もう1枚ある東京大空襲レコード
といっても早乙女勝元は、キャリアの最初から、空襲の語り部的な活動を中心にしていたわけではない。
戦後は働きながら夜間中学に通い、18歳の時に書いた『下町の故郷』が直木賞候補になって以降は、下町の工業地帯で働く若い男女の恋愛や生きがいを描く小説家となった。小説が何本も映画化されていることから、当時の青春作家としての人気がうかがえる。
その1本『明日をつくる少女』(1958・井上和男)の脚色に助監督時代の山田洋次が参加した縁から、山田の最初の重要作『下町の太陽』(1962)の原案作りに協力していることは、映画好きにとってはたいへんな話なのだが―寅さんに「よッ、労働者諸君!」と冷やかされる博さん達の、その描かれかたにつながることだから―これはまた別の機会に。
ともかく、早乙女はその間も並行して、東京大空襲を題材にした児童向けの小説を発表していた。空襲体験を前面に出す活動はまだしていない時から、常にそれは原点であり、核だった。
そして1970年になって「東京空襲を記録する会」を作り、その中心メンバーとして東京大空襲に関する資料を収集し、体験者の聞き取りを本格的に始めるようになる。
その最初の成果が、岩波新書から1971年に出て今なお読まれている『東京大空襲』だ。
活動のスタートまで戦後20年以上かかった大きな理由は、体験者の間で空襲の夜を思い出し、人に話すことに対する抵抗感がまだまだ強かったからだと思われる。
この本の序章で早乙女は、1970年の夏に多くの空襲体験者(その大部分は同時に死者の遺族でもある)を訪ねたものの、ずいぶん取材を断られたことを明かしている。
「また、私の真意を受けとめ、話したくない話をうちあけてくれた人も、一人として平静だった人はいない。みな申し合わせたように話の途中で絶句し、私はペンを片手に、顔を上げることができなかった」
だから早乙女は、岩波新書の後はいきなり、どんどんと聞き取り活動を進められるようになったわけではない。だが、空襲の記憶は形として次代に残したい。
その思いが、一番の代表作と言える絵本『猫は生きている』(1974・理論社)となり、岩波新書のレコード化と銘打った『東京大空襲』(1970・ブラック)となった。
ブラック・レコードの『東京大空襲』は、岩波新書での証言を主な原作として、いずみたくが作曲・編曲した異色のコンセプト・アルバム。舞台を想定しない音楽劇と言えばよいのか、その斬新さは今でもなかなかいい例えを見つけての説明がしにくいほど。
空襲の記憶を次世代に残す活動として効果的だったかどうかは、あいにく微妙だ。音楽ものにしていくと、どうしてもリスナーの意識は別の回路に吸収されてしまう。
それでも、日本語ミュージカルの先駆者だったいずみたくの才気と、早乙女の熱意がバチンとぶつかった、他にはない魅力と迫力がある。
(このブラック・レコードはいずみたくの個人レーベルとして伝説的で、全てのジャケット・デザインを手がけたのは和田誠で……という楽しい話は、これもまた別の機会に)
この盤は、ベトナム戦争の爆撃の実況音で終わる。そこには確実に、真摯なものがある。早乙女勝元は東京の夜空に降った焼夷弾と、北ベトナムに降っているナパーム弾を地続きで考えている。
そして6年後、改めて、今度は証言を中心としたレコード版―本盤を制作することになったわけだ。
空襲が正当化されていく歴史
東京大空襲を、それだけを単独の大災厄として学んでも、認識は点のままで広がらない。前後もよく知って、どうして戦争で多くの民間人が犠牲になるようになったか、線として捉えたい。
この早乙女の信念(と言っていいだろう)が、先ほど書いた本盤の特色である、東京大空襲の前の日本初空襲や、その後の横浜大空襲についても証言を録っていることにつながり、初代館長をつとめた東京大空襲・戦災資料センターの展示内容にも反映されている。
この盤を聴き込む参考のため、僕は2月にセンターを訪れたのだが、展示は、世界の戦争の歴史のなかで空襲がいつ始まったかの説明から始まっていた。
それに、3月10日のことだけではなく、4月と5月にも大規模な東京空襲があったことが強調されていたし、空襲で家族を失った戦災孤児についてのデータもパネルにされていた。その丁寧さには、とても感じ入るものがあった。
せっかくなので、センターのパネルと本番の解説書をもとに、1945年3月10日に至るまでを整理しておきたい。読むのは億劫かと思いますが、全て東京大空襲につながっていく話ですので……。
○1911年、イタリアとオスマン帝国の戦争で、イタリア軍が飛行機から手榴弾を投下したのが最初の空襲とされる。このかつてない攻撃方法の効果は大きく、オスマン帝国の敗北(それから帝国は崩壊し、トルコ共和国が生まれる)につながったものと評価される。
○第一次世界大戦後の1921年、イタリアの軍人ジュリオ・ドゥーエが、世界大戦のような総力戦では、相手の住民を無差別に爆撃すれば戦意喪失につながるので、効率的に戦争に勝てると主張。そうして早く終わらせたほうが犠牲は少なくてすみ、「人道的」でさえあると唱えた。
○一方で1928年にはパリ不戦条約が成立する。戦争は、第一次世界大戦までは国家間の紛争解決手段として認められてきたが、条約後は文明国の間では違法となる。ただし、自衛権の行使は許される。
○ところが日本軍は1931年、満州事変を起こし、錦州を爆撃。翌年も上海を爆撃。第一次世界大戦後、初めての都市への無差別空襲となる。
……厳密にはかなり専門的な理解が必要な話なので、ここでは大きくまとめさせてもらうが、日本軍側はこの爆撃は権益を守るため、つまり「自衛権の行使」のうちに入ると解釈した。しかし国際的には、日本がルールを破り国際秩序を乱したと捉えられた。そのズレ、摩擦が1933年の国際連盟脱退につながる。
○しかし欧米も、第二次世界大戦が始まると、ドゥーエが唱えた空襲=必要悪論を実戦で取り入れるようになっていく。
1943年7~8月の、ドイツ・ハンブルク空襲では約4万5000人の市民が犠牲になった。爆撃機にも大きな被害が出たため、アメリカ軍は次第に目標がある地域全体を狙うようになっていく。
「ハンブルク空襲は、都市への大規模な戦略爆撃がくり返されていく、転換点になりました」(パネル説明)
▼Page3 なぜアメリカ軍は無差別爆撃を選んだのか に続く