【連載】ウディ・アレンの逆説 ポスト・トゥルース時代のスキャンダル② text 大内啓輔

『アニー・ホール』より – (C)2014 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved. Distributed by Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC.

ウディ・アレンの誕生

ウディ・アレンのキャリアを改めて振り返るとき、1977年に公開された『アニー・ホール』について語ることを避けては通れないだろう。アレンとマーシャル・ブリックマンの共同脚本による『アニー・ホール』は、第50回アカデミー賞で作品賞・監督賞・脚本賞をはじめとする主要部門で受賞を果たすなど、批評的にも高い評価を獲得したことで、アレンの映画作家としての地位を確立させた。商業的にも大きな成功をおさめることになり、またその後、ニューヨークという舞台がアレン作品の代名詞ともなったことで、アレンのフィルモグラフィにおける大きな分水嶺となっている。

その成功の要因となったのは、これまでも指摘されてきたように、アレン作品における作風の変化である。『アニー・ホール』以前のアレン作品は主として、過去の映画や文芸作品からの引用やパロディ、スラップスティックなギャグ、そしてアレンが映画以前にキャリアを築いていたスタンダップ・コメディから引き継がれたジョークの数々といった要素が中心となっていた。事実、アレンはクラウン・コメディの系譜に位置付けられてきたり、パロディストとしてボブ・ホープの後継者という評価を受けてきたりしていたのである。実質的な監督デビュー作である『泥棒野郎』(1969)以来、監督として作品への独立したコントロール権を与えられてきたアレンにとって、断片的な諸要素が全体の主題へと結実していくような有機的な働きをしていないことこそが映画作家としての課題であった。7つの短いエピソードから構成された『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』(1972)が高い評価を得たことは、アレンの物語の構成力の弱さを逆説的に裏づけているといえるだろう。アレン作品はしばしば「映画的」な魅力を欠くものとみなされてきた。

それに対して『アニー・ホール』では、現実離れしたコメディに深みを与え、哲学的なペーソスを加えたリアルでロマンチックな大人の恋愛が描かれ、旧来的なロマンティック・コメディを更新する作品として多くの批評が生み出されることになる。また、撮影監督にゴードン・ウィリスを迎えたことで、ニューヨークの情景がロマンチックに演出されており、この都市がウディ・アレンの代名詞となっていく(さらにはスプリットスクリーンで画面を構成するアイデアなどはウィリスの発案によって生み出されることとなった)。ウディ・アレンについての初の本格的な作家論『負けた者がみな貰う』(Maurice Yacowar, Loser Take All: Comic Art of Woody Allen)が刊行されるのも1979年、もちろん『アニー・ホール』の成功を受けてのことである。もちろん、ラルフ・ローゼンブラムのような編集者の助力もあってのことだが、『アニー・ホール』以降、アレンはひとまず映画作家として輝かしい道を歩み始めることになる。

映画史的な観点から確認しておけば、1960年代の終わりから数多くのユダヤ系の俳優やコメディアン、映画監督がハリウッドで存在感を示していたという、同時代的なコンテクストは見逃すことはできない。メル・ブルックスやマイク・ニコルズ、エレイン・メイといったコメディ出身の、ユダヤ系アメリカ人の作り手たちによる「新しい波」にウディ・アレンも連なることになったのだ。また、バーブラ・ストライサンドに代表されるように、自らのユダヤ性を前面に押し出す俳優たちがスクリーンに登場することにもなるが、この動きは1960年代のアメリカにおける公民権運動などによる人種意識の高まりのなかで、都市部で生活するアフリカ系アメリカ人を対象にしたブラックスプロイテーション映画や、フランシス・フォード・コッポラやマーティン・スコセッシといったイタリア系の映画作家によるエスニックな要素を打ち出した作品が数多く製作され、アメリカ映画における新しいエスニック・タイプが生み出されていったことと並行関係にあった。

それとともに重要になってくるのは、ダスティン・ホフマン、エリオット・グールド、ジョージ・シーガル、リチャード・ベンジャミンといったユダヤ系の男性俳優が演じた「バッド・ボーイ」という新たなステレオタイプである。「バッド・ボーイ」の特徴は、同時代のアメリカ文化の潮流と同期するような、あからさまに性的な要素が前景化されたことにあった。その嚆矢とされるのがマイク・ニコルズ監督、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』(1967)であり、それに続いてリチャード・ベンジャミン主演でユダヤ系作家フィリップ・ロスの同名小説を映画化した『さようならコロンバス』(1969)などが公開される。こうした映画では、「バッド・ボーイ」たちは自分たちの境遇から社会階級的にも経済的にも、また人種的にも遠く離れた場所にいる女性との関係を持つことによって、自らの属する共同体からの「逃走」を企図する。そこではもちろん、ユダヤ系にルーツを持つ男性主人公と非ユダヤ系の女性(ユダヤ文化的な言葉を借りればシクサ)との恋愛関係に主眼が置かれることになる。

『卒業』より – Photo United Artists / Sunset Boulevard / Corbis via Getty Images

そうした特徴がもっとも顕著に現れているのが、同じくフィリップ・ロスの小説の映画化であり、アルフレッド・ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』(1959)などの脚本で知られるアーネスト・レーマンが監督を務めた『ポートノイの不満』(1972)である。この作品で主人公となるユダヤ系の青年を演じたのは、『さようならコロンバス』にも主演したリチャード・ベンジャミンだった。1969年の小説の刊行当時もスキャンダラスな注目を浴びたこの作品では、厳格で愛情過多の母親からなんとか自立しようと試みる男の悲喜劇が描かれており、ユダヤ系アメリカ人にセクシュアリティが加えられていくこととなる。こうしたユダヤ系主人公の成熟の不可能性を描いたことや、内省的な一人称の語りによって物語が展開する点において、『ポートノイの不満』と『アニー・ホール』は後年に共通点を指摘されることになるが、『ポートノイの不満』は批評的にも興行的にも失敗に終わる。その後、2007年に『ライラにお手あげ』としてベン・スティラー主演でファレリー兄弟がリメイクしたエレイン・メイの『ふたり自身』(1972)も、ユダヤ系の男性主人公の自意識や葛藤を描く作品の典型的な例であるが、このブームはしだいに下火となっていく。その理由は『卒業』に続くようなヒット作がなかったこと、そして俳優たちの多くがエスニシティから「解放」されて俳優としての活躍を見せるようになったことなどが考えられる。こうしたユダヤ性を前面に押し出したキャラクターの再びの隆盛は、1990年代のテレビドラマにおけるシットコムまで待たなくてはならなかった。

そうした流れのなかで世に出た『アニー・ホール』は、これらの映画で繰り返し描かれた男たちの、成熟不可能性のその後を描く作品であるとみなすことができる。『アニー・ホール』の主人公であるアルヴィーは40代であり、もはや青年と呼ばれるには遅すぎるほどだが、ウディ・アレンは性的な特徴を持つユダヤ系男性というステレオタイプを巧みに応用しながら、そこに自らの自伝的な要素に目配せすることで“ウディ・アレン”という新たなペルソナを生み出していくのだ。

『アニー・ホール』が伝記的な事実を含んだ物語であるというとき、それは単にアレン自身の自伝的な事柄がキャラクターやストーリーの内部に投影されていることだけを意味してはいない。もちろん、アレンが演じたアルヴィー・シンガーはブルックリン生まれのコメディアンであり、2度の離婚歴があること、そして精神科医による心理カウンセリングに通うことを日課にしていることは実際のアレンと共通している。しかしながら、ここで確認したいことは、こうしたアレンの伝記的な事実と、彼が創り出したフィクションとの共通項を挙げていくことではなく、『アニー・ホール』ではいかなる「語りの戦術」が組織されていたのか、ということである。そのことを確認するために、いささか奇妙な印象を与える『アニー・ホール』のオープニングを改めて見てみよう。

物語の冒頭、無音のクレジットが終わると、どこかはにわかに特定できない曖昧な空間のなか、名前も明かされていない一人の男がカメラに向かって喋り始める。およそ100秒ものあいだ続く語りのなかで、男はグラウチョ・マルクスのユダヤ的なジョークを引用しながら、人生や死へのあいまいな不安や自身の女性関係の複雑さ、悲観的な人生観などについて饒舌にまくしたてる。この冒頭の語りが終わろうとしたところでようやく、これから語られる物語が、この男とアニー・ホールという女性との恋愛がいかにして破局にまで至ったのかを回想するものであることが予告されるのだ。

そののちに画面はアルヴィー(ウディ・アレン)とアニー(ダイアン・キートン)との出会いの場面へと移り変わっていくのだが、冒頭の語り手の名前は明かされることはない。ここでは意図的に、この男が作中人物(のちに明らかになるアルヴィー・シンガー)であるとも、現実の存在としてのウディ・アレンであるとも解釈可能なものとして、あくまで宙吊りにされている。『アニー・ホール』のシナリオにおいても、冒頭の語り手が「アルヴィー」と記されているのに対して、その直前の指示では「サウンドとウディ・アレンのモノローグがはじまる」(Woody Allen, Four Films of Woody Allen [New York: Random House, 1982], p. 3)と作品を離れた、現実の固有名が書き込まれていることは考慮に入れる必要がある。あくまで再現可能なものとして記述されたものとしてのシナリオに、本人以外では再現不可能な固有名が書かれているわけである。