証言起こし2―ごった返す橋の上で
市民は鳥の目を持たない。バケツリレーなどではとても特殊な焼夷弾の火は消せず、防空壕に入っても爆撃で生き埋めになるか炎と煙で蒸し殺される、と悟ってからは火柱と逆の方向へと逃げた。そのため、かえって火の環の中心部に向かってごった返すことになった。
橋本代志子さんは当時24歳で、1歳の男児の母。本所区で両親、妹達と同居していた。夫が警備召集で屯所を守るため出ている間、みなで防空壕に入っていたが、爆撃の激しさはこれまでとは比べようがないと気付いた父親の指示で、みなで避難した。
橋本代志子さんの証言
「火に追われてねえ、橋のあのう、三之橋のたもとのところまで逃げてきたわけなんですが。私のあのう、二番目の妹の悦子というのが、両手にあのう、釜を持ってましてね。それで手がつなげないんです。
そうしているうちにあのう、物凄い人の流れで、もう黒山のように橋に向かって人波が流れてきます。それであのう、つまずいたように思うんですけどねえ、ふっと見えなくなったんで、大きな声で呼んだんですよね。『悦ちゃん、どうしたの!』って言ったら、『お姉ちゃん待ってて、待っててね!』というのが一番最後だったですよね、あの子の声を聞いたのは」
逃げてきた人々がごった返すなかで、代志子さんは妹を見つけるのを諦め、両親と三ノ橋を渡ろうとするが、逆方向からも人波が逃げてくる。橋の上で多くの人が見動きとれなくなった、その上からさらに爆弾が落ち、火が燃え移ってくる。
「(背中におぶっていた子どもの)博がキャーッと大きな声で泣いたんですね、もう、叫びですね。そして慌ててあのう後ろ振り返りますと、口の中が真っ赤になって燃えてるんです。もう、火の粉が入ったなと思って慌ててかき出しましてね」
「父がもう、狂気のようになりましてね、私に『川の中に飛び込め』って再三言うんです。だけど三月の川ってやっぱり飛び込むには……勇気がいるんですよね。それで綺麗な川ならいいんですけど、竪川って物凄いドブの川ですからね。なんかそういう、躊躇していたら、やっぱり父が……あのう、狂気のようになって私の肩を揺するもんですから。思い切って欄干の上へ、子どもを抱いて……欄干の上から見たんですけど、川の下はやっぱり、両面の焼けた家の火が映ってましてね。なんか、川が燃えているような感じがしましたね」
「その時に母がね、自分が被っていた防空頭巾を私に被せてくれたんです。あの橋の上でね、防空頭巾がないということは、やっぱり……母があのう、自分の死ぬということを覚悟していたっていう……気持ちがしてしようがないんですね私。……そしてあのう、私に防空頭巾を被せてくれた、なんかその時の母親の顔っていうのが、私、終生忘れられないんです。
それであのう……白髪交じりでね、もう、そしてあのう、私のことジッと見てた母親の顔っていうのが……」
「私はあの、私は子どもを抱えて、そしてやっと飛び込んで助かったんですけど。あの橋の上でねえ、苦しんでたくさんの方が亡くなっていったと同じように、ああいう苦しみを父も母もまた妹達も……(啜り上げ)死んでいったのかと思いますとね……やっぱり今でも、物凄く辛いですね」
話したくない人はいる
橋本代志子さんは、岩波新書の『東京大空襲』のなかでは、妹とはぐれてしまった経緯についてレコードほどは詳しく話していない。一方で本のほうでは、最後に防空頭巾を被せてくれた母とは、実はあまり折り合いが良くなく、ふだんはあまり口もきかなかった関係だったのを打ち明けている。
7年の間に、やっと話せるようになったこと。ますます話すのが辛くなったこと。それは、ひとりひとり違うのだろう。
「東京大空襲といえばいつも早乙女勝元だな」
そんな揶揄に近いことは、昔からよく言われてきた。
だが、証言を聞き取る作業は、体験者に「深刻な勇気」(岩波新書)を求め続ける、ある意味ではとても罪深い行為だ。それを早乙女は肝に銘じていた。
だから自分が率先して空襲体験を語り、次世代に残さなくてはいけない意義を示さなければならなかった。そう理解されたい。
本盤から10年以上経った1991年、早乙女は自著を原作とした今井正の監督作『戦争と青春』で脚本を書いた。
テーマはこれまで通り、東京大空襲の体験を形として残す、というストレートなものだったが、そこにはある屈折が描き込まれていた。
主人公である高校生の女の子(工藤夕貴)は、「親から戦争体験を聞く」宿題を持ち帰る。ところが、彼女が食事の席でそれを話題にすると父親(井川比佐志)は急に不機嫌になり、大声を出してしまう。炎のなかで家族を救えなかった少年時代の悔恨を今も引きずっているからだった。
話したくない人はいる。その気持ちをおもんばかることを前提にして、早乙女勝元のライフワークは成り立っている。
レコードの話に戻ろう。本盤は3月10日の後にあった、5月29日の横浜大空襲についても証言を収録している。死者数が減ったのは、防空体制が変更されたから。
アメリカ軍は、4月と5月にも3月10日と同規模の東京空襲を行っている。なのに死者数が格段に減ったのは、防空壕退避やバケツリレーに固執する防空体制がやっと変更されたからだ。
5月25日、アメリカ軍は東京を攻撃目標のリストから除外した。もう東京には、燃やすべきところがなくなっていた。
繰り返すが、東京大空襲では2時間強に及ぶ爆撃で、約10万人が命を落とした。被害者は民間人のほうがずっと多い。
かつて、それだけの時間の戦闘で、それだけの軍人が死ぬ戦場があったかどうか。
空襲・戦略爆撃によって、職業的戦闘員のいる前線、民間人のいる銃後という区分けは崩れた。ひとたび戦火を交えれば、軍人より民間人の死者数のほうが多くなるとハッキリした時、国家間の紛争解決手段であり、クラウゼヴィッツの言う「政治の延長」として戦争が認められてきた時代は終わったのだ。
今回は、ロシアとウクライナの戦争について、自分なりにヒントが欲しくて考え考えしながらレコードを聴き、書いた。
具体的にはまだ分からない。単純な比較で済ませないよう慎重にしたほうがいい気持ちはあるし、いや、全部が参考になった、という気もしている。
ひとつだけ今の僕が確信を持って言えるのは、軍人よりも民間人の死者数のほうが多くなるパワーゲームはもうアウト、ということ。これだけは歴史や政治、地政学、どんなアングルから説こうが逆行してはいけないルールだ。
※盤情報
『ドキュメンタリー 東京大空襲』
日本コロムビア
1978
【執筆者プロフィール】
若木康輔(わかき・こうすけ)
1968年北海道生まれ。フリーランスの番組・ビデオの構成作家、ライター。
高校を卒業して関東に出てきて、念願の浅草や柴又などを初めて歩き回った時、なんともいえない違和感があった。東京の下町ってなんでこんなに「古くない」の……? というものです。今回、東京大空襲について勉強して、そのモヤモヤと、東京は一度焼け野原になった事実がなかなか実感としてつながらないままだったことに驚きました。
東京は、全体が復興都市だったのだ。なぜこの視点が欠けていたのか、自分のぼんやり加減がフシギですし、東京という街自体にその過去について語りたがらない節があるのも確か……。
ともあれ、戦後の東京を舞台にした映画は、ぜんぶその視点で捉え直さなくちゃ、と考えています。