【Interview】「撮る人」と「ものを書く人」の17年 『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』中村裕監督インタビュー

中村裕監督

「取材者」として会い続けて

――交流を一つずつ番組にしていた、ということは、プロデューサーの協力も大きかったのですね。

中村:おっしゃる通りです。プロデューサーの伊豆田(知子)がいなかったら、ここまではできていませんよ。僕も先生の番組だけを作っているわけじゃないから、かまけていると先生から「裕さんと全然連絡が取れない」と伊豆田に電話がかかってきたりして、大変だったんじゃないかと思うんです。

――そう考えると、あくまで取材者として、仕事上のお付き合いの側面が大きかったと思うのですが、取材自体は裕さんも喜んで引き受けていたのですか。

中村:会って話すのは嫌でも何でもなかったし、楽しかったです。ただ2012年以降は、そんな頻繁には行ってはいませんね。他の仕事もしていたから、嫌味を言われながら海外ロケにいったらお土産を持っていくような時期があって、2014年にもう一回先生が倒れて、胆のうがんが発覚してから、2015年にNHKスペシャルの話が来るのです。

――『いのち  瀬戸内寂聴 密着500日』(NHK)ですね。

中村:はい。でもその頃から、どのようにアウトプットをしていけばいいのかを考えなきゃいけなくなってきたんです。こちらも先生に対してやりたいアクションはひと通りしたから、コピーになるものを作るのは苦痛だし。次に番組にするとしたら、テーマはなんだろうと思って、晩年を撮るとか、それこそ亡くなるまでとかを考えましたが、そういうふうにするのは僕も伊豆田も嫌だったんです。先生自身は「「遊行」といって、一編上人がやっていたような旅をして、行く先々で人が集まったら法話をして、また次の場所に行くみたいなことをやったら面白いじゃない」と言っていたから、YouTubeで配信をしましょうとか、ライブ配信をして、後でロードムービーみたいにまとめましょう、とか言っていたんですよ。そうしたらまた腰椎圧迫骨折で、先生もしばらく寝たきりになっていくわけですよね。『いのち 瀬戸内寂聴 密着500日』以降は、だんだん衰えも顕著になっていったんで、どうしようかと色々考えました。

――ディレクターであれば、何を撮るか、という職業意識があって当然だと思うのですが、裕さんの場合、そのことと、取材対象の寂聴さんに自分の思いをぶつけることが同化していく感じがします。職能にパーソナリティーが巻き込まれていってる。

中村:こちらは職業意識を常に発動していたわけでもなくて、雑談をしていても、話を面白くする為には何を投げかければ化学変化が起きるのかをずっと考えていました。先生は化学変化の実験には最もふさわしい対象で、どんなボールを投げても必ず何か返ってくる。「分からない」と黙り込むことが絶対ない人だから、こちらも意図的にやっていたかもしれないですよね。『いのち 瀬戸内寂聴 密着500日』で「晩節を汚すことはないのか」と聞いたのもそうだし、寝室まで見送ってから、もう一回ふすまを開けて倒れ込むのを撮るのもそう。後に編集した時、絶対こういう画が必要だと考えて撮っています。それを考える作業は楽しかったですね。

――その作業が板についている自分に対して、恥じらいや、後ろめたさみたいなものはありませんでしたか。

中村:後ろめたさはなくはないけど、それを打ち消すだけの理由を自分で喚起していた感じです。これはいつか人の目に触れるから、ある意味日記文学のように。必ず不特定多数の誰かが見ることが前提だと意識するというか…。

――でも寂聴さんも、基本的には人目にさらされて生きていた人だから、そこに対するハードルは低い。

中村:今回素材を見直して、カメラを据え置きにしてずっと回しているから、先生も僕も記録されていることを忘れているわけですよ。カメラが無いと思って「撮らないんだったら何でも話すわよ」と言っているのを「でも撮っていますよ」とか。それが僕の仕事なんだと理解してもらうしかない。ただ仲良くしたいだけのために僕は行っていたわけじゃないし。

――どこまで撮って良いのか、という話は、寂聴さん本人と話されたりしましたか。

中村:「僕が先生に会うのは、常にそこにカメラが介在しているんですよと。だから撮る時と撮らない時があるとかじゃなくて、常に僕がいるってことは、それが映像の記録になっているんですよ」って言った記憶はあります。でも本人はぽかんとしていましたね。カメラが持つ暴力性って、ドキュメンタリーでは議論になるから、僕の側からはいつも提示してるつもりではあったんですが。

『いのち 瀬戸内寂聴 密着500日』がATP賞をいただいて、授賞式の時に先生が来てくれたんですよ。その時は「みっともないとこばっかり撮って(笑)。あんなとこまで撮られていると思わなかった」って言われて。そういう側面は、ぬぐい難くあったと思うんですよ。元気ではつらつと、笑顔のカッコ良いところしか見せたくない人に対して、僕は全く真逆のことをやってきたわけだから。先生も我慢していたかもしれないですね。でも、どこかで許している。こんなもの出していいのかと、常に僕はドキドキしていますよ。それでもやらざるを得ないのは僕の事情でしかないわけで。

――寂聴さんの素のキャラクターと言えば、意識的に撮られていますけど、食事のシーンですよね。ご飯をたくさん食べるとか。肉ばっかり食べているとかね。

中村:あれも注釈をつけなきゃいけないんだけど、僕がいないところでは、あんなには食べていないんですよ。僕が来たから豪華なことになるんで。じゃあ僕がいないときに肉を食べないかとは言えば、そんなこともないんですけど(笑)。スタッフの馬場さんも「先生がお待ちかねですよ」って言われていたけど、何カ月かご無沙汰していたから、僕を喜ばそうと先生は考えていたと思うんですよね。まあでも、元気の源だったと思いますよ。「食欲だけはある」と、死ぬ間際まで言っていましたから。

――スタッフの馬場さんや瀬尾まなほさんの、裕さんがきたときのファーストリアクション、あれが全てを物語っていると思いました。

中村:僕のことを個人的にどう思うかというより、僕が行くと先生が華やぐからでしょうね。僕が帰った後で先生がガクっとくるのも怖いし、そういうところは瀬尾さんも馬場さんも敏感に感じていたと思います。

映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』より

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