【Interview】暴力を正当化できるのか――『暴力をめぐる対話』ダヴィッド・デュフレーヌ監督インタビュー text 津留崎麻子

2020年のカンヌ国際映画祭「監督週間」で世界的な注目を集めた話題作『暴力をめぐる対話』がついに日本公開を迎えた。2018年11月17日にフランス郊外から始まった「黄色いベスト運動(Gilets jaunes)」。車両整備などの際に装備する黄色い安全ベストをシンボルとするこのデモは燃料価格の高騰や燃料税の引き上げをきっかけに始まり、フランス政府への抗議運動としてたちまちパリのシャンゼリゼにまで広がっていった。デモ参加者と警察隊の衝突は次第に激しさを増し、権力に武力鎮圧される民衆と破壊活動から街の治安を守る警官たちという対立構造を生み、死傷者を出すほどの凄惨な抗議活動へと発展。以来パリの街を揺らし続けている。

監督のダヴィッド・デュフレーヌは、この抗議運動に対する警官の暴力行為について、スマートフォンなどで撮影した映像を誰でも投稿できるプラットフォーム“Allo Place Beauvau”をWEB上で立ち上げた。そこで確認された多くの傷を負った市民の姿や激しい抗争の数々。彼らの「暴力」をめぐって、警察関係組織や社会学者、実際に傷を負ったデモ参加者やセラピストなど、様々な立場の24名による長い「対話」が始まった—。

デモが開始された2018年といえば奇しくも、先日逝去したJ.L=ゴダール監督の遺作『イメージの本』が発表された年。ゴダール率いるジガ・ヴェルトフ集団の作品『ありきたりの映画(Un film commeles autres)』には現代の「黄色いベスト運動」の風景と同じく、五月革命の名の下に平等と権利を求める民衆とそれを諌めようと衝突する機動隊の姿が焼き付けられていた。民主主義国家のフランスの下で起こってしまった「暴力」は、映画と対話の力で解決の糸口をつかむことができるのだろうか。
(取材・文=津留崎麻子)

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「力の均衡」が生まれた環境下で映画を作るということ

—監督が立ち上げた映像の投稿プラットフォームがこの映画の始まりだったと聞いています。「映画を作れる」と思ったタイミングや具体的な動画はあったのでしょうか。

この映画の中にはたくさんの映像が出てきますが、いくつかの映像は私に取り付いて離れないものでした。特に黄色いベスト運動に参加して目を失った青年の叫び声や、その母親が病院にいるシーンなど。それらが私の中で長く響き続けていました。
当時のフランスでは政治的な問題があってもメディアが沈黙を続けていたため、警察の暴力に関する話題は一切出てきませんでした。しかし私が立ち上げたプラットフォーム上でデータが集積するに従い、ある時点から議論が爆発的に増えていきました。そして私はそこに知的で歴史的な言葉を持たせることが必要だと考えたのです。
最初はTwitter上にあげられた映像や証言で暴力を告発・警告するものでしたが、私がそのことに対してどう感じたのかという内面を描くため、小説の形で発表しました。それから更に議論を豊かにするため、映画を作ることにしたんです。TwitterなどのSNSに込められた映像は瞬時に世界中に届くという速さという強みを持っていますが、同時にそれは弱みでもあります。瞬間的には歴史的や映画的な価値があるのは確かなので、SNS上で映像が流れ去ってしまう前に、長い時間の中に固定することが必要なのです。これらの映像を映画にすることでアーカイブすることが可能になるのです。

—投稿された映像は主にスマートフォンで撮影・配信されたものだったため、警官たちの暴挙がかつてないほど身近なものとしてクローズアップされていたのが印象的でした。スマートフォンの普及はドキュメンタリー映画に大きく影響していると思いますか。

私が2007年にフランス郊外に起きた暴動事件をとらえた映画があります。当時まだスマートフォンは登場していませんでしたがSONYの小型高性能カメラが市場に出始めた頃で、これで撮ったアマチュアのカメラマンの映像を使った作品でした。このカメラの登場は、「力の均衡」を変えたと言えると思います。それまでは一方に警察がいて、ジャーナリストはどちらかというと警察の立場寄りの報道をしており、そのもう一方に市民がいるという構図でした。そこへこの小型カメラが市民の手に渡り、語り手がそれぞれへと分かれたため、「力の均衡」が起こったのです。今では誰もがポケットの中にスマートフォンのカメラを秘めることができて、誰もがジガ・ヴェルトフのように目の前で起きていることをただちに記録することができます。このことはドキュメンタリーの分野を激変させたと言えるでしょう。
スマートフォンの普及を危険視する人もいますが、私はそれよりも大きな挑戦を与えてくれるものだと思っています。実際にその挑戦は次第に姿を現し始めています。ドキュメンタリー映像作家の仕事は30年前と全く異なったものになっており、これまでとは違うところからこみ上げる新たな発想の源を見つける必要があります。SNSの進化と誰もが街角で映像を撮ることができる環境になった今だからこそ、街角で撮る一般の人の映像がまさにシネマ・ヴェリテに近いものであり、より一層、映像作家の視点が重要になってくるのです。

—本作は『アルジェの戦い』や『シリア・モナムール』と共通して、一般の人たちの目線で撮影された映像が現場にいる人たちの「証言」として力強いメッセージを持っています。この「証言」を映画にすることの意味についてどうお考えですか。

「証言」をもとに映画をつくることの意味はまさに、暴力や両陣営にある怒りなどに「意味」を見つけることそのものだと思います。そして大事なことは、そこに向かって深く考察することなんです。ただ考えるだけでも、感情だけでも十分ではありません。両方が必要なのであって、これらを提供するのが映画という芸術なんだと思います。ジャーナリスティックな描き方やエクリチュールは、警告を発することはできても、時に深く思索することを妨げてしまいます。ただ映画にはそれができるんです。

暴力を正当化できるのか

—映画の中ではデモと衝突の映像を観ながら、警察側の人間や社会学者、デモ参加者など色んな立場の人を「対話」させています。「対話」によって何が生まれると期待しましたか。

私にとって大切だったのは、フランスの人々にこの現実を見せることでした。当時のフランスは民主主義の社会でありながら、警察の暴力が目に見えない状態でした。でもこれらの映像を通じて、人々は警察の暴力を発見したのです。中には驚いて目を見張る人もいましたが、そこに驚くのだけではなく、衝撃を乗り越えることが必要だと私は思いました。そして驚きを乗り越えるために必要なこと、それが「対話」であり「議論」なのです。それがなければ、こうした映像は刺激的なスペクタクルに留まってしまいます。そうではなく誰もが社会参加をするためにも、議論をはじめるきっかけとして映画を作ろうと思いました。映画を見ることで人々は考察することができます。その考察には、自分自身についての考察も含まれるのです。誰もが指図することなく、最後まで人の話を聞き、最後にこの人たちがどういう人なのかということを理解する。そこで自分の考えが変わるかもしれない。そうして時には唾をとばして、激論を行うというのがラテン系の人たちの伝統なのです。

また私が映画を作るうえでもうひとつ試みたのは、「思考」を撮影することでした。人々が深く考えて自分の奥底にある感情や信念を見つける瞬間をカメラにおさめたいと思いました。そのために私はカメラを一台だけに絞り、話者の横に立って彼らの表情や動きを追いました。知らない者同士で事前リハを行わず、何について討論するのか事前に知らさなかったので、とても自然な姿をとらえることができました。

—討論の中で色んな立場から説得力のある言葉が生まれていましたが、監督にもっとも響いた言葉はどんなものでしたか。

たくさん心に残った言葉はありますが敢えてひとつだけ選ぶなら、中盤に登場するソーシャルワーカーのメラニー・ンゴイェ=ガアムさんの言葉です。警察の暴力に対して長いシークエンスで話しており、デモ参加者の暴力について始まり、最後は国家の暴力という話にまで及びました。また国家による暴力というものは単なる暴力ではなく、社会的、経済的、あるいは文化的な暴力だとも言っていました。彼女はフランス北部のアミアン出身で、奇しくもこの街はマクロン大統領の出身地でもあります。ですから彼女の言葉はより重みを持っているのです。

—「国家の暴力」について、監督の考えをもう少し教えていただけますか。

この映画で中心のテーマになっているのは、「暴力を正当化できるのか」ということについてです。暴力的なデモ参加者が現れた時に、警察はどのように対応するべきなのか。また何が暴力の原因になっているのか。デモ活動への対応は国によって様々で、例えばドイツとフランスでは警察の対応が全く違います。ドイツでは「緊張緩和」を目標とし、民衆と対話をしたり情報を与えたりということを行なっています。しかしフランスでは直接的な肉体的な接触、あるいは暴力にまで発展してしまっているのです。警察の暴力のせいで死者や大怪我をする人も出ています。これは警察の行動規範や使われている武器、またデモに対する訓練をどれだけ受けているか(残念ながらきちんとした訓練を受けていない警察も現場にいることが問題になっています)などといった、技術的な面で問題にも関わってきます。つまり国がどこまで防衛のための手段を取るつもりがあるのか、ということなんだと思います。

また以前のフランスでは、たとえデモで暴力的な行為が行われたとしても、人を傷つけるよりはものを壊すことを黙認するという方針が取られていました。例えば以前はマクドナルドを壊してしまうというようなことがあったとしても、人を傷つけるよりも損害を出したほうが良いという考え方でした。しかし政府の方針が強硬になるにつれ、デモ参加者の人たちによる暴力を制圧することを目的に、結果的に参加者が大怪我をするというような状況が生まれてしまっているのです。社会がより平和になるにつれ、暴力は絶対に許さないという空気は強くなります。そしてフランスや欧米では、治安の問題は常に政治的討論の中心にあります。一切の治安の悪化を許さないという姿勢から、許容される暴力の制限の度合いは下がっていきます。20年ほど前まではデモの参加者が運動の最中でものを壊していても警察はある程度見過ごしていたんですけど、いまは参加者が身体の一部を失ってしまう程の暴力がまかり通っているんです。

―日本はフランスと比べてデモ活動が少なく、政治活動や権力を描くことが少ない印象があります。フランスから見て日本はどのように見えているのでしょうか。

福島の原発事故以来なのか、フランスのジャーナリズムが日本をとりあげないからなのか、日本自身が世界ではなく内にむかっているからなのか、あるいはロシアや中国のような大国が大きく幅をきかせているからなのか。あくまでヨーロッパからみた視点ですけれども、現在の世界の歩みの中で、日本の視点や日本文化の視点が欠けているという印象を持っています。日本の視点や考え方がもっと必要だと思います。1968年頃から90年頃までは日本の考え方というものはもっと表舞台に現れていて、アメリカに対しても意見を言っていてバランスが取れていたと思います。

自由を後退させないために

—映画を作るということは「映像を作るという抗議活動」だという監督の言葉を公式リリースより伺いました。あなたは自分の立場から、ドキュメンタリー映画の社会的エンゲージメントをどのように考えていますか。

映画の中で、ジャーナリストの人が実際に警察からフラッシュボールの銃を向けられるシーンがありました。他にも、黄色いベスト運動に参加した実に数百人のジャーナリストが負傷しています。この事実は国境なき記者団も報告されており、世界報道自由度ランキングでフランスが順位を落とすという状況まで起きています。さらにこの黄色いベスト運動に対して、フランスの内務省がジャーナリストに対してデモに参加する場合には事前に届出を出すよう通達されているのです。これはジャーナリストの観点からすると、全くナンセンスです。
私自身はこの映画を撮るにあたって、ジャーナリストでもデモ参加者の立場でもなく、ひとりの映画監督としての立場を取っています。ドキュメンタリー映画とは、様々な視点が集合する場所であり、テレビのルポルタージュとはまた違うものです。もちろんそこには監督としての社会・政治に対するエンゲージメントはありますし、この映画自体にも社会的・政治的な参加という側面もあります。ですがこれほど重大で深刻な局面に対峙した時、一切の立場をとらないのは逆に奇妙なことではないでしょうか。そもそも監督の視点が反映されていないドキュメンタリー映画というものはないと思っていますし、出演者や観客の人たちに至っては、それぞれの立場や見方を「選ぶ」ことを強いているからです。この映画を観る人たちは映画館に行き、他の人たちと一緒に集団的に映画の体験、日常の中断を体験します。1時間半に渡って映画を見ること自体がもうすでにイノセントなことではないんです。

—フランスや世界情勢が不安定な今のタイミングで、この映画を上映することの意味は大きいと思います。

そうですね。いま世界中で、大きく「自由」が後退しているのを感じています。国家は新型コロナウィルス感染症に対する対策という正当性によって、公式には国民の福祉のためと言いながら自由が制限されているのです。これは非常に大きな問題だと私は思っています。これまでは長い間欧米で「対テロ」の名の下に自由が制限されてきましたが、今ではそれが感染症に置き換わっているんです。もちろん私はワクチンに反対する立場ではありませんしワクチン接種も受けています。国家が国民を守るために対策をとることについてなんら反対することはないんですけど、一方で国家が感染症との戦いという名目で国民の自由を制限していることは確かな事実なんです。
またもうひとつ、ウクライナで起きている戦争が私たちに明らかにしてくれたのは、絶対に確実であることなんて現実には無いということでした。ヨーロッパでは戦争に関することは全て解決済であると私たちは思っていましたけど、そうではなかった。この映画をご覧になって考えていただきたいのは、誰もが自分の自由を守るためには、自分で戦わなければならないということなんです。

【映画情報】

『暴力をめぐる対話』
(2020年/フランス/DCP/ドキュメンタリー/93分)

監督:ダヴィッド・デュフレーヌ
撮影監督:エドモン・カレール
音声:クレモン・ディジュー
映像編集:フロラン・マンジョ
音声編集:テオ・セロル
ミキシング:ロール・アルト
カラーコレクション:ジュリアン・ブランシュ
プロダクション・マネージャー:ガブリエル・ジュエル
アソシエート・プロデューサー:ヴァンサン・ガデル
制作総指揮:ベルトラン・フェーヴル(LE BUREAU)
共同製作:JOUR2FETE
配給・宣伝:太秦

画像はすべて© Le Bureau – Jour2Fête – 2020

公式サイト:http://bouryoku-taiwa2022.com/

2022年9月24日(土)より、ユーロスペースほか全国順次公開

【監督プロフィール】
ダヴィッド・デュフレーヌ
フランスのドキュメンタリー作家、監督。「Allô @Place_Beauvau」 でAssises Internationales du Journalisme(国際ジャーナリズム会議)の審査員最優秀賞を受賞。2007 年に発表した初のドキュメンタリー『Quand la France s’embrase(フランスが燃える時)』では、2005 年の暴動とCPE(初回雇用契約)反対運動を扱った。テレビドキュメンタリー『Le Pigalle: une histoire populaire de Paris(ピガール、パリの大衆の歴史)』(2017年)は各メディアから絶賛され、『Prison Valley(プリズン・ヴァレー)』(フィリップ・ブローとの共作)では2011 年世界報道写真賞のインタラクティブ部門賞を受賞した。著作には『On ne vit qu’une heure, une virée avec Jacques Brel(私たちは1時間しか生きられない ジャック・ブレルとの旅)』 (スイユ出版、2018 年) 、『Tarnac, magasingénéral(タルナック、雑貨店)』(カルマン・レヴィ出版、ジャーナリズム会議賞受賞、 2012 年)などがある。またリベラシオン紙の記者を長く務め、調査サイト『メディアパール』の創設チームの一員でもある。フランスのインターネットのパイオニアであり、「ウェブ・インデペンダント宣言」(1997)の著者の1人でもある。2018年9 月より、Scam(マルチメディア著作権関連団体)の視聴覚目録委員会委員を務める。