セレブリティの生態学
ウディ・アレンはそのキャリアを通じて、「スター・システム」に強い関心を寄せてきた映画作家である。実質的な監督デビュー作である『泥棒野郎』(1969)では、幾度となく犯罪に失敗しては、そのたびに刑務所へと送り込まれ、積み重ねた前科と懲役年数によって有名になった男の半生がスラップスティック・コメディーとして描かれた。この映画はアレンによる身体的なドタバタギャグをはじめ、『仮面の米国』や『暴力脱獄』といった映画のパロディを盛り込んだもので、ストーリー自体はバカバカしいものでもあるが、王道的なクラウン・コメディの系譜に連なる佳作といってよいだろう。
この作品で用いられたのはモキュメンタリー、すなわち、擬似的なドキュメンタリー映画のスタイルである。映画は主人公バージル・スタークウェル(彼の誕生日は1935年12月1日となっており、これはアレンと同じである)の出生をめぐる逸話から語られ、その後は小学校の女性教師や彼に演奏を教えたというチェリスト、保護観察官を担当したという男性など、バージルのゆかりの人物のインタビューを挟み込みながら、なぜ彼が犯罪者としての道を踏み始めたのかが、もっともらしく語られていくことになる。
このモキュメンタリーのスタイルを洗練させたのが、1983年の『カメレオンマン』である。この映画の主人公であるゼリグは、カメレオンのように周囲の環境に同化し、容姿やアイデンティティ、そして人種や性別までも影響を受けて変化させるという特徴を持っている。ゼリグの悲喜劇にとって何より重要なのは、ゼリグの「変身」が自身の意志ではどうにもならない、生理的な現象であることだ。物語の舞台は、1920年代という狂乱の時代。一夜にして有名になってしまうゼリグに熱狂する大衆の姿には、大西洋単独無着陸飛行を終えて帰国したチャールズ・リンドバーグをめぐっての、アメリカ国内に蔓延していた熱気への明らかな目配せがあるように、『カメレオンマン』では個人が名声を高めるメディアの「システム」への関心が再び明かされることになる。
そのなかでも、まさに文字通り『セレブリティ』(1998)と題した作品は、フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』(1960)を下敷きにしながら「セレブリティ」の生態学をひもとく映画となっている。批評家のデイアン・スージックが1989年の著のなかで「セレブリティは、まぎれもなく1990年代の急成長産業になるだろう。個人の業績や幸運というより経済的な必然がからみ、もうすでにあらゆる科学的な配慮と計算された投資のもとにつくりだされ、活用されているのである」と書いたごとくの様相が、この映画では展開されている(デイアン・スージック『カルト・ヒーロー セレブリティ・ビジネスを読む』小沢瑞穂訳、晶文社、1990)。
『セレブリティ』はさまざまなセレブリティをめぐる群像劇なのだが、その中心に位置するのは、高校の同窓会をきっかけに生き方を変えようと決心した小説家のリー・サイモン(ケネス・ブラナー)である。リーは連れ添った妻のロビン(ジュディ・デイヴィス)と離婚し、どうにかしてセレブリティの仲間入りをしたいと次々と有名人たちに接触するうちに、気ままな有名人たちのペースに巻き込まれてしまう。『タイタニック』(1997)で注目を集めたばかりのレオナルド・ディカプリオをはじめとする実際のセレブリティたちの競演もあり、上流階級によって構成される世界の喧騒が皮肉を交えながら描かれている。
劇中では、それを象徴するように「有名人を作り上げる社会の仕組みがよくわかる」というセリフが登場する。この言葉を口にするのは、リーと離婚したのちに、たまたま出演したテレビ番組が反響を呼び、平凡な国語の一教師から芸能レポーターへと華やかな転身を遂げるロビンである。「セレブリティをつくりだすには、才能よりもプレゼンテーションの技術がものをいう」(スージック)ことを裏づけるかのように、ロビンの新たな婚約者となったテレビプロデューサーの男は視聴者が何を求めているのかを熟知しており、彼女を戦略的にお茶の間のスターへと仕立て上げていく。自身の経験から得たのであろう先のロビンの言葉には、セレブリティの条件とは、まさに彼らがセレブリティであるからだという身も蓋もないトートロジーが内包されている。
こうした文脈で見ると、アレンは「他の世界の有名人と同様に、彼らが特別な人物になりうるのは、有名であるということだけのためである」と、半世紀以上前に刊行されたメディア論の古典『幻影(イメジ)の時代 マスコミが製造する事実』(星野郁美・後藤和彦訳、1964年、東京創元社)で指摘してみせるD・J・ブーアスティンの正当な後継者であるといえる。同書でのブーアスティンは、今では広く知られることとなった「擬似イベント」という現象を提唱し、メディア革命からイメージが大量生産されることで生じる決定的な影響を論じている。「擬似イベント」とは、大衆の欲望にあわせて広く伝達することを目的としてメディアが実際の出来事以上に本物らしく、しかも劇的で理解されやすいように演出した「事実」のことを指す。これは現在のポスト・トゥルース的な状況を指摘したものとしても取り上げられるものだ。
アレンはその後も『ローマでアモーレ』(2012)において、突然にして前触れや理由もなく有名人に変貌してしまう一般人の男をコミカルに登場させている。もちろん、こうした「変身」のモチーフ自体は、マルクス兄弟の『我輩はカモである』(1933)やチャールズ・チャップリンの『独裁者』(1940)などのようなコメディ映画に頻出するものではあるし、アレンも『泥棒野郎』の次作である『ウディ・アレンのバナナ』(1971)では想いを寄せる女性のために南アメリカの一国の革命軍に身を投じ、その結果新たな独裁者に担ぎ上げられてしまう主人公を演じている。
しかしながら、古典的なクラウン・コメディの作品では、主人公たちが曲がりなりにも「英雄」たりうる活躍をするのに対して、メディアによって生み出された「幻影」に囲まれた時代を生きるアレン作品の登場人物たちは、有名になるために「偉大さが名声と同一視され」て「なんらかの方法で偉大さを例証」する必要すら感じていない。ブーアスティンはこれを「英雄から有名人へ」という変化で表現しており、またアメリカの社会学者C・ライト・ミルズは大衆社会を統合する権力の新しい布置を論じた1956年の著作『パワー・エリート』で早くも、メディアに出没するセレブリティ(有名人)という人種を新たな「パワー・エリート」としてみなしたことも、よく知られている。
それでは、なぜアレンはスター・システムないしはセレブリティ・ビジネスといった現象を繰り返し描く必要があったのだろうか? その疑問は『セレブリティ』に先立つ1980年の『スターダスト・メモリー』において明らかになる。
この映画でアレンが描いたのは、セレブリティ=カルト・ヒーローを利用/消費しようとする取り巻き連中たちへの不快感を表明した自画像である。物語の主人公は、アレンの分身的な存在である映画監督サンディ・ベイツ。彼は映画祭に参加するために「スターダスト・ホテル」を訪れるが、そこでは、映画祭の主催者をはじめ、評論家、マネージャー、勝手にホテルに押しかける身勝手なファンといった人々が、サンディの周囲で彼の都合におかまいなく動き回る。彼らがそれぞれの思惑でサンディを困惑させる姿がブラックユーモアを交えつつ描かれているわけだが、ここでは『アニー・ホール』の成功によってセレブリティとして消費されることへのアレンの嫌悪感がむき出しに示されている。
連載の前回で取り上げたように、アレンは『アニー・ホール』における興行的な成功により、映画作家としての名声を獲得した。そのことは結果的に、アレンが『アニー・ホール』に登場させたラルフ・ローレンのブランドイメージまでを高めることにもつながり、すなわちセレブリティとしての成功が経済システムと無関係ではいられないことを示すものでもあったのだ。
「いったん名声が確立されると、関連のない分野にまで価値は広がる」(スージック)という指摘は、アレンを分析対象にしても説得力を十分に持つものだ。その影響は、アレンが生み出した「ウディ・アレン」という映画上のキャラクターにまで及んでいくことになる。
「ウディ・アレン」の逆説は、ここにある。それは、アレン自身が「カルト・ヒーロー」となってしまうことを忌避しようとする身振りこそが、彼を「カルト・ヒーロー」にしてしまうという逆説である。こうした悩みはあらゆる映画スターやセレブリティについて回るものではあるとしても、アレンにとっての不幸とは、彼が『アニー・ホール』における「語りの戦略」のなかで創造した「ウディ・アレン」というキャラクターの生殺与奪の権利を奪われたことにある。このことを象徴する事象を別の文脈から紹介していくことにしよう。