【文学と記録①】後藤明生と土筆 text 中里勇太

 文学、殊にフィクションである小説において「記録」とはなにか。小説のなかに描かれる歴史的事件や社会事象、社会風俗に加えて、ときには作者と近しい存在である登場人物の生活なども、そこに含まれるのだろう。いっぽうで、小説がフィクションであるかぎりにおいて、作者と近しい登場人物に作者を重ねて読めば、作品世界の拡がりに自ら蓋をすることにもなりかねない。しかしながら、一篇の小説またはひとりの作家の著作群を深く読み解いていくためには作者自身の生涯を紐解くこともまた必要なことは疑う余地もなく、作者と登場人物のあいだのずれが作品を駆動させていたり、そのずれに作品世界が現れるのも小説の魅力でさえある。そもそも書かれてあるいじょう、先天的に「記録」という側面をもつことも否めない。では「文学と記録」と題した本稿でいう「記録」とはいったいなにかと考え、ここしばらく断続的に読んできた作家・後藤明生の作品中に登場する「土筆」が思い浮かんだ。「土筆」とは、登場人物の名ではなく、春の植物である土筆である。そのなんの変哲もない土筆にまつわる記憶を「記録」と呼べるのか、あるいは土筆から派生する物語をもまた文学における「記録」と呼べるのか、後藤明生の作品を通してその可能性を考えていきたい。

 後藤明生といえば、作家本人のエッセイ「円と楕円の世界」(*1)が示すように、「唯一つの中心によって決定される〈円〉」ではなく、対等に存在する複数の中心による「〈楕円〉」世界を力学とする作品に特徴をもつ。たとえば、『後藤明生コレクション3 中期』巻末の解説で奥泉光は次のように述べている(*2)。

「後藤明生の「わたし小説」には必ず、「わたし」の横に、水平の方向に、主人公には動かすことのできぬ、ときには理解し難い「客観的〈他者〉」が置かれる。主人公は見ると同時に見られ、笑うと同時に笑われ、互いに支配することも十分な理解もないまま、ただ「関係」することだけがある。けだしこの構図が呼び寄せる二つの中心が楕円運動を引き起こし小説を駆動(ドライブ)する」

 先に述べた「土筆」もまた、後藤明生の作中における複数の中心のひとつとして小説を駆動させる存在になり得るのだろうか。「土筆」もまたそうなり得るとの断定は憚れるが、「思い川」(*3)という中篇において土筆が呼び起こす記憶に着目したとき、主人公の「わたし」が少年時代を過ごした朝鮮や、少年時代の「わたし」、いまは亡き父が、現在の「わたし」と「客観的〈他者〉」となる関係を結べるのか、まずはそれを辿るうえで作品の背景にある作者の少年時代を振り返りたい。

 講談社文芸文庫版の『挟み撃ち』(*4)巻末に付された年譜から抜粋すれば、後藤明生は一九三二年に旧朝鮮咸鏡南道永興群永興邑で生まれ、一九三九年に永興尋常高等小学校入学、一九四五年旧制元山中学校入学、八月一五日敗戦、朝鮮独立、ソ連軍進駐。一九四六年に一四歳で三八度線を越境、福岡県甘木市に引揚げとある。ここで取り上げる「思い川」の「わたし」もまた少年時代を朝鮮の永興で過ごしており、冒頭はつぎのようにはじまる。

「わたしが綾瀬川を知ったのは、まことに他愛もない動機からだった。妻にいわれて土筆を取りに出かけたのである」

 四〇歳を過ぎ、団地で暮らす「わたし」が、団地の近郊を流れる綾瀬川を見て、少年時代を過ごした朝鮮を流れる龍興江を思い返していくというのがこの小説の主な筋である。そのなかで綾瀬川の土手に生えていた土筆が呼び起こす記憶とは、三〇年前に小学校の弁当のおかずに土筆をもっていったことや、父が土筆を食べていなかったことにはじまり、朝鮮のオンドル間の食膳、当時同居していた人々、方々から届く朝鮮漬、それぞれのキムチを品評する祖母、そして夕食における父の不在であり、「わたし」の記憶のなかで父と食べ物はどうにも結びつかない。ただ「いただきます」と「ごちそうさま」の二言だけが父の言葉として思い浮かんだ。にもかかわらず、「わたし」は土筆を食べるたびに父を思い出し、自分を子どもの位置に置いて父を考えたのだ。これらの記憶の断片をたどるかぎりでは、亡き父や少年時代の「わたし」は記憶のなかにとどまり、現在の「わたし」と「客観的〈他者〉」となる関係を結べているとはいいきれないだろう。加えて、ここに挙げた記憶は土筆によって呼び起こされた「わたし」の記憶であり、土筆はただの媒介にすぎず、「土筆」と「わたし」の関係もみえてこない。

 もういちど「思い川」の冒頭に戻れば、四〇歳を過ぎた男が妻子と土筆摘みとは、と自戒を抱いて「わたし」が唸る。「それは土筆を食べる人間はわたしだからであった」と。はたして、「わたし」が心中でつぶやいているのか、作者が「わたし」を描写しているのか、このあたりが定かではないが、読者は後につぎのことを知る。「わたし」である男は年になんどか土筆を食べるいっぽう、息子や娘は年を重ねてもいっこうに土筆を食べないのだ。つまり、食卓で子どもをまえにした「わたし」は、土筆を食べる人間になる。いっぽうで、息子や娘は土筆を食べる人間を眺めているのである。そればかりか食卓に初めて土筆が現れたとき、息子は父が土筆を食べろと強要するのではないかと泣きそうにさえなる。ところが「わたし」は息子の態度への腹立ちから照れ笑いを浮かべ、「お父さんが子供のころは、ずいぶん土筆を食べたもんだぞ」といい、食卓には気まずさが生じる。このとき息子や娘の視線に亡き父の視線を重ねるのは飛躍にすぎるとしても、土筆を食べるたびに父を思い出す「わたし」が自分を子どもの位置に置いて考えるのは、そこから土筆を食べない人間である父を眺めているからではないだろうか。であれば、息子や娘が土筆を食べる人間である父(「わたし」)を眺める視線とは重ならずに、ずれが生じる。腹立ちを隠す「わたし」の照れ笑いは、土筆をたべなかった亡き父への問いとなり、箸に挟まれた宙ぶらりの土筆同様に、問うに問えない「わたし」の問いもまた空中に放りだされる。

 その後、「わたし」は食卓に生じた気まずさを収拾するべく、宙ぶらりの土筆を口に入れて呑みくだすのだが、それを息子が見ているのか、それとも俯いて見ていないのかわからない。そもそも食卓に土筆が現れたのも、土筆を「わたしが食べた」ことによる。

「ただあるとき長女を連れてバイパスの向う側へ出かけて行った妻が取って帰った土筆を、わたしが食べた」

 妻は「わたし」が土筆を食べると知らずに摘んできた。それを「わたし」が食べたことで、食卓に異質なものが侵入してきた。じっさいには、「わたし」は柳川ふうに卵とじにして土筆を食べるのだが、この一文を妻や娘の視点から「わたしが食べた」とみるとき、食卓に無造作に置かれた土筆を手に取り口へ放りこむ「わたし」と、それを見る妻と娘のすがたがありありと浮かびあがる。そしてそこで「わたし」が照れ笑いを浮かべるならば、気まずさを収拾するべく土筆を口に入れた「わたし」を息子が見ているのかいないのかわからない場面と同質の距離を想像できるのではないか。つまり異質な「土筆」との距離である。

 なぜそこまで土筆にこだわるのかと自問する場面において、「わたし」は「土筆を食べるとき、どうしても冷静さを失い勝ちだった」「毎年、冷静さを失いながらも土筆を食べ続けて来た」理由として、「三十年前の記憶というもののせい」だとしているが、はたして少年時代の記憶にのみ起因するのだろうか。あるいは「土筆」との距離もまた関係するのではないかと仮定して、次に「行き帰り」(*5)という作品における土筆をみていきたい。

 「行き帰り」の「わたし」は、十年ばかり住んだ団地からアパートへ引っ越している。場所も、草加から習志野へ移った。ところが、アパートのまわりの空き地にはどこにも土筆がみあたらない。ただ杉菜の茂みがあちこちにあり、土筆の生えてこない杉菜ばかりである。妻や娘もずいぶん探したが、このあたりは杉菜ばかりだという。「その点、草加はよかったわね」と妻はいい、「綾瀬川は?」と娘に尋ねられた「わたし」は、あろうことか、「あの土手は、土筆よりも野びるだな」と言い放つ次第である。そうして、少年時代の土筆にまつわる具体的な記憶を呼び起こすわけでもなく、「わたし」は思う。「自分は土筆のない土地へ来てしまったのだ」と。

 ここで「わたし」がこだわるのは、朝鮮の永興で食べた土筆は永興の土筆であり、草加で食べた土筆は草加の土筆だということであり、土筆そのものだ。

「それは不思議なことに、永興の土筆と同じ土筆だった。何の縁もゆかりもない草加の土地に、永興の土筆と同じ土筆が生えていることが、わたしには不思議でならなかったのである」

 「土筆のない土地へ来てしまった」というのも、「わたし」が感傷的になっているわけではない。そもそも「思い川」において、草加は、二三回目のくじでようやく当てた団地であり、自分が選んだ場所ではないいじょう、漂着した場所にすぎないと考えられ、「行き帰り」では、なんのゆかりもない草加へ着いたのとおなじように、なんのゆかりもないこの土地(習志野)へ着いたのだと述べられている。ここでは純粋に、同じ土筆が生えていることを不思議に思うように、土筆がない土地を不思議に思っていると考えるべきだろう。

 そのうえで「行き帰り」と「思い川」における「土筆」と「わたし」の関係を考えたとき、「行き帰り」の「わたし」は、土筆のない土地へ来てしまったとつぶやくことができ、ないところへ来たのだから仕方がないとさえいうことができる。あるいは、どうして杉菜ばかりなのかと問えば、「土筆には不向な土地」だと自分勝手に結論を下し、それいじょうは追求しない。これまで「わたし」が食べてきた土筆は、永興でも草加でも同じ土筆であり、その土地に生えていた土筆であるいじょう、土筆がない土地で土筆を食べる理由がないのである。作中にもある通り、草加へ摘みに行けば食べられるにもかかわらず、土筆がない土地を不思議に思うと同時に「わたし」は土筆を食べる理由もないこともまた不思議に思うのではないか。いっぽうで、その土地で少年時代の記憶が想起されないといえば、それは嘘になるだろう。

 その意味では、作者である後藤明生にとっての土筆は、戦時下の朝鮮や植民の記憶、故郷と呼ぶべきかどうかも定かではない土地、そして引揚げと結びつけて考えるべきなのかもしれないが、じっさいに後藤明生が少年時代に土筆を食べたかどうかはわからない。仮に食べていたとしても、食べていなかったとしても、「思い川」の「わたし」は少年時代に土筆を食べている。そしていまも土筆を食べるのは、土筆がある土地で「わたし」が土筆を食べない理由もないからである。しかしながら食卓における「わたし」は、箸に挟まれた宙ぶらりの土筆が象徴するように、一家のなかで浮ついた、あるいはなにかに捉われている存在であり、そこで土筆を食べて「わたし」が冷静さを失うのは、土筆の向こう側に「わたし」と異質の存在である土筆を食べない人間をみているからではないだろうか。土筆を媒介に呼び起こされた記憶のなかで、亡き父は土筆を食べていない。息子も同様に、食卓に初めて土筆があがったときから土筆を食べるのを拒みつづけている。亡き父からすれば、土筆は子どもの食べ物であり、息子からすれば、土筆は父である「わたし」の食べ物である。土筆の向こう側に、理解の及ばない亡き父を見ていた「わたし」は、いつのまにか息子に見られている。息子には土筆を食べる理由がない。ここで土筆に近しいものが「わたし」だけだとすれば、なんとも残酷な構図である。土筆を食べない理由がない「わたし」は「土筆を食べる人間」として、「わたし」には理解の及ばない亡き父や息子の価値観をまえに、冷静ではいられない。土筆へのこだわりの要因とされた「三十年前の記憶」が、亡き父へのこだわりだとすれば、「わたし」はいま亡き父とも異質の息子と、土筆をまえに向き合わなくてはならないからだ。

「この四月から中学一年生になった長男に向って、どうして本音なぞ吐けようぞ!」

 しかしながら息子にとっては「わたし」もまた理解の及ばない存在である。息子の顔にそばかすを認めた「わたし」が、自分の顔のそばかすを意識した三〇年前をいかに回顧しようと、いや、三〇年前の記憶を息子へ語れば語るほどに、息子にとって土筆は異質なものとなるのかもしれない。であればこそ、「土筆を食べる」父が土筆の季節に土筆を探すように、土筆を食べない息子もまた土筆の季節に土筆を探すのではないだろうか。

 このように「思い川」には「土筆」をめぐる小宇宙が展開されており、「土筆」もまた物語の中心のひとつである、というのは過言だろうか。そのうえで、「わたし」に根づいた土筆の記憶が、作者自身の背景と併せて、時代証言となる側面をもついっぽうで、この土筆を中心とした作品世界や、そこに現出した「土筆を食べる人間」をも「記録」とする視点は可能なのだろうかということを課題として、次回も考えていきたい。

*1 後藤明生「円と楕円の世界」(『円と楕円の世界』、河出書房新社、一九七二)
*2 奥泉光「「中期」の後藤明生」(『後藤明生コレクション3 中期』、国書刊行会、二〇一七)
*3 後藤明生「思い川」(『後藤明生コレクション3 中期』、国書刊行会、二〇一七)
*4 後藤明生『挟み撃ち』(講談社文芸文庫、一九九八)
*5 後藤明生「行き帰り」(『行き帰り』、中公文庫、一九八〇)

 

【書誌情報】

「思い川」(『後藤明生コレクション3 中期』所収)
国書刊行会 2017 年5月発行 本体3,000円 46変型判 496p 
ISBN 978-4-336-06053-2

【執筆者プロフィール】

中里 勇太(なかさと・ゆうた)
文芸評論、編著に『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(金子遊共編、響文社)。