【連載】ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー 第35回『ドキュメンタリー 東京大空襲』

なぜアメリカ軍は無差別爆撃を選んだのか

○前後するが、日本では1938年から国家総動員体制が始まり、1937年公布の防空法が1941年に改正。これによって国民には退去の禁止と応急消火義務が課せられた。
国家総動員体制下では、自分の住む隣近所はいわば自分の持ち場。空襲があっても逃げずにバケツリレーなどの消火活動にあたるべし、と決まったのだ。これが1945年3月10日の甚大な被害への、伏線になる。

○日本の本土初空襲は1942年4月18日。来襲したB25は16機で、東京、川崎、名古屋などを空襲し、亡くなった人の数は87名。
爆撃隊の指揮官だったドゥリトル中佐の名から「ドゥリトル空襲」と名付けられたこの空襲は、真珠湾攻撃成功の勢いで日本海軍の潜水艦がアメリカの西海岸を攻撃したことへの、報復の意味が強かった。
(コメディ映画の誇張はあるとはいえ、スティーヴン・スピルバーグ『1941』(1979)で描かれた潜水艦パニックは本当にあったのだ)
ただし、空母が日本近海に近づくのはまだまだ危険だったため、一時的な奇襲作戦に終わった。

○1942年6月のミッドウェイ海戦で、太平洋戦争の主導権はアメリカ軍が握った。同年、大戦中最大の大型機であるボーイングB29が試験飛行を成功させる。
1944年にはサイパン、グアム、テニアンの日本軍が全滅。ただちにB29の飛行基地が建設された。

○1944年11月1日、B29が初めて東京上空を飛ぶ。この日は東京の軍需工場や軍事施設の撮影が目的の偵察飛行だったことが戦後に分かる。
この時期から翌1945年3月に入るまでは、東京の空襲は軍需工場や軍事施設に対して行われた戦術的爆撃が主だったが、1945年1月27日、銀座、有楽町が爆撃される。

○1945年の年初、サイパンB29兵団司令官になったルメイ将軍は、焼夷弾の搭載量を増やして低空からの爆撃に戦術を転換する。これによって軍事施設だけでなく、地域全体が目標になった。日本の軍事生産の多くが、家内工業に頼っているのが理由。

○1945年3月9日夜、グアム、サイパン、テニアンから300機以上が離陸した。

……この時期、日本との戦争はまず勝つ、とアメリカはよく状況分析できていたはずだ。それなのに、なぜ大規模な無差別爆撃を行ったか。もう少し粘ってみたい。いったん、アメリカ側になって考えてみる。

当時のアメリカ軍はミッドウェイ海戦の勝利のあと、次々と制海空権を日本から奪ったものの、フィリピンや硫黄島では苦戦を強いられ、海軍特別攻撃隊―神風特攻隊によって洋上の艦隊が大きな被害を受けていた。

カミカゼ・アタックを受けた後の甲板を撮影した、アメリカ軍のアーカイブ・フィルムを見たことがある。そこには、ガクガク震えながら泣き叫ぶ若い兵隊が衛生兵達に運ばれる姿もあった。恐怖で精神が壊れた直後の人間のようすを、まともに見るのは初めてで、それ以降も経験はない。
死ぬことが前提の体当たり攻撃が組織だって行われるのは、アメリカ軍の、いや、欧米人の価値観を超えていた。それがどれだけ怖く、脅威だったか。

なにを言ってるんだ、オマエは空襲や原爆で黒焦げになった死体の山の写真を見たことがないのか、あの地獄のような残酷さに比べてその程度がなんだ! と叱られたらシュンとなってしまう。しまうのだが、その若い米兵の映像を見て(ザマをみろ)と思う気持ちはとても湧かなかった。

ともかく、全体の戦局と東京大空襲は分けては考えられない。
太平洋上の苦戦に比べると、日本本土の抵抗力がはなはだ弱いことはすでに把握できている。大都市を攻めて早く戦意を喪失させねば、と強硬な戦術に傾いたのは、当時の価値観におけるアメリカ側の理屈としては、理解できるのだ。

証言起こし1―赤い光がフラッシュのように

俯瞰の整理をしたところで、3月10日夜の空襲体験を聴き直してみる。
ドゥーエの理論も、列強各国の正当化のための言い分も耳を傾けたうえで、そこには民間人の生命を、財産を奪う意識がストンと欠落しているのを確認するために。

書き起こしているのは、早乙女自身と、岩波新書『東京大空襲』のなかでも証言している橋本代志子さんの証言。できれば両者を読み比べて、本とレコードの間の7年の時間について考えてもらいたいのが理由だ。

空襲当時、向島区に住んでいた早乙女勝元さん(当時12歳)の証言
「警戒警報が鳴ったのは確か9日の夜の10時半で、その時私は寝床からいったん飛び出してですね、外へ出てきたんです。なんとなく今晩から明日の朝にかけて大空襲があるかもしれないという噂は巷に溢れておりまして。それはどうしてかと言いますと、3月10日はかつての陸軍記念日に相当するから、敵も黙ってはいないだろうとみんなが言うわけですね。それでラジオのニュースによりますとその日はなにしろ五十年ぶりの異常な寒さだということです」

ところが、2機のB29は間もなく、房総沖に飛び去る。

「ええ、どうやら敵もその、『南方洋上遥カニ遁走セリ』と言ったもんですから、それでは一応ホッとして、布団の中にまた入ったんですね。入ってさてどの位眠ったのかもう記憶にないんですけども、いきなり耳のそばでもって『勝元、起きろ!』という声が聞こえまして。
それで私目を開けた時には、周り中がピカピカピカピカ、もうフラッシュを何千何百と瞬いたみたいに明るくなっていて。その光が全部真っ赤で。それで、要するに我々一家は完全に炎に包囲されていることを知ったわけです」

先行した2機は、警戒を解くための囮だった。10日午前0時すぎ、東京湾上から飛来した1番機が深川の木場、白河町、三好町の爆撃を開始し、続いて江東地区の周りを爆撃。ドーナツ状の火の環を作り、その環のなかに2時間以上にわたって焼夷弾を落とした。
3月10日未明の爆撃は、周到な焦土作戦だった。

「それから私達一家五人はその、一台のリアカーにありとあらゆる荷物を満載しまして。家からほとんど数メートル出ますと水戸街道なんですが、もうその街道筋は群衆が雪崩のようにどんどんどんどん逃げてきまして。そして、お母さんの手から離れた子どももみんなすっ飛んでしまうような物凄い北風に変わっていたわけです」

勝元少年は、縁の下に住み着いていた野良猫のことが気になり、後ろ髪を引かれる思いだったが、父の引くリアカーにしがみつくように逃げるしかない。

「うっかりしますと目の中、口の中まで火の粉が入ってくるような始末なのです。火の粉の濁流をかき分けていくという感じでしょうか」

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