【Review】『ダンシングホームレス』「世間の目」を越えた先の光景 text 柴垣萌子

『ダンシングホームレス』の主だった被写体となる「新人Hソケリッサ!」は、ホームレス、そしてホームレス経験者だけで構成されたダンスグループだ。彼らは新宿を拠点に日々練習やワークショップを行い、様々な場所で公演も行なっている。もともとダンスをやっていた者もいれば、まるっきりはじめての者もいる。ホームレスになった理由も含め、バックグラウンドも実に様々だ。彼らに共通するのは、その生活の基本は路上にあることのみ。寝床にしていたベンチが撤去されてしまったり、場合によっては隠していた荷物がある日突然無くなってしまうかもしれない。そんな彼らの形成するグループ「新人Hソケリッサ!」には、人に被害を加えないということ以外は決まりがなく、一応練習の時間と場所は指定されているものの、その参加すらも強制ではない。そのため時間通りに誰も集まらず、最後まで一人も来なかったために何もできなかったという日もある。そして、長く練習に参加し、グループの一員として公演を成し遂げ、信頼関係を築いていたと思っても、ある日突然グループを去ってしまう者もいる。

主催者であるアオキ裕キは、しかし彼らのそうした選択や節目を尊重し、強制することはない。彼が「新人Hソケリッサ!」に参加するメンバーに求めるのは、社会的なルールを守ることでも、振り付けを完璧にこなすことでもない。ただ彼らの身体に宿る、“何か”を引き出そうとしているのだ。作中であらわれるダンスそのものは、巧みな技術や驚くような技に支えられたものではない。しかし、その都市の空気を吸い込み、アスファルトの硬さに呼応したように硬くなった身体の、必要に迫られたようにヒシと動くその姿は、見るものを何か圧倒させる、原始的な雰囲気を醸し出している。

作中では「新人Hソケリッサ!」への批判のコメントなども取り上げられる。彼らがホームレスであるということから、「ダンスをするくらいなら働け」という中傷を受けたという。そのコメントは、彼らに対して向けられた批判というよりは、「このようになるな」という、親が子に向けて言い放つようなコメントであるように思えた。だが、果たして彼らへの批判が社会の秩序を守ることになるのだろうか。または、彼らの肯定が社会に反することになるのだろうか。社会とはそんなにも排他的な空間なのだろうか。違う。いや、仮にそうであったとすれば、社会をそうした環境にしているのは、紛れもなく一人ひとりの構成員である。そして、その一人ひとりは常識という範囲に守られた目に見えない「世間」と自分自身が繋がっていると思い込んでいる。

彼らが冬の寒さの中小銭を稼ぐために雑誌を手売りする姿や、歯ブラシや歯磨き粉が買えず、ホームレス生活を二年過ぎた頃から抜け出したというボロボロの歯から、そのリアルな生活を垣間見るシーンがある。その厳しい現実を目のあたりにすると、やはり世間の目の方に心が揺らぐ瞬間がやってくる。気を抜くと厳しい日常や生活からくる不安の渦に巻き込まれ、常識という名の世間の思考に飲み込まれてしまいそうになる。カメラ越しに響く「なぜ家を失ったんですか」いった率直で淡々とした質問は、そうした世間の声を代表しているかのように痛烈なものが多いように感じた。そしてその質問と彼らの答えとの狭間で自分自身はどの視点に立って映画を観ているかを、その都度グラグラと試される。それだけ「世間の目」は、日本人の誰の心にも蔓延っている。しかし、彼らはすでにそうした「世間の目」を相手にはしていない。表面上の華やかさではなく、内面の深度に重点を置いているからだ。その行為自体に、その一瞬一瞬の緊張感に意味がある。

そして、そんな彼らが映画『ダンシングホームレス』となった時、「映画」がその実像を追うことで、街中ではただすれ違うだけで背景として過ぎ去っていたかもしれない彼らのその信念を、偏見や世間の目を超え、観るものの心の繊の部分に訴えかけるのだ。

沖縄の古い方言に「スデル」という言葉がある。「生まれ変わり」という意味のあるこの言葉は、卵から動物が孵化する姿や、脱皮する姿の事を言う。つまり、母胎を必要としない誕生だ。そして、「スデル」には生まれ変わりの期間までの「休息」の意味も含まれている。何もかも捨て去った路上での生活、そしてそうした人生の節目に体当たりで直面した経験を持つ彼らは、まさに「スデル」を経験した、あるいは今まさに経験している最中であるように思われた。昔は「スデル」ことの出来る人間は、「社会」の尺度では測れない、何か特別な力を宿しているとされていた。そして彼らのダンスは、社会の外側、あるいは本質としての「場所」の力を身体で存分に吸い込み、確かな感覚を持ってそれを表現しているように思われた。

監修をつとめるアオキ裕キは、有名アーティストのバックダンサーを務めるなど、もともとはメジャーでも活躍していた人材だ。そんな彼がなぜ、決して万人受けしない活動に力を注いでいるのだろうか。アオキは、ただ奇抜な表現をするためにホームレスを選んで「新人Hソケリッサ!」を結成したわけではない。あくまでも本質的な表現の追求のため、彼はホームレスを選んだ。そしてその探究心は残酷なまでに純粋だ。また、その身体の力を信じる姿には、リーダーであり続けることの出来る、ぶれずに先頭を走り続けることの出来る強さを感じた。また、できる限りの給料を支払っていることや、野次の飛ぶ公演を終えたあとに「こういう経験も必要だ」と言いつつもどこか悔しさの含む表情などから、ホームレスたちへの大きな愛情と信頼関係が感じられた。アオキが発する「社会のルールがいいですか」という言葉は、ただの反骨心から来る奇を狙った発言ではなく、重みと説得力、また冷静さが確かにともなっていた。

アオキが現代人は「先」を見て行動するところがあると語るシーンがある。確かに過去、現在、未来と時間が右から左に一直線に流れていると、未来を見据えて行動することは、つまり「先」を見て行動することになるだろう。その直線的な時間の流れの考えを採用すると、「スデル」という表現の意味も「よみがえり」や「復帰」といった意味合いが強くなる。しかし、私は彼らに「よみがえり」や「再生」、「復帰」などの言葉を当てはめたくはない。なぜなら、彼らは家を失う前と後、そして踊りはじめる前と後では、人生の大きな節目を経験し、今まで積み上げてきたことが何も通用しない事態に陥ったからだ。そうした中では、これまでとは大きく違った自身のあり方が求められ、必然的に大きな変化を余儀なくされてしまう。だが、本作ではホームレスとしての彼らとダンサーとしての彼らを対比させるかのように見せる編集も相まって、彼らはすでにダンサーになったという、「生まれ変わり」を達成しているように見て取れた。その生活とダンスの対比的な編集は、たしかにダンスの迫力を引き立たせ、観客に視点の揺らぎを与えることに成功していたが、ホームレスとダンサー、はたまた生活することと表現の狭間は一体どのようなものなのか、そうした「生まれ変わりの瞬間」をもう少し丁寧に映して欲しかったというのが私の本音である。

ラストシーンでは身体と場所との関係性を追求した彼らの集大成を見ることが出来る。「場所」の力を存分に吸い込んだ身体は、新宿のビルの明かりを照明に、クラクションを効果音に、そして天候までもまるで舞台を盛り上げる一員であるかのように変化させてしまう。本作の中で映される公演『日々荒野』は、そうした「場所」と「身体」の融合のようにも思われた。「場」が味方するとはこの事か、と。

自身を変化させたことのある人間には、同じように何かを変える力が宿る。孵化を意味する「孵る」という言葉は、「変える」でもあることを彼らは身体で示しているのかもしれない。

参考文献:『古代研究I 民俗学篇I』折口信夫著、角川ソフィア文庫、二○一六年。

【映画情報】

『ダンシングホームレス』
(2019年/日本/カラー/DCP/99分) 

監督・撮影:三浦渉
編集:前嶌健治 撮影:桜田仁 音楽:寺尾紗穂、石川征樹、平沢進、ダニエル・クオン
プロデューサー:佐々木伸之 エクゼクティブ プロデューサー:田嶋敦  
製作 配給:東京ビデオセンター
出演:アオキ裕キ、横内真人、伊藤春夫、小磯松美、平川収一郎、渡邉芳治、西篤近、山下幸治

映画公式HP:thedancinghomeless.com

3/7(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー

写真はすべて© Tokyo Video Center

【執筆者プロフィール】

柴垣 萌子(しばがき・もえこ)
多摩美術大学芸術学科3年生。小説執筆を趣味とし、現在映画脚本なども勉強中。ダンス・楽器などの経験や、さまざまなアートに触れることで磨いた感性、持ち前の好奇心を武器に精進していきます。