く硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるとき、私は常に卵の側に立つ」)を思い出すことができる。
そのとき、この映画のもう一人の登場人物の存在意義が明らかになる。それは、阪神淡路大震災後に書かれた連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収められている「かえるくん、東京を救う」から飛び出した、巨大な“かえるくん”である。ドキュメンタリーのなかに挿入された、異質な存在としてのかえるくん。その日本語の持つ、どこかツルリとした語感からは少し異なる姿をした彼は、日本を旅するメッテを見守るかのように、彼女の後を追いかけ、そして、想像力のなかで戦いを繰り広げるかえるくんとみみずくんの物語をモノローグで引用しながら語っていく。
かえるくんが登場人物に選ばれたのはもちろん、単にそのキャラクターとしての存在感だけではない。小説家にとっての想像力という問題を考えるときに、「かえるくん、東京を救う」というテクストは、村上にとっての意見表明でもあると、少なくとも考えるべきであろう。先のエルサレム賞受賞スピーチで語られた「小説家が真実を新たな場所に移しかえて、別の光を当てて、フィクションをつくり出すことによってこそ真実はその姿を現す」という小説家としての決意の一環ともいえる物語であるのだ。
メッテが劇中で口にする「翻訳家が言葉で境界をこえる」という言葉は、小説家としての村上が“真実”に対峙したときの姿勢と重なる。ある真実に対して、小説家は想像力によってフィクションを生み出すことで、その真実に応答する。翻訳家は完璧な翻訳など存在しないからこそ、言葉を移しかえて新たな言語で語られる物語をつくり出す。メッテの翻訳は、彼女自身の声を反響させながら、村上が作り上げた物語世界を表現することになるのだ。
この映画を締めくくるのは、デンマークの国立図書館において、まもなくメッテがアンデルセン文学賞を受賞した村上との対面を迎えようとしている場面である。冒頭にも書いたように、この映画には村上春樹その人は登場しない。あくまでその存在は、想像力に委ねられており、ラストシーンでは、村上との対談に備える彼女が、かえるくんと目線を合わせるという瞬間が切り取られる。虚構の存在でしかなかったかえるくんが図書館に現れ、現実の存在としての翻訳家と同じ世界に共存する。メッテからかえるくんへ、そしてかえるくんからメッテへと、カメラはショットを切り返す。二重の視線が達成されたとき、映画は静かに幕を閉じる。そして、その交わった視線に、私たちは眼差しを重ねることになるだろう。
映画のラストでは、「完璧な文章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」という文字にデンマーク語の声が重ねられる。続けて、そのデンマーク語訳が文字として表示され、それに日本語の翻訳が付せられる。日本語とデンマーク語の両方で、二重に語られた小説の言葉。残念ながらデンマーク語はわからないとしても、これらはまったく同じではありえない。ただし、二つの言語の往還を経たあと、そこにはメッテ自身の声が聞こえてくるように感じられるはずだ。「世界文学」とは、翻訳されてこそ意義を見出されていくことになる文学のことを指すが、スクリーンに登場するデンマークの翻訳家のからだを通じて、私たちはそのことを実感することになる。
このささやかな“クライマックス”の余韻は、一編のロードムービーを見終えたときの爽快感に、どこか似ている。それは“完璧な翻訳”を求めた翻訳家の旅だった。そして、その旅は映画が終わったあとも、どこまでも続いていく――。
写真はすべて(c) Final Cut for Real
【映画情報】
『ドリーミング村上春樹』
(2017年/デンマーク/デンマーク語、日本語、英語/60分/カラー/クリエイティブ・ドキュメンタリー)
字幕翻訳:吉川美奈子
監督:ニテ―シュ・アンジャーン
後援:デンマーク大使館
配給:サニーフィルム
新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開中
公式HP:https://www.sunny-film.com/dreamingmurakami
【執筆者プロフィール】
大内 啓輔(おおうち けいすけ)
早稲田大学大学院修士課程修了。論文に「ウディ・アレン『アニー・ホール』におけるオートフィクションの様相」など。