わが身になにかあったらどうなってしまうのだろう。
わが身になにかあったらというのも実に漠然とした口吻だがまさにそのことが不安というものの性質を反映した表現なのではなかろうか。ひとはなにもかもを如何様にも案ずることができるからだ。仕事を失ったら。病気になったら。食料が底をついたら。住居を追い出されたら。事故に遭ったら。争いが生じたら。災害が起こったら。未知のなにかが起こったら。そうしたならばどうなるのか。およそ死んでしまうのだろう。不安とは死への不安のことなのだ。
ひとは死を思考することによってひとであるといったのは誰だったか。あるいはそれは動物とのちがいを強調するような仕方で語られたことばであっただろうか。そもそも死を思考することとはなにを思考することであるのだろう。死んだことがあるのは死人だけであるというのに。結局とうていわかりそうもないことが確実に降りかかってくるのであるしそのことはなにか決定的な何事かであるという風聞が冒頭のことばを誘う。それは半径を大きくしながら同心円状に広がっていく波紋のような不安をめぐることばであるようだ。
このようにちょうど不安のようにとりとめもないことを考える仕儀に陥ったのはこの作品を見たせいだ。
62歳。妻を病で亡くしおよそ10年。ひとり娘はトロントに移住しほとんど音沙汰なし。姉はトゥルグ・ムレシュに夫と暮らす。彼の住む共同住宅のあるブカレストまではおよそ350km。東京から京都までの距離だ。
ラザレスク。彼の名はラザレスク・ダンテ・レムス。
独居老人であるがどうにもそうとはいいきれない。愛猫が彼の側にいる。というより彼の部屋に。ミランドリナ。ヌシュ。フリッツの3匹。豪奢には程遠い質素な環境である。壁にはハリウッド女優のポスターを貼り部屋は不潔。古新聞の山。棚でほこりをかぶる書物。米国製品のステッカーが貼られた冷蔵庫は空っぽで食料といえばパン切れがいくつかあるばかり。喫煙と飲酒の習慣がある。酒に関していえば習慣というような生易しいものでは済まない。隣人のサンドゥに酒を教えたのは彼である。サンドゥの妻ミキはラザレスクをよく思っていない。なにしろ彼女の夫はラザレスク夫妻が越してくるまで酒を飲むタイプではなかったのだから。ミキ曰くラザレスクはハンガリー人のように酒を飲むのだが彼はもとよりルーマニア人だけれどもその妻がハンガリー人であったのだ。この台詞をミキは救急隊員に女だけの会話としてキッチンで吐露する。
救急隊員がいるからには急病人がいなければ道理に合わない。そうでなければ無理である。急病人とは無論ラザレスのことだ。どうも朝から頭痛がするらしい。薬を飲んでも吐いてしまう。十二指腸潰瘍の既往歴がある。14年前に手術をしたのだがそれがもとで痛むのかもしれないとはラザレスクの意見。彼は隣人サンドゥの言によればインテリであるらしい。そしてエンジニアであるとも。現在は年金で暮らす一介の偏屈者だ。偏屈者でも病気にかかる。身寄りがなければ助けを求めるなら救急車を呼ぶに如くはない。病の不安には医療を。これが国家の差し出すパッケージだ。
ところがそれは土曜の夜のことである。一度や二度の電話では救急車などきてくれない。テレビのニュースショーではコメンテーターが水を得た魚とばかりに食物連鎖とやはり野におけ蓮華草で国内事情と政局を語ってみせる。義兄と姉にかけた電話は口論に終わってしまう。少なくとも借りた金の一部を為替で送ったことは伝えられた。体調が芳しくないことと酒で潰瘍にはならないこと。それから酒は自分の金で買っているということも。
具合いがわるいと気が弱ってしまうものだ。効きそうな薬がないかと隣人宅をノックしてもどうにもうまく噛み合わない。とにかく薬が欲しいのにあるのかないのか確認に手間取ってしまう。踊り場の電気が時間で切れてしまってスイッチを上げに座りこんでいた階段から立ちあがってまた座り直す羽目になってしまう。奥でジャムが焦げたことで夫婦喧嘩がはじまったりまた別の確認があったりと体調不良で敏感になった神経に障ることばかりだ。やっともらえる薬もほかの症状にこそ効き目があろうというもの。隣人サンドゥは親切にも度を外した飲み方はやめるように諭し野菜ジュースや熱い湯に浸かればよいなどとレクチャーしてくれる。自室で飲んだ薬はすぐに戻してしまう。嘔吐物には血が混じっている。
救急車を待つあいだサンドゥは横たわるラザレスクの番をする。医療費が上がって俺たちは切り捨てられたんだよといったサンドゥだ。テレビは観光バスが起こした事故の速報を伝えている。ずいぶん悲惨な事故らしい。そこに上階に住むギルがサンドゥから借りていた工具を返しにやってくる。ギルはラザレスクに部屋が回転したりでもしたのかいと軽口を叩く。隣人夫婦とおしゃべりするギルは事情をきかされるとそれって病院にいくってことなのとサンドゥに問う。すると割って入ってラザレスクが答える。
カーニバルだよ
ここでこの作品の基調と枠組みが鮮明になる。これまでに強調されてきた死への不安を侮辱するかのようなどす黒い笑いがどたばたときっと最期のときに至るまで持続するであろうことも予告される。鑑賞者はラザレスクの死出の旅に同行することとなる。カメラのブレを含む画面はドキュメンタリー調で特徴的なロングテイクはこの物語のラザレスクにとっては苦しめられるばかりの展開が積み上げられる時間を一緒に経験させる仕掛けになっている。世界における人間を特権化しないための作法として持ち出されるロングショットの数々や無機物の冷たい手触りと併せて同じくルーマニアのクリスティアン・ムンジウを想起するところもあるだろうし類縁者としてスウェーデンのロイ・アンダーソンやロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフを布置した星座を眺めるのもじつにこころ愉しいものだ。ここにポルトガルのペドロ・コスタとメキシコのカルロス・レイガダスにリトアニアのシャルナス・バルタスを加えればスローシネマなる存立根拠の自明でない範疇のハーレムを拝むことができるだろう。もちろん主人公の名に秘められた暗号の解読に手を染めて復活や地獄めぐりや川流れや兄弟殺しのモチーフに思いを馳せてみるのもいいかもしれない。ラザレスクの義理の兄はヴィルジルという名であることが明かされるがこの名は日本語読みではウェルギリウスだ。詩人ウェルギリウスはホメロスを範にラテン語文学の絶巓と目されるアエネーイスを物した。そして本作のタイトルは20世紀のオーストリアの作家ヘルマン・ブロッホによるウェルギリウスの死に呼応する。これはウェルギリウスが死ぬまでの数時間を扱った作品で作者の野望は詩人が死をいったいどのようにとらえるかを描破することにあった。それではラザレスクにとって彼の死はどのようなものとして映るだろう。
不調を訴える彼に誰もが酒の飲み過ぎだとお灸を据える。彼と一緒になって自家製の強烈な酒を楽しんでいたサンドゥでさえそう説くのだ。吐き気と頭痛と腹痛の波状攻撃に苛まれるなかで説教されてはたまらない。しかもサンドゥはドリルを返しにきたギルと酒飲み旅行のプランに磨きをかけている。ラザレスクが長旅の果てに開頭手術を受けねばならなくなるそのドリル。ギルはにやにやしながらラテン語の警句を吐いて皮肉をいった。健全なる精神は健全なる云々……。
救急隊員のミオーラは当座しのぎにグルコースと鎮痛剤を投与する。ミオーラの所見では大腸癌の疑いあり。腹部が硬くなっている。やはり病院に行くことになるのだがいちいちどうにも病人にとって磨耗させられる。見つけた救急車はなにやら小型で大きなものは急を要する患者のためにという話。潰瘍は急でないのかといいあいになると運転手のレオは彼にいささか暴力的だ。どうあれこうしてラザレスク氏のオデッセイがはじまる。それはとても快適とはいえない無責任と無関心の連鎖する6時間の旅である。ラザレスクは3つの病院を経由して4つ目の病院でようやく治療にありつける。なにしろ病院は大禍のせいでどこもかつての大地震や戦中を思わせる有り様であったのだ。ラザレスクなどは所詮よせばいいのに勝手に体に酒を注ぎこんで肝臓を膨れ上がらせて病変があれば医者にかかろうとするふざけた態度の素行不良ないかれた豚にすぎない。病院には続々とほかのもっと急を要する患者が担ぎこまれているしそもそも医者にしたところでたいした給料も受けとっていないのだからさっさとどこかへ行けばよいのだ。そういうことなのだ。なにしろこれを医師が患者にいったのだから。
認識はつねにそのことの後にやってくる。先にきてしまえばそれは預言か天啓あたりであるだろう。事態はいつだって後の祭りなのだ。死の後はない。それでは死に先立つものとはなんだろう。なにやら胸に不穏なものが渦巻きだすが智恵は先人に求めてこその学識であるはずだ。ヘルマン・ブロッホのウェルギリウスは結局のところ彼の詩魂によって死を捕まえることができたのだっただろうか。間近に迫るほどに絢爛に極まっていく詩人の想念はエーテルの彼方へ吸いこまれる直前にやはり余儀なく吸いこまれてしまったのではなかったか。悪辣な巡り合わせを舐めたラザレスクは朝方の4時になってようやく施される処置の前に裸で寝かされさらに惨めなことに彼の頭を剃った助手もまた別の急を要する仕事で彼をほかの誰かに押しつけ準備室から去ってしまう。その誰かもまたヴィルジルと呼ばれる何者かだ。ラザレスクが死を受けとめるはずの肉体はいまやその死の原因となるほどに荒廃し舌は麻痺しもつれて詩文どころか自分の名前を繰りだすことさえとうていできそうもない相談だ。彼の血腫を宿す混濁した頭のなかになにか取り出して意味を成すものが蔵されているかどうかさえこころもとない。これほどの汚辱を浴びせられてまで迎えねばならない彼の死はいったいなんなのだろう。だが知ったことか。これは所詮つくりごと。単なるお伽話にすぎない。救急車がまったくこなかったり責任ある立場にあるはずの専門家たちが買収や汚職に慣れきっていたりまさにその立場を笠に着て弱き者たちを詰ったり医療現場の疲弊と腐敗が与件であったりそのなかで誰とも基本的な信頼関係を築くことができなさそうだったりといったあれこれなんて現実をグロテスクに拡大して提示してみせる芸術家の常套手段でそんなものはせいぜいが芸術的恫喝にすぎない。それかもっとここではない劣悪な環境から生産される倫理的輸入品なのだ。たとえばルーマニアかどこかから。
しかしそうやって高をくくるにはあまりにも不安が大きく死はあまりにも避けがたい。ラザレスクはあのようにして死ぬのだろう。万にひとつ生き延びたとしてどこかの医師がいうように無事に家に帰ってちゃんと癌で死ねるだろう。ラザレスクは死すべき運命の問題といった。ふつうならこれは死そのものかそれに至る病変を睨んでみさせるものであるのに彼の場合にはこの問題が別の問題群によって質的な異変をきたす。働いて税金を払ってひとりになって少ない年金で暮らして必要な医療を受けられずひとにも世にも見捨てられほったらかされて死んだのは無論ラザレスクである。それではわたしは? わたしはラザレスク? そうでないと信じられそうな事情をかき集めて不安を薄めてわたしはラザレスクでないと宣言するのだろうか。しかしいったいそれがなんの慰めになる? それがいったいどれほどちがう?
監督のクリスティ・プユは当初は画家志望でジュネーブに学んだがのちに映画に関心を転じる。長編第2作にあたる本作は第58回カンヌ国際映画祭ある視点部門でグランプリを受賞するなど批評的な成功を収め2017年にニューヨーク・タイムズが発表した暫定版21世紀の映画ランキングにおいて第5位にランクインしている。本作は監督の構想するブカレスト郊外からの六つの物語というシリーズの一作目に位置づけられた。
【作品情報】
『The Death of Mr.Lazarescu /ラザレスク氏の死』
(2005/ルーマニア/カラー/153分)
監督:クリスティ・プユ
出演:ヨアン・フィスクティーヌ、ルミニツァ・ゲオルギウ、ドルー・アナ、ダナ・ドガル、モニカ・バルラディアヌほか
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【執筆者プロフィール】
野本 裕太(のもと ゆうた)
文筆家