【Review】『これは映画ではない』 text 萩野亮


(c)Jafar Panahi and Mojitaba Mirtahmasb 提供:ムヴィオラ


「日本よ、これが映画だ」

この印象的な惹句を記憶しているかたは多いだろう。むろんハリウッドの超大作『アベンジャーズ』(ジョス・ウィードン監督)のものだ。あるいは、それに便乗した、「ハリウッドよ、これも映画だ」(『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』、本広克行監督)

イランの映画監督であるジャファール・パナヒは、むしろこのように、いう。
「これは映画ではない」

このするどくもどこか滑稽な対比は、プロモーション上のみのことでは決してないだろう。『アベンジャーズ』の惹句は、むろん日本の宣伝会社によるものであるわけだが、映画の都・ハリウッドの、ほとんどアメリカの論理そのままの宗教的でさえある確信を、正確に突く一文であるようにも読める。試みに、これらの宣伝文句の「映画」の語句を、「正義」に換えてみればいい。『アベンジャーズ』が「地球」を救うヒーローものであり、その惹句に追随する『踊る大捜査線』が警察官をヒーローとするフィルムであったことは、おそらく偶然ではない。そしてこの遊戯めいた試みを、このあまりに不遇なイランの映画作家のフィルムにあてはめてみると、どうなるのか。

「これは正義ではない」。
この簡潔な言明こそが、あるいはこの「映画ではない」映画の、云おうとしていることではなかったのか。「反政府的」であるとして、イラン国家から20年間の映画制作を禁じられたジャファール・パナヒは、それでも映画制作への衝動を抑えることができず、「映画」の輪郭を外側からなぞるように、手段を講じ始める。その堂々めぐりの模索から、このフィルムは開始される。すぐさま友人を協力者として自宅に招いた彼は、映画化するはずだった新作の脚本を読みながら自演を始めては、やがてその空虚さに気づいて、やめてしまう。

このフィルムはドキュメンタリーとして撮られているが、ほとんど完璧なまでに「演出」がなされている。その意味では一種の「フェイク・ドキュメンタリー」ともいえる。彼の置かれている状況――政府からの禁止事項や裁判の進捗、家族の不在理由、等々――があますことなく説明される懇切丁寧な会話場面の数かずは、あらかじめ書かれたシナリオのようにも聞こえてくる。あるいは冒頭すぐあとのシーンでは、長男がまわしっぱなしにしていたカメラが彼の寝室をとらえている、などというおよそありえない設定で、映画作家のある朝の起床が「偶然」を装ってとらえられている。

そしてむろん、本編の最初の核をなす、新作脚本のあまりに滑稽な自作自演は、そのむなしさに気づいて沈黙するにいたるまでが、ほとんど完璧なまでに「演じられている」(演じている彼自身を、いわば二重に演じている)。そしてこのフィルム全体が、彼の「自作自演」であることは、おそらく異論の余地がない。

ここでわたくしは、このフィルムが「フェイク」であると告発しようとしているのではない。むしろその逆なのであり、ジャファール・パナヒのパフォーマティブな自作自演は、その「フェイク」の滑稽さゆえに、この映画作家の置かれた状況と、それでもなお映画を希求しつつ叶わないかれの苦渋とを、いっそう切実に証言している。

フェイク・ドキュメンタリーのもつ可能性のひとつに、フェイクとして演じるその身ぶりそのものが事実(=ドキュメント)として定着される、ということがある。つまり、演じている彼自身は、なおカメラの前にたしかに現前しているということだ。そして「虚構」を演じるゆえにこそ、発見される「真実」がある。ジャファール・パナヒは、カメラの前で「苦難の映画作家」を積極的に演じながら、むしろ演じることを通じて、なおいっそう「映画」への希求を熱くしてゆく。その瞬間、『ドッグヴィル』(ラース・フォン・トリアー監督)の何もない舞台装置のようにテープで引かれた、彼の居室でしかない仮設の「セット」は、むしろ完璧なまでのこのフィルムの舞台装置として、機能しはじめる。

(c)Jafar Panahi and Mojitaba Mirtahmasb 提供:ムヴィオラ

興味ぶかいのは、この演技をカメラでとらえ、記録者に専念している友人モジタバ・ミルタマスブの存在である。じつは『これは映画ではない』には、彼の名前も「共同監督」としてクレジットされている。ミルタマスブは、モフセン・マフマルバフらの助監督をつとめ、自身ではドキュメンタリー映画を制作するいまひとりの映画作家である。iPhoneで呼びつけられた彼は、カメラをかまえる「記録者」でありながら、当然パナヒの「演技空間」に引きこまれてもいる。「記録する」というその行為自体が、いわばこの記録者の「演技的なふるまい」でもあるのであり、彼らふたりがどこまでその「演技空間」を緊密に共有していたのかは、わたくしたちにはわからない。わかる必要が、おそらくない。

映画の後半、その日の撮影=演技を終えた夜にテーブルについたミルタマスブが、カメラをまわしながら、パナヒに話しかけ始める。「これは記録しておくべきだ」と。その静かなトーンは、それまでのパナヒのバスター・キートンのような自作自演の大活躍とはまったく異なる声として、わたくしたちに伝えられる。演技を通じてパナヒ自身が映画への思いをなお募らせていったように、この沈着なドキュメンタリストは、撮影=演技を通じて、目の前の映画作家のあまりの不遇、イラン当局のあまりの不正義に対して、「記録」することで抗しようという思いをなおあらたにする。

そうしてパナヒが、目の前にいる友人をiPhoneで撮影し始める。まったく画質もサイズも異なるふたつの映像として、対話するようにフレームに現れる、ふたりの映画作家のポートレイト。モジタバ・ミルタマスブが不遇の友人の存在を記録しようと衝かれたように、ジャファール・パナヒもまた、この「映画ではない」映画の協力者として、目の前の代えがたい友人を「記録」する、その時間はきわめて親密であり、感動的である。

そうして自宅マンションの管理業者の若者とともに「ごみを捨てる」行為をともにした映画作家は、やがて燃え上がる炎を目撃する。その視線でフィルムは幕を閉じる。その先に彼が見ていたもの、それは「これは正義ではない」という、イラン当局への怒りにほかならない。

(c)Jafar Panahi and Mojitaba Mirtahmasb 提供:ムヴィオラ

【作品情報】

『これは映画ではない』 This is not a film / In film Nist
監督:ジャファール・パナヒ、モジタバ・ミルタマスブ|2011年|75分|ペルシャ語
配給|ムヴィオラ 
公式サイト http://www.eigadewanai.com/

名古屋シネマテークで現在公開中。10/27(土)~11/9(金)。
神戸アートビレッジセンター 11/10(土)~11/16(金)
大分シネマ5 11/10(土)~11/16(金)
京都シネマ 12/1(土)~
仙台 桜井薬局セントラルホール 12月1日(土)~
富山 フォルツァ総曲輪 12月2日(日)~7日(金)
東京 下高井戸シネマ 1/27(日)~2/1(金)*予定
沖縄 桜坂劇場 近日

他全国順次公開予定。http://eigadewanai.hateblo.jp/entry/20120724/1343134673

 【執筆者プロフィール】

萩野亮(はぎの・りょう)
本誌編集主幹。映画批評。編著に『ソーシャル・ドキュメンタリー 現代日本を記録する映像たち』(フィルムアート社)、共著に『アジア映画の森 新世紀の映画地図』(作品社)。ほか「キネマ旬報」、「映画芸術」などに寄稿。