【Report】「neoneo meets!! vol.00 さようならドキュメンタリー」報告 text neoneo編集室

石川直樹氏(左)と諏訪敦彦氏(右)

去る8月23日、雑誌『neoneo』の創刊を記念したイベント『neoneo meets!! vol.00 さようならドキュメンタリー』が、オーディトリウム渋谷で行われた。会場には約120名が集まってくださり、上映後のトークも含めて盛況だった。これはトークの記録を中心にした、neoneo編集室としての報告である。

 

■対照的な二人

今回のイベントで編集室が目指したのは、“雑誌のライブ版”だ。新たに生まれた『neoneo』という雑誌が掲げる「ドキュメンタリー表現の批評と議論の場」を、映画館に持ち込んだらどうなるか? ゲストには、創刊号のアンケート企画「さようならドキュメンタリー」に回答を寄せていただいた中から、写真家の石川直樹氏と映画監督の諏訪敦彦氏をお招きした。石川氏は、ドキュメンタリーとは「記録を根幹に据えた作品」と答え、また諏訪氏は「こんなところにもドキュメンタリーがある、とただ指し示すことの方がはるかに創造的に思える」と答えてくださった。異なるフィールドでそれぞれ明確な視点を持つお二人に、“ドキュメンタリー観”を自由に語っていただきたいと考えた。ただお二人には面識がなく、このイベントで初めてお会いになるとのこと。そこでトークのきっかけとして、石川氏がアンケートで「これぞドキュメンタリーといえる1本」に挙げてくださった『どっこい!人間節・寿自由労働者の街』(小川プロダクション製作/1975)を上映することにした。これが奇しくも、neoneo編集室代表・伏屋博雄のプロデュース第一作であるということには不思議な縁を感じた。

上映前に伏屋が挨拶に立ち、これまで11年間発行してきたメールマガジンが新たなスタッフを得てneoneo編集室としてwebと雑誌に移行した経緯、そして『どっこい!人間節』のプロデューサーとして製作時のエピソードを披露した。
(作品の詳細はこちら→http://webneo.org/archives/3031

本誌編集長・伏屋博雄

本作は小川プロダクションの中でも上映機会が少ないのか、初めて見たという若い観客も多かった。今や貴重な16mmフィルムでの上映後には、「むき出しの生をそのまま刻んだような作風が新鮮」「久しぶりに見たが、やはり面白い」という声が聞かれた。

 休憩を挟んで、諏訪氏・石川氏のトークがスタート。まずは『どっこい!人間節』の感想を話し合っていただいた。お二人が着目したのは、この作品が持ち合わせている映像そのものの存在感の強さについてだった。

石川氏は自らがタイトルを挙げた『どっこい!人間節』を見返してあらためて、「ドキュメンタリーとはこういうものを言うんだ」と再認識したという。石川氏自身もここ4年ほど寿町を撮影しているそうだが、なかなかこんなふうに撮れないとのこと。この映画には、「作り手の意図を超えて“撮らされている”と言える力がある」という。「カメラワークやストーリーがどうということではなく、そこに人がいて、ひたすら何を投げかけてくることを受けとめるという姿勢に共感する」と語った。北極やエベレスト、太平洋の島々といった世界各地を撮影しているイメージが強い石川氏だが、そこには「全身を使って生きている人が好き」という共通項があり、その点で寿町にも同じ眼を向けているそうである。

諏訪氏は感想の前に、ドキュメンタリー制作者の顔がちらほら見える客席を眺めながら、「僕が今日ここで話していいんでしょうか。僕はドキュメンタリストではないし、石川さんがいろいろな極地に行って写真を撮ってきている方だということで、まいったなと・・・僕はどこにも行かないんですよ。富士山にも登ったことないし」と笑いを誘った。たしかに、このお二人は制作スタイルに関しては対照的である。そんなお二人が話し合うことで、どういう方向性が見出されるのか、それが編集室として楽しみだった。

司会・進行の中村のり子(neoneo編集室)

■自意識を超えて“撮らされている”

『どっこい!人間節』について諏訪氏は、小川紳介監督による編集が、あくまでも“ここが世界だ”という作り方になっていることを実感した、という。「告発したり批判したりする以前に、この人たちのことをまず讃えようという、“そこにただ映る”ことを肯定する映画の力を久しぶりに感じた」と語った。そしてその感触は、全てを体験として乗り越えていけばいい、という石川さんの作家としてのスタンスにも通じているという。

諏訪氏は石川氏の写真を見ていて、ただ“写る”ということをポジティブにとらえている姿勢を新鮮に感じ、自分にはそういうことができなかった、と思ったそうだ。諏訪氏は、むしろ「撮っても何も写らないのではないか」と、映像の力に対して批判的な姿勢を持ち続けてきた。しかし、「石川さんは、そこをスッと突き抜けて、ただ撮ればいいんだ、と行動する。それは僕にとっては難しいこと」。

かつて諏訪氏がテレビドキュメンタリーを撮っていた時、現場の自由さは面白かったが、「ただ目の前を撮る」ということができなかった。こういうふうに見せたい、という狙いから離れることができず、石川氏が言うような“撮らされている”状態にはなれなかった。そんな諏訪氏の場合、フィクションを作った時に初めて自意識から解放された、と感じたという。長編第一作の『デュオ』(1997)で、撮影のたむらまさきさんが自分とまったく違う発想で撮ったラッシュを見た時、非常に自由な感覚があった。そして、「その場全体が映画なんだから、どこを撮ったっていいんだ、と思えた」という。

創刊号に掲載されている写真家の石内都氏のインタビューの中から、諏訪氏は『美しいと思うものを撮る』という発言を引き合いに出し、それは意図した美しさに留まるものではなく、むしろ現場の中で自意識のとらわれから解放された時に、神が降り立つように出現するものだと語った。「その“美しさ”は、フィクションでもドキュメンタリーでも変わらないと思う」。

それに対し石川氏も、「写真集では、編集者など他人の手によって目の前の世界が組み替えられ、自分が体験してきた旅が違う形で立ち現れるということに魅力を感じる」と応答した。「写真というのは“世界の端的な模写”だと思っていて、どこを撮っても単に世界の端っこが写るわけで、そこに失敗も成功もない」。石川氏は写真を撮る時、たった35年生きた程度の自分の意識から面白いものが生まれるとは思えないため、とにかく考える前に体を動かすことを続ける、という。「言葉以前のものを撮りたい。ペットボトルを“ペットボトル”として撮っても面白くなくて、ただの説明になってしまう。だから『これは何か』と認識する前に、体が反応した時点でシャッターを切る。いろいろと考えた末、そうするしかないんじゃないかと思った」。「自意識を完全になくすためには、中平卓馬さん(写真家)のように記憶喪失になるしかない」と話すと、会場からは笑いとうなずきが起こった。

「でも、いくら自意識を排除しようとしても、どこかへ行こうとか、何かを撮ろうという時には必ず自分の意志が伴うよね?」と諏訪氏が問うと、石川氏は「それは確かにそう。ただ、行動した時に起こる偶然をすべて受け入れることを大事にしている。僕はいつも、Aに行こうと思っていても、目の前にこっちの方が面白いということが出てきたら、迷わずAは捨ててそっちを選ぶという旅をしてきた」。アラスカの動物写真で知られる星野道夫さんの「人生とは、何かをしている時に起きる別の出来事」という言葉を紹介し、興味がないと思ったことでも出会ったらすべて受け入れよう、という姿勢で作品をつくっているのだと語った。

 


■批評すること/肯定すること

その後、トークはお二人が答えた創刊号の中のアンケート企画に及んだ。石川氏が「諏訪さんは『すべての映像はドキュメンタリーである』と答えているが、その根拠はどういうところにあるのか?」と問うと、諏訪氏は「どうしようもなく写ってしまうもの、それが映画の中では重要だと思う。それはやはり、“ドキュメンタリー”といえる所から開かれていく部分。カメラには、どうしようもなく写ってしまうものがあって、それが見る人の根源的な感動を呼ぶ」と語った。そして諏訪氏が「石川さんは、すごくシンプルに『記録を根幹に据えた作品』と答えている。なかなか素直にこういうふうには言えない」と伝えると、石川氏は「これは苦し紛れで、『ドキュメンタリーとは何か?』なんて答えられない、と思って適当に答えたというのが正直なところ。これは堂々巡りになる質問で、他の回答を見ても皆困っているのが分かる」。この石川氏の指摘は、まさしくneoneo編集室が企画を進める中で思い知ったことで、アンケート企画自体の弱点が露呈されたと言っても良い、実に耳の痛い話であった。

さらに話は深まり、諏訪氏が同世代のドキュメンタリストとして佐藤真監督を引き合いに出し、映像の批評性という問題について語った。「佐藤真も僕と同様に、映画という表現の可能性に対して疑いを持ちながら、じゃあ何を撮るんだ?という試みを続けていた。デビュー作の『阿賀に生きる』(1992)では小川監督や土本典昭監督の方法論を継承しようとしたが、体験を経てむしろ、そういうやり方の不可能性の追求へと向かっていった。佐藤さんが亡くなり、その問いかけ自体が消えてしまうのか?という気もする」。そして、「彼の根幹にあったのは、ある種の批評性。僕もやはり、そういうことを考えてきた。批評というのは常にネガティブさがつきまとう。しかし最近は、そういうことだけじゃ進めないんじゃないか?という感じがしている」という。だからこそ、石川氏の写真にある、あらためて目の前の世界を信じるという姿勢に感銘を受けたということだ。

 

トークがすっかり盛り上がり、終盤になってお二人の短編を上映。諏訪氏がパリの展覧会のために作った、女性の髪をキーワードに広島の被爆した少女と現在の東京の女性を重ね合わせた『黒髪』(2011)と、石川氏が過去2回のエベレスト登頂時に撮影してきた映像を基にまとめた『POLAR TRANSFORMATION』(2010)、『For Everest』(2011)である。まったく雰囲気の違う作品を続けて上映しただけに両氏とも困惑されていたが、お互いの作品に対する印象を話してくださった。

中でも諏訪氏による問いかけに、興味深いものがあった。「石川さんの映像には、エベレストという場所にいる、という圧倒的な実感がある。僕の『黒髪』は、これが現実かどうかということは映画作りの目的ではない、という考えで意図的につくりこんだ作品。でも、やっぱり震災の直後にはこういう映像は見たくもないし見る価値もない、と思った」。ただし諏訪氏は一方で、そこに“世界がある”と思い込ませてしまうことの危うさも指摘した。「映像によって本当だと感じられることは、実は本当の存在ではない。そういう側面もやっぱり重要だとは思う」。

これに対して石川氏は、「たしかにその問題はあります」と言い、スクリーンを壊すという意味では、ヴィム・ヴェンダースの『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011)は3Dを駆使して次元を交差させる、またヴェルナー・ヘルツォークの『世界最古の洞窟壁画3D』(2010)も現実と非現実を曖昧にして、映画のスクリーン自体を解体しようとしている作品で、一種ドキュメンタリーの革命なのではないかと注目している、と打ち明けた。

時間は夜11時を過ぎ、まだまだ話は尽きない中でお開きを迎えた。また翌週からマナスルという山に登る、という石川さん。対して、しばらく引きこもって考えたい、という諏訪さん。状況も製作スタイルも対照的であり、従来のメールマガジン『neoneo』では接点のなかったお二人をお招きできたことで、neoneo編集室のスタートとして非常に貴重な機会となった。観客の皆様にとっても、何らかの発見をしていただける場になれば本当に幸いである。あらためてゲスト、関係者、そして観客の方々に深く感謝をお伝えしたい。

文責:中村のり子(本誌編集部)