【Interview】「撮る人」と「ものを書く人」の17年 『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』中村裕監督インタビュー

映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』より

瀬戸内寂聴さんとの出会いと関係

――ここからは瀬戸内寂聴さんとの出会いについてお聞きします。寂聴さんを名古屋の御園座に訪ねたのが、18年前、2004年のことですよね。

中村:2000年に今の会社(スローハンド)に移籍して『情熱大陸』(毎日放送)を手掛けた2本目か、3本目でしたかね。『情熱大陸』は、高齢者はほとんど取り上げないけどあの人は別格だから、取っ掛かりをみつけて撮ってくれ、と毎日放送から話があって、瀬戸内寂聴さん(以下、先生)に取材依頼のファックスを送ったのですが、半年くらいなしのつぶてでした。その後、ようやく当時の秘書から「密着なんかできるものならやってごらんなさいよ」と言われて、撮りたい項目を事前に送ったんですが「執筆シーンは、もう何年も撮らせていないから無理」とあしらわれて。結局、名古屋の御園座ではじめてお会いしたのですが、そういう経緯もあって腰が前に出ていないんです。完全におじけづいてました。

――そのシーンは今回の映画でも出てきますが、おじけづくにしても、わざとじゃないかと思うぐらいカメラがブレていました。何に萎縮したんですか。

中村:秘書のガードが硬いこともあって、怖い人、という先入観が僕のほうにあったのと、やっぱり82歳の人とは、普段そんなに口をきかないじゃないですか。共通の話題がないし、コミュニケーションの取り方が分からない。作家だから、普通は何冊か本を読んでいかなきゃいけないはずだけど、当時既に400冊近く出していたから、何を読んで良いのか分からない。仕方ないから正直に「何を読んだらいいですか」と聞きました。すると「夏の終り」と「場所」でいいから、と言われて、その2冊しか読まなかった。でも、同じことを聞いて目の前で烈火のごとく怒られている人を後で見たときは、真っ青になりました。

御園座では全く取っ掛かりがなくて、レストランでもビールをジョッキで豪快に飲む姿が撮れず、落ち込んでいたんですが、天台寺に向かう新幹線の中で「書くシーンを撮らせてあげるわよ」と唐突に言われて「おっ」と思ったんです。あとで考えたら、第一印象は悪くなかったのかもしれない。それでそのまま天台寺に行って、結構フレンドリーに話してくれたんです。ステーキが好きだという話を聞くなど、実りの多い取材でした。

なにより仰天したのは法話です。ものすごい数の事情を抱えた人が集まって悩み事を話すのを、瞬時に聞いて慰めたり癒したりしていく。思わず「あれだけ負のエネルギーを持った人たちに囲まれて、精気を吸い取られることはないんですか」と聞いたら、先生は「最初はそうだったけど、この人たちが自分にエネルギーをくれていると思ったら楽になった」と言って、この人超人だなと思ったんです。そこから少し打ち解けて、京都でインタビューさせてもらって、天ぷら屋での「孤独が好き」という話になるわけです。あの話は印象的でした。

ただ、僕はあの時、なんで先生に孤独の話を振ったのか、記憶が定かではないんですよね。先生に孤独の影を感じたわけでも無かったし、孤独と無縁のシーンしか撮っていないし。でも今回の映画でも入れたということは、何かのターニングポイントだったとしか思えないんですよね。

――『情熱大陸』の放送後も関係が続いたのは、どういうご縁だったのですか。

中村:翌年『世界・時の旅人』(NHK)という、作家が憧れる海外の文学者の足跡をたどる番組があって、先生に忙しいのを承知でお願いをしてみたら、2ヶ月ぐらい直近のスケジュールを空けてくれたんです。フランスで二週間ぐらい先生と、フランソワーズ・サガンの足跡を辿りました。サガンはその前年に亡くなったのですが、先生と親交があって、サガンの息子に会うなど、面白いロケになり感謝をしていたんですが、そうしたらまたNHKから『なんでも好奇心』(05)という帯番組の依頼が来て、先生は当時「秘花」という世阿弥を題材にした小説を書いていたので、晩年の世阿弥が流された佐渡に取材旅行に行きました。そのあたりから仲良くなったんじゃない?と、後年先生は言っていましたが。

3年連続で先生と番組を作ってきたら、2006年に、今度は先生の方から「私を1年間撮って番組を作りなさい」と依頼が来て、『瀬戸内寂聴 遺したい言葉』(NHK のちにDVD化)を作りました。最初に結婚した旦那の墓参りに行ったり、その時に、あらかたのことは聞いたんですよ。先生に全集を送ってもらって、1ヶ月ぐらい何もしないで先生の本を読んで、そこでようやく瀬戸内寂聴という人物像が掴めた感じです。

映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』より

――その人物像とは、どのようなものでしたか。

中村:激しい生き方をしてきた人だなと。戦後、価値観が変わって、出奔し、筆一本で身を立てると決めて、少女小説を皮切りに自分の身の回りに起きたことを私小説にさらけ出して流行作家として上り詰めていくのですが、本格的な文壇デビュー作である「花芯」の描写が過激で、ポルノだと誤解されるんです。女の人が、自分の性愛を虚無的に捉えた作品なんだけど、世間はそうとは捉えなくて、女がこともあろうにエロを書いた、と大バッシングされるんです。それで、しばらくルポライターみたいな仕事をしてしのぐんだけど、やがて岡本かの子とか伊藤野枝とか、新しい生き方をした女の人たちの伝記を書き始める。それがあの人の文学的な地位を築くきっかけになったんですが、とにかく短編から中間小説、新聞小説まで、本当に書けないものはないぐらい多彩だし、あとは例えばエイズとか、現在起きていることにコミットしながら、1973年には出家までした。波瀾万丈というか、人生を何回も生きたような人なんです。

――寂聴さんの多才さのなかで、裕さんが一番心を打たれたのはどの部分ですか。

中村:好奇心が刺激される幅が広いんです。法話でその場にいる人を全部癒しちゃうパワーは見てすぐ分かるのですが、描いているものの多様さと、思い立ったら行動する自由さですかね。実際に反戦運動もするじゃないですか。自由を追い求めるとは、こういうことなのかって。自由って、言葉にすると簡単だけど、いろんな種類の自由があるし、常に責任が伴うし、基本的に面倒くさいことじゃないですか。そういうしち面倒くさいことにある意味ずっと取り組んできた人だなって。常に自由であろうとしたからこそ、ぶつかったりもするし、喜びもある。そこにこだわり続けた人なんじゃないかな、と思いましたね。

――その自由さの一環として、自分の性愛みたいなものについても語ったりする。

中村:出家して、行為としてそういう世界を断っているからこそ、純粋にそれに対する興味を失わず、追求しようとするところがあったんじゃないですかね。断つことで、行為とか行動とかが精神を縛るものから解放されて、作品に残すことへの水路ができたと思うんです。出家してから煩悩とかと常に向き合い続けたのは、嘘ではなかったんだなと思いました。

――全集を読み終わって、番組でもガッツリ特集した。その頃から寂庵に通い出したりしたんですか。

中村:『瀬戸内寂聴 遺したい言葉』が終わった2007年には、家族ぐるみで付き合うようになったんです。息子やかみさんも寂庵に行きましたし、2009年とか2010年あたりは『課外授業ようこそ先輩』(NHK)など、お願いできそうな番組をやっていました。ただ交流するだけだと遊んでいるようにも思われるし、先生にも「せっかく自分を撮っているんだから、ちゃんと仕事にしなさい」と言われて、それをこなしていくうちに、2009年あたりから「死ぬまで撮りなさい」みたいな流れができた。ちょうどその頃、秘書が瀬尾まなほさんに変わるんですが、それが2011年。2011年は先生にとっても転機の年で、腰痛や、具合が悪くなって寝込んだり、3月には東日本大震災が起きて、一緒に被災地へ行ったりして、僕も一緒にいる時間が長くなるわけです。

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