【文学と記録⑦】 大岡昇平と身体 text 中里勇太

 戦争文学の名作として名高い「野火」(一九五二)の著者・大岡昇平。大岡昇平には、自身の太平洋戦争従軍体験に基づく連作小説『俘虜記』(一九五二)がある。その作品群は、一九四五年一月にフィリピンのミンドロ島で米軍の捕虜となるまでから、同年十二月に日本へ向かうまでの間の俘虜病院、俘虜収容所での体験を基に描かれている。各作品の初出は一九四八年から一九五一年。この『俘虜記』には収録されていないが、おそらくこの連作執筆中に書かれたと考えられる短篇に「出征」(*1)という作品がある。初出は一九五〇年である。
「出征」では、教育招集により入隊した「私」が、除隊を告げられるはずの最終日に不意の前線行きを告げられ、そこから日本を離れるまでの間が描かれるが、殊に冒頭からの数ページにおいて、大岡は変容する身体の表出に賭けているように思われる。

 三カ月の教育招集を終えるはずの最終日、昭和十九年六月十日の明け方、「私」は最後の不寝番に就いていた。そこへ劣等兵の古兵がひとりで帰ってくる。「私」と僚友が、その古兵のことばによって、除隊ではなく前線行きの可能性があることを知ったとき、その身体はつぎのように表される。
「衝撃は例えば我々の体を通り抜けたようであった」
 衝撃が体を通り抜けると表現されたそこに「例えば」と付されたことで、言いようのないなにかが通り抜けていった身体というものがまず提示され、そのうえで、「それは我々が除隊の喜びの底に漠然と感じていた危惧で、全然不意を突かれたものではなかったが、膝に力が抜けたように感じ、口を利くことはできなかった」とある。じっさいに退船訓練や熱帯衛生についての学科の実施、あるいはかれらが南方の前線へ送られるという噂が流布するなど、「危惧」を抱くには十分な理由があり、数日前に全員が除隊用の私物を受け取ったあとも、妙なことは依然としてつづき、不安を感じたひとりが下士官に自分たちは前線に行くのかと尋ねたとき、「だって、お前たちもう私物を貰ったんだろう」と答える下士官の顔の表情からはなにも読みとれない。身のまわりにつねに「危惧」が偏在していたいじょう、「全然不意を突かれたものではなかった」と言い表されるのも誇張ではないと考えられるが、しかしそれでも体から力が抜け、口も利けない。なぜか。「口にするのが怖ろしい問題だった」からである。「私」と僚友のどちらかが口を開けば、除隊と前線行きの可能性について、あるいは「危惧」がいつどこから現れたのかをいちいち確かめざるをえず、どちらも可能性であるがゆえに互いに確かめ合うなかでいずれかいっぽうが確信に変わる、その恐ろしさもあったのかもしれないが、このときはまだ「私」も僚友も希望を抱くことができた。自分たちの前線行きは、古兵の間違い、勘違い、あるいは嫌がらせに近い嘘だという希望があり、なにかを口にすればその希望も潰えてしまうのではないかという懸念も、口を利かずにいれば遠ざけることができた。しかしまた口を閉ざしていれば、除隊か、前線か、その可能性が頭のなかを駆け巡る。衝撃が通り抜けていったあと、互いに口を利かない「私」と僚友は、どちらかの可能性が潰えるまでただ待たされるだけの身体となった。

 やがて隊のほかの者たちが起き出し、多くの者が食事の間に午後の楽しい予定を語らうなかでも、「私」の喉にはなにかがつかえたままであり、ついに教官の訓示を迎える。
「今これから名前を呼ぶ者は直ちに除隊。呼ばない者は残る」
「そして呼んで行った。」と教官の声のあとにつづく、この短い地の文をどのように捉えればよいか。つづく地の文もまた「順序は不同らしかった。」という平静な短文であることを考えれば、「私」はどこか「私」を突き放したところから「私」を眺め、「私」のからだにある目は虚ろなまま、教官が読み上げる名前の乾いた響きを眺めるといった矛盾した身体と情景すら浮かびあがるように思う。いっぽうで、「呼び進むに連れ、私の前に立った兵士の肩が次第に細かく震えて行くのに私は気がついた」という文がつぎにつづき、そこでは、不動の一点を見据える「私」と、その視界のなかに現れる細かな震えという、「私」の目が見ている情景も浮かびあがる。あるいはそのどちらもがありうると考えれば、「私」に生じた変化は、なにを表しているのか。すくなくとも、呼ぶ者は除隊、呼ばない者は残るという教官の声は、「私」にとって予測していない声だったはずであり、「そして呼んで行った。」という一文は、その不意の驚きをなぞっているとまずは捉えてみたい。

 作中では百名中約半数の名前が呼ばれず、「私」の名前も呼ばれなかった。
「信じられないことが起ったのである」というのがそのときの「私」の思いであるが、なぜそのような思いを抱いたのかということも含めて、すこし遡ってたどってみる。

 隊のなかを流れていた噂や妙な出来事によって漠然と感じていた危惧が、古兵のことばによってかたどられたとき、「私」には除隊と前線行きの可能性が生じた。そして軍隊というなにものかの決定に従って行動する集団に属しているいじょう、いずれかの可能性が潰える決定が下されるのを、「私」は待つほかにない。それ自体は変わらないのかもしれないが、教官が訓示で示したことばは、不意の驚きとともにやはり「私」を変容させたといえるのではないか。決定が下されるのをただ待たされている「私」から、名前を呼ばれるのを待つ「私」へ。そのように考えれば、五十名あまりの名前が呼ばれる時間を描写したつぎの場面は、名前を呼ばれるのを待つ、つまり期待を抱く身体とその時間が描かれていると考えられないだろうか。
「そして呼んで行った。順序は不同らしかった。呼び進むに連れ、私の前に立った兵士の肩が次第に細かく震えて行くのに私は気がついた。その兵も私も到頭名を呼ばれなかった」

 であれば、「信じられないことが起った」と思う「私」にはつぎにどのような変化が訪れるのか。「私はもう一度ゆっくり教官の呼んだ名前を頭の中で繰り返そうとした」。そのとき「私」は、まだ名前を呼ばれるのを待っている。内なる声のなかに、聞こえてくる声のなかに、そしてまた目の前に浮かぶ文字のようなもののなかに、呼ばれるはずであった名前をたしかめようとする。しかし、「しかしそんなことができるはずはなく、」とつぎにつづくように、その行為自体が、名前を呼ばれなかったという事実を確認するための行為であり、「ただたしかに私が呼ばれなかったという感じだけがはっきりして来た」ことをたしかめる行為なのである。ここで「私」は、名前を呼ばれるのを待つ「私」ではなくなった。
「百名中約半数が残った。私の班からは四十名中十六名が残った」

 この事実は無論、百名を去る者と残る者に分けた。四十名中十六名の十六名を、「私」がその場で数えられたのか定かではない。しかし名前を呼ばれた者と呼ばれなかった者、除隊と前線行きの間に横たわる確率から自らの運命を見定めるのであれば、数を数えるという行為、あるいはその確率をたしかめるのはなかば必然の行為であり、そのなかで「私」は残る者となった。
 こうして去る者と残る者に分けられたあと、なにが訪れるのか。作中には「慌しい一瞬であった。別れの挨拶をする暇もない」とあるが、「慌しい一瞬」と感じられたのは、いずれだろうか。去る者が服を着替え靴を穿き変えるその動作に、「何かいそいそとした調子」を見てとった残る者たちは、「胸をえぐ」られながらも、去る者の動作を見つづけ、あるいは気配を感じつづけなければならない。いっぽうで、去る者はすこしでも早くその場を離れたい一心で、ほかになにを考えられるだろうか。その身体で感じとれるのはただ残る者たちからの視線や気配であり、「一瞬」とはいえ果てしなさすら感じた者もいたのではないか。そう考えれば、この「一瞬」とは、瞬く間という意味よりも、その場にいた各人それぞれのなかを流れていた時間という側面がつよく、つぎにつづく「別れの挨拶をする暇もない」の「暇もない」についても、去る者と残る者がそれぞれの時間のなかに没頭するなかでは、その機会は訪れないと捉えられるのではないか。言うまでもなく、すでに分断線は引かれたのだ。

 しかし果たしてそうだろうか。去る者と残る者の間で交わすことばはなく、互いが口を利かない場面は、本作において、振り返るまでもなくすでに二度目である。その日の明け方、「私」と僚友が口を利かなかったのは、共有する一方の可能性、つまり除隊という可能性を互いに口を利くことで潰えさせたくなかったと考えてもよいだろうが、ここでは一方の可能性が潰えている。「去る者も我々にいうべき言葉もないことであろう」と「私」が思うのは、当然といえば当然であるが、先述したように去る者の服を着替える動作に「何かいそいそとした調子」を見てとるのも、「私」がすでに残留者の視点であることも忘れてはならない。そのあとに課される任務、「去った者の被服や装具を種類別に卓上に積み上げる」というのは、残留者としての意識をより濃く生成させて集団への帰属意識をより強固にさせるための過酷な命令であるが、この一連の流れのなかで「私」もまたみずからの身体に分断線を刻みつけていったのではないだろうか。つまり、名前を呼ばれる/呼ばれないという時間から引かれはじめた分断線だったが、去る者との間の互いに口を利かないそれぞれの時間を通して、「私」はみずから分断線を引きはじめていった。無論それは、けっして引きたくて引くわけではなく、引かなければそのさきの時間に耐えられないという理由からである。

 しかしながら、残留者たちが営庭に出ると、そこには軍服を脱ぎさり、それぞれの格好をした去る者たちがいて、「私」はそれを眺めてまた揺らぐ。
「彼らの地方人(*2)の服装を眺めるのは我々にとって新しい苦痛であった。三十分前まで我々だってその服を着るつもりだったのである」
「その服を着るつもりだった」が取り残された「私」の目の前には、なにがあるのか。「死」である。前線へ向けて出港するまでの移動のなかで、くりかえされる「死」をめぐる考察が本作の基底を成しているが、本稿は次の場面で閉じたいと思う。

 教官の命令で去る者と残る者は互いに一列に並んで向かい合い、敬礼する。去る者にとってはさいごの命令であり、残る者にとってはこれからもつづく命令のひとつに過ぎない。しかし、「私」は「型の如く」、なおざりに「指をこめかみに当て」ることで、なかば命令に背く。そのとき「私」は「除隊者の中の親しい者の顔」を見ることもできない。では「私」はどこを見ていたのか。
「視線は彼らの頭上の一点に固定したまま動かなかった」
 ここに表出された視線は「私」個人に帰するものであり、除隊か前線かというなかで変容させられてきた身体は、ここで個人に帰するものとなる。本作においてくりかえされる「死」をめぐる考察もまたこの視線を見据えた身体から考察されると考えれば、冒頭のわずか数ページに記されたこの身体の変容も本作の基底を成すひとつではないだろうか。

*1 大岡昇平「出征」(『靴の話 大岡昇平戦争小説集』、集英社文庫、一九九六)
*2 同書内「語注」によれば、「地方人」とは「旧軍隊で、軍人以外の人間をいった」

【書誌情報】

『靴の話 大岡昇平戦争小説集』
集英社文庫 1996年6月発行 610円 A6判 244p
ISBN 978-4-08-752049-1

【執筆者プロフィール】

中里 勇太(なかさと・ゆうた)
文芸評論、編著に『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(金子遊共編、響文社)。