【連載】「視線の病」としての認知症 第14回 「認知症ケア」の夜明け text 川村雄次


この時期、認知症の人へのケアの手がかりを求めて、武田さんだけでなく多くの医療やケアの関係者が北欧やオーストラリアに渡った。そこで人々がいちように驚いたのは、認知症の人が、調度品のある部屋で、きちんと洋服を着て、食事やお茶を楽しむ「普通の暮らし」をしているという事実だった。これも当たり前のようだが、全く当たり前ではなかった。当時の日本では、認知症の人と言えば、昼も夜もパジャマ姿で、意味もなくウロウロと歩き回っているか、よだれを垂らしながらボーっと眠りこけている姿を思い浮かべるのが「普通」だった。「普通ではないこと」が普通だったのだ。スウェーデンのグループホームを訪ねたある医師は、徘徊するような「重い人」はどこかに隠しているのではないかと疑い、質問したら、「座ってコーヒーを飲むなどしていたら、歩き回りませんよ」と言われ、拍子抜けしたという。

だが、この医師も武田さんもハタと気づいたのだ。日本の認知症の人たちがそのような姿をしていたのは、病気や本人のせいではなく、自分たちが整えた環境や扱い方が彼らをそうさせていたのではないか、と。我が身を振り返って、自分たちの「常識」が大間違いだったのではないかと検討し始めたのだ。そして、「ケアの改革」に着手した。

武田さんは、ベック・フリース医師から学んだ3つの原則を頭に叩き込み、「理想論」を愚直に実践していこうと決意した。とりわけ重要だと思ったのは、2番目の、「できないからやってあげる」にかわる、「本人が力を発揮できるように支援する」という、新しいケアの発想だった。

1990年代、全国各地のケア現場で武田さん同様、「認知症の人は普通の人であり、普通の暮らしを送ることができる」と見て、それを助け、人間らしく人生を全うできる場を作ろうという動きが起きていた。「ケアなきケア」の時代を脱して、認知症ケアの夜明けが始まっていた。

話はそれるが、夜明けはそれから20年たった今も続いている。認知症の人が「そのような姿」であることを、あくまでも病気や本人のせいであると考えて、ケアや環境を見直すことをしていない現場が今なお大半である。なので、認知症になった時、誰と出会うかによって、天国と地獄ほどの違いが生まれる。それは、所得の大小よりは、出会った人や専門機関の認知症観に大きく左右される。そのことを頭に刻んでおくことをお勧めしたい。それによって、ご自身や家族が認知症になった時、「その後の人生」が変わってくるはずだ。

話を武田さんに戻す。

武田さんは2000年、自分の考える理想のケアを行う拠点を作るため、自分の会社を立ち上げた。そして、札幌市内の住宅地の民家を改修。「グループホーム福寿荘」が誕生した。

ちょうど国の介護保険制度が始動した年だった。当時から、要介護の老人の大半に認知症があることは知られていたが、その人たちに向けたケアが必要であり、可能であり、「違い」を生み出すということについて、まだようやく合意が出来るかどうかという段階だった。「認知症ケアとは何か」が手探りで求められている途上だった。その中で厚生労働省は、グループホームを「認知症ケアの切り札」と位置付けた。介護報酬が得られることが約束されたので、全国に新たなグループホームが次々に作られた。今やその数は1万2千を超える。しかし、箱を作っただけではグループホームはその真価を発揮しない。どうすればグループホームが本当の意味での「切り札」たりえるのか、まだ手探りの状態だった。そんな中、武田さんは、「認知症ケア」の可能性を押し広げ、世に知らしめる指導者として全国で活躍するようになっていった。

グループホーム福寿荘Ⅱ(札幌市)

そして、第二の目覚め。クリスティーンとの出会いである。

先ほど私は、当事者が声をあげることを、水面に投じた石と波紋にたとえた。別の言い方をすると、それは、電気回路を通じて電灯のスイッチを入れるようなことではないということだ。一斉にパッと明りがともるようにはことは運ばない。あらかじめ電気回路が存在しているわけではないのだから。

だが、それはそれほど悪いことではない。パッとついた電灯はパッと消えるが、ジワジワと時間をかけて伝わって、ようやくともった炎は、容易には消えないのだ。そしてプスプスとくすぶるおき火のように、やがて大きく燃え広がる火種になることもある。

水と火という対照的な比喩を用いたが、武田さんとクリスティーンとの出会いは、まさにそういうものだった。

武田さんがクリスティーンについて知ったのは2004年の秋か冬。初めての来日講演から1年以上経ってからだった。松江と岡山での講演が聴衆にもたらした熱狂も、私たちが作った番組についても、札幌の武田さんのところには届いていなかった。SNSが普及した今と当時とでは、情報の行きわたり方が全く違っていた。また、「本人が話す」ということはそれほどまでに想定外で、ケアの専門家として張り巡らせているアンテナにもひっかからなかった、ということでもあっただろう。

武田さんは知人に勧められ、『痴呆の人から学ぶ クリスティーン・ブライデン講演より』という市販のビデオ教材を見た。来日に関わったケア研究者らが制作会社に依頼して講演を録画し、独自のインタビューを加えて制作したもので、看護学校の授業や認知症ケアについての講習会などで使われ始めていた。タイトル通り、ただひたすらにクリスティーンが語る姿と言葉をそのまま伝えるシンプルな作りなのだが、その言葉をこそ聴きたいという人々に多く見られた。
クリスティーンの言葉は、武田さんの頭の中で、目覚まし時計のベルのように響きわたった。「衝撃的だった」と武田さんは言う。「スウェーデンでベック・フリース教授から認知症とはどういうものかは教えてもらったが、認知症の本人がどう感じているかについては何も知らなかった」と、気づかされたのだという。

現場の指揮者である武田さんの言葉はいつも簡潔である。大事なことほど短くなる。本質を伝える言葉はひとことで足りるのだ。彼女は「行動の人」で「言葉の人」ではない。言葉は、次の行動を起こすためのきっかけに過ぎない。この場合のひとこととは、「(自分は)認知症の本人がどう感じているかについて何も知らなかった」である。彼女の1988年から続く「認知症ケア」への探求は、このひとことに行きつくためのものであり、このひとことに行きついたことで、新たな段階に入るのである。

「本人はどう感じているか?」という問いが胸に宿るということは、「私ならどう感じるか?」という問いを持つようになるということである。その問いは、内なる目を開かせる。自分が見ている相手の側から、自分を見る。そんな目だ。
「相手の目から見ると、私はどう見えるのか?」「何をすることを期待されているのか?」「その期待に応えられているか?」

胸の中に生まれたこれらの問いは、人を行動に駆り立てる。

武田さんは飛び起きるように行動し始めた。最初に手をつけたのは、グループホームの日々のケアの見直しだった。例えば、クリスティーンが複数の音が一度に聴こえるとうるさく感じ、音を聴いているだけで疲れ果て、頭痛を起こしてしまうこともあるのを知り、食事時にBGMを流すのをやめた。テレビをつけっぱなしにするのもやめた。

小澤勲医師によれば、健康な人だとBGMや雑音があっても、自分に必要な音だけを聴き取ることが出来るが、認知症の人ではそうした音のスクリーニング機能が損なわれることがあり、うるさく感じてしまうのだという。武田さんのグループホームには、クリスティーンの言葉を医学やケアの言葉に翻訳して伝える小澤医師の本が常備されていた。

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