【Interview】『サンタクロースをつかまえて』岩淵弘樹監督・山内大堂プロデューサーWインタビュー text 萩野亮

 2012年もいよいよクリスマスシーズン。街角には色とりどりのイルミネーションが、つめたい空気と家路を急ぐ白い息に混じりあう。今年もきっといくつものクリスマス映画が冬休みを飾るでしょうが、そのなかでもneoneoイチオシは、12月8日より公開の『サンタクロースをつかまえて』。監督以下、30前後・独身のスタッフたちがとってもいとおしい映画を届けてくれました(インタビュアーも奇しくも30歳独身)。また掲載にあたり、岩淵監督よりメッセージもいただきました。どうぞあわせてご覧ください。
(取材・構成:萩野亮)

岩淵弘樹監督(右)と山内大堂プロデューサー(左)


 仙台の映画を撮りたい

 ――今回おふたりでインタビューを受けられるのは初めてということですが、わたしはどうしてもおふたりにお聞きしたかったんですね。岩淵さん、山内さん、それぞれの仕事を拝見してきましたけど、そのおふたりの仕事が今回の作品でうまく合流したという印象をもちます。まずこの映画の成り立ちからお聞かせください。

 山内 岩淵さんと僕が会ってからまだ1年くらいしか経っていないんですね。去年の10月か11月に初めてお会いして、まずミュージックビデオを一本撮ったんです。それで面白いなと思って、何かいっしょにやりたいなと考えていたんです。それで12月くらいに僕の事務所に岩淵さんが遊びに来てくれたときに、「何かいっしょにやりましょうよ」という話をもちかけたんです。そのときはまだ具体的な企画は何もなかったんですが、お互い近々に空いている日程を確認し合ったら、それがたまたまクリスマスだったんです(笑)。それで「じゃあクリスマスを前提に一本企画を考えてきます」と岩淵さんがいったん持ち帰って、それから一週間くらいあとにはもう今回の映画の企画がほぼできていたんです。

――ふたりともクリスマスが空いているというのは寂しいですね(笑)。岩淵さんが地震の直後に単独で撮影されていた素材もこの映画にも使われていますが、そのときから何か作品にしようということは考えていたのですか。

 岩淵 はい。3月13日から東京の友人なんかの撮影を始めていたんです。ふだんから友人のライブの撮影をよくしていたので、震災の直後に撮影することのデリカシーのなさというか、そういう雰囲気は感じていたんですが、僕は以前と同じようにライブを撮るということが、カメラをまわす理由になっていたと思います。いっぽうで実家の仙台が被災して、母親の車が流されたりということを聞いていたので、とにかく心配で、親の顔を見るまで安心ができなくて。それでカメラを持って実家に帰りつつ、仙台の様子を撮影しました。

ただ、3月4月5月と仙台や東京の様子を撮って、5月末が山形国際ドキュメンタリー映画祭の応募〆切だったので、そこに合わせて一本の作品にまとめられたらと思っていたんです。いま思い返すと、荒編の段階で変なタイトルをつけて書類の応募だけはしていたんです。それで応募だけを先に済ませることができたんですが、6月になって「作品まだですか」と言われてもまだできず、「ちょっと待ってください、ちょっと待ってください」でずるずると作品ができないまま引きずっていたところ、映画祭の事務局から丁寧に「ご応募いただいた作品はアジア千波万波での上映の機会を設けることが出来ませんでした」と通知がきました。作品は送っていないんですが、落選通知だけは受け取りました。それで12月に「何かやりましょう」といわれたときに、編集が途絶えていた素材を見せたら「いいね」といってくれて。だから今回の作品の元になるイメージはあの3月の映像にありましたね。

 ――地震直後に、東京で「ライブにかこつけて撮影していた」とおっしゃいましたが、岩淵さんのなかでも葛藤のようなものがあったのですか。

岩淵 バンド自体がライブを自粛したり、ライブハウスが中止したりという雰囲気のなか、「電気を使えない」という問題も出てきたので、友人のバンドもアコースティックライブにしたり、いままでと形態を変えていました。そんな彼らを観ながら「こんな状況でなんで演奏が出来るんだろう?」と思っていました。そこで、ランタンパレードの清水民尋さんにその疑問をぶつけてみたんです。そしたら「音楽は人と楽しみたいからやるんじゃないかな」と答えが返ってきました。その明解さに僕は二の句がつなげませんでした。

じゃあお前はなんでカメラを回してんの?なんで映画を作ってるの?という自問をしながら、被災した東京や地元の仙台を撮影していました。震災が起きて、これから生活そのものがどうなるかわからず、さらに自分がカメラを回す意味もわからず、目の前の出来事を記録することだけに追われていたと思います。

 ――5月に山形映画祭に応募されてから、なかなか作品が完成しなかったというのは、どういうところで悩まれていたのでしょうか。

岩淵 5月に松江哲明監督の『トーキョードリフター』(2011)に参加したんですが、そのときの松江さんの撮影のコンセプトは明快で、「電気が消えている東京で前野健太さんが歌う」。僕は撮影に参加して、映画を作る面白さ、非常時でも何かを作ることの力強さをすごく感じたんです。ただ、できあがった作品の暗い東京を見て、「かなしい」とか「泣ける」とかいう感想をいろんな方から聞いたんですけど、僕は全然そうは思えなくて。「自分は東京に愛着がないんだな」と気づいた。

東京で生活しながら、身の回りの出来事を撮りつづけるというのが自分のスタンスだったんですが、東京を撮っていても仕方がないというか、そのなかから自分がつかめるもの、気持ちが見えてこないというか。とにかく実家に帰りたいと思っていたんです。そういうことで今回の『サンタクロースをつかまえて』は仙台の映画にしようと思いました。

――山内さんはこの作品では撮影に加え、プロデューサーもされていますが、これはどういうところから?

 山内 そんなに最初からプロデューサープロデューサーしていたわけではなくて(笑)、「いっしょにやりましょう」といって、普段はカメラマンなので、カメラマンとして関わるというところからスタートして、なんとなくだれかまとめ役がいたほうがスムーズなんじゃないかと思って、プロデューサーという肩書きもつけさせてもらっているというくらいですね。

もともと岩淵さんの地元が仙台というのは知っていましたし、山形映画祭とのやりとりも知っていて、地元に対する思いというのがすごくあるんだなというのは感じていたんですが、それとはまた別のベクトルで、岩淵さん自身がだれかと共同作業で映画を作りたいという、そういう話を聞いていたので、そこで手を取り合って共同でいい作品にしていきたいなと思ったんです。

岩淵 僕はひとりでやるのにもう限界を感じていたというか、映像を撮影して編集して、という作業の過程で、なるべく客観的に判断してつないでいくということはずっと意識してやってきたんですけど、その「客観した視線」というものに確信がもてなかったというか。だからカメラマンなのかプロデューサーなのかよくわからないけど、とにかくだれかもうひとり見てもらう人が必要だったんですね。

『ただいま それぞれの居場所』(大宮浩一監督、2010)とかを見ていてこのカメラマンの人いいなあと思っていたんですけど、「山内大堂」という名前はごつくてなんか恐くて、うかつには声をかけられないなと思って(笑)。何か仕事にかこつけないと頼めないと思ったんですよ。さっきの話にあったミュージックビデオは、安いですけど製作費がちょっとは出たので、これなら頼めると思って初めて頼んだんです。

 ――山内さんは『遭難フリーター』(2007)など、それまでの岩淵さんの作品はご覧になっていたんですか。

山内 見ていなかったんですよ。ただ去年の山形国際ドキュメンタリー映画祭のデイリーレポートの動画を見ていて、岩淵さんがカメラを持って映画祭の一日を撮影して、その日のうちに編集した10分にまとめたものなんですけど、それがすっごい面白かったんですよ。ヤマガタに応募していながら作品テープを結局渡せなかった岩淵さんの心境が前面に出ていて。だからそこにすごい思いがあるのはわかっていましたし、ミュージックビデオの仕事をいっしょにやったときも面白いなと思って。今回の企画が上がってきたときも「ああ、こう来たんだ」って思いましたね。

―—クリスマスに仙台の「光のページェント」を撮るということは最初から念頭にあったのだと思いますが、そもそも昨年の開催が決まったのはいつごろだったんですか。

岩淵 開催自体は2011年の5月ころにはもう決まっていたんですよ。ただページェントに使うLED電球が津波で流されたというニュースだけを僕は聞いていて、企画を考え始めた時点では開催されるかどうかまでは知らなかったんです。それで「あれ、今年どうなったのかな」と思って調べたら開催するとわかって、そこからイメージを広げていきました。クリスマスの光のページェントがあって、町の人が同じ時間をどう過ごしているんだろう、というような。

それでこの話をどう終わらせようかというときに、僕はもともとYouTubeで子どもの寝顔の動画とかを見るのが好きだったんですよ。立ち寝の映像とか(笑)。そういうのがほんと好きで、それでクリスマスのそういう動画があるんじゃないかなと思って。

山内 岩淵さんから地元の話を撮りたいという企画をもらったときに、クリスマスの要素として何があるんだろうって考えていたんですね。そしたらYouTubeに、プレゼントを開けてよろこぶ子供たちの動画というのがすごいあったんですね。それを僕ら独身の男たちが見て、すごいほっこりしたんですよね(笑)。

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『サンタクロースをつかまえて』©ballooner


  『無常素描』と『ライブテープ、二年後』を経て

――この映画で感心したのは、クリスマス映画としてちゃんとキリスト教の教会を撮られているということなんですね。おばさんがクリスチャンだということでそういう流れに自然になったんだと思いますが、もともと仙台はクリスチャンの多い地域だと聞いたことがあります。

岩淵 多いかどうかはわからないんですが、隠れキリシタンのお墓は川っぺりにあるんですよ。それは地元の人だったら大体知っているような名所というか、そういうところにはなっていて。キリスト教系の高校や大学ももちろんいろいろありますけど、だからといってクリスチャンが多いというわけでもなくて、僕も教会でミサをやっているのをそのとき初めて見ました。

――おばさんのシーンについてですが、あのときのカメラが、完全に大宮監督の一連の作品を経た山内さんのカメラになっていると感じました。

山内 具体的に「ここがこう役立った」というのはないんですけど、技法的にも現場を経て得たものを通してしか次の作品には関わっていないというのはずっとあるので、もちろんかなり影響はありましたね。

――おばあちゃんの撮り方はもう完全に把握されていますね(笑)。

山内 そうですね。ここでこういう表情になるんだろうなとか、別に常にそういうことを考えているわけではないですけど(笑)。僕はおばあちゃんっ子でも何でもなくて、とくに接点がなかったんですけど、けっこうそういうお年寄りの方と接点のない方って多いと思うんです。お年寄りの方とどう話していいかわからない。そういうのが、単純に慣れてくる。初対面だとうまくカメラをまわすのが難しいんですけど、お年寄りの方と何度か接点をもってくると、そのカメラとの距離感というのが自分なりにだんだんわかってくる。そういうことを踏まえてのあのシーンだったのかもしれません。

――山内さんの一連の撮影作品を見ていると、『無常素描』(大宮浩一監督、2011)から大きく変わったように思うんですね。あの作品から一眼レフのカメラを使われるようになったということもあるとは思いますが、それだけでなく、やはり被災地の茫然とするような状況を目の前にして、ということが大きく関わっているように感じます。

山内 『無常素描』のときは、本当に大宮さんに連れ出されたというか、同じ3月20日に岩淵さんが仙台に行かれているときに、僕は大宮さんと岩手県の宮古に行っていて、岩淵さんはそのとき家族を撮っていたわけですけど、僕と大宮さんはけっきょく何も撮れずにその日のうちに帰ってきた。岩淵さんがその映像をまとめてヤマガタに出そうと試行錯誤しているときに、僕も大宮さんと3月20日に何も撮れなかったしこりを何とかしなきゃと思いながら、ゴールデンウィークにふたたび被災地を訪れて模索したなかでできた映画が『無常素描』だったんです。

被災地をまさに「素描」というか、「スケッチ」で撮りつづけるなかで、映像って言葉にできないものでしか表現できないんだけど、目の前にあるのは言葉にできないものでしかなかった。それをどう真正面から撮るかというのはすごく悩んだ作品ではあります。それから、「ここがこうなるからこう撮ろう」というのじゃなくて、目の前にあるものをまずどう正面から見たらいいのか、ということを考えるようになったのかもしれませんね。

――仙台の映像も出てきますが、岩淵さんは『無常素描』にどういう印象をお持ちですか。

岩淵 荒浜は僕の育った場所なので、「ああここか」というのは思ったんですけど、僕はあの映画を見終わったあとにすごく言葉がほしくなったんですね。ふだん映画のパンフレットとか買わないんですけど、買って。とにかくこの作品については僕は言葉がほしくなったんです。玄侑宗久さんの言葉は入っているんだけど、制作者の人たちはそれを撮ることしかできなかったんだなと。撮影から上映までのあのスピードも、僕はあの作品に関しては大きいのかなと思っていて、6月にもう公開しちゃうという。あの作品に関しては、報道との違いというのがわからなかったんです。というか、それ以降の震災の映画も、報道と何が違うのかわからなかったですね。報道よりも劣っているというくらいに思っているんで。だから『無常素描』の最後の東京に帰るシーンも含めて「黙っている」ところがよかったというか、「これしかできないよな」という、そこの誠実さは感じました。

――直接震災にふれた作品ではありませんが、岩淵さんの作られた作品で『ライブテープ、二年後』(2011)があります。『ライブテープ』(松江哲明監督、2009)のDVDに収録されているメイキング・ドキュメンタリーですが、あの作品も、2009年から2011年の2年の時間軸を描いており、そのあいだには震災が大きく挟まれています。

岩淵 そうなんです。あれの撮影が2011年の4月か5月だったんですよね。あのなかで漫画家の大橋裕之さんに高円寺でインタビューしているんですが、その後ろで「素人の乱」が反原発デモをやっているんですね。直接はあまり関係ないんですが、震災後の何かが微妙に映っているとは思います。だから『ライブテープ、2年後』を作りながら、並行して3月と4月に撮った映像をまとめなきゃっていうのをやっていたんですけど、『ライブテープ、二年後』のほうは松江さんがいろいろ意見を言ってくれて。あのラストに関しては4,5回くらい作りかえたと思うんですけど、『トーキョードリフター』も含め松江さんの現場に参加しながら、「自分のことをやれてない、自分の撮ったものをまとめられていない」というしこりはずっとありましたね。

もう一つ言うと、『ライブテープ、二年後』の撮影があり、『トーキョードリフター』に制作として参加し、間髪入れずに土屋豊監督の『タリウム少女の毒殺日記』の制作に参加しました。事務所に呼ばれて、『タリウム少女〜』の台本を読ませてもらったんですが、映画に出てくる遺伝子のことや、ラエリアンのことは土屋さんが5年以上前から居酒屋とかで話していたことだったので、それらの要素が複合的に台本にまとまっている様は驚きました。僕はずーっと実家のことを考えていたので、全然震災と関係ない映画を作ろうとしている現場に参加したことも、映画作りの面白さを体験するいい機会でした。

そして『タリウム少女〜』が終わって一ヶ月経たない内に『サンタクロースをつかまえて』の企画がはじまったと思います。

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yumbo ©ballooner


 
2台のカメラとそのゆくえ

――岩淵さんの作品で圧倒的に面白いのが、「相手の根本を突き崩すような質問」だと思うんですね。『ライブテープ、二年後』の前野健太さんへのインタビュー中の「歌ってだれのものなんですか?」という質問だったり、今回の作品の「キリスト教ってなんで歌が多いんですか?」という質問だったり。あれはふいに浮かんでくるものなんですか。

岩淵 僕、インタビュー中って緊張してるんですよ、ものすごく。なんで頭がほとんど動いてないんです(笑)。質問してても山内さんのほうチラチラ見るし、これでいいのかなって。終わった後に「じゃあ足りないところお願いします」って山内さんに投げたりとか(笑)。引いて見てくれているんで、足りない部分を補填する質問をしてくれるので。それは撮影しながら気づきましたね。

山内 すごく面白かったのが、現場にはもうひとり録音で辻井(潔)さんと全部で3人いたんですけど、岩淵さんの高校の同級生の太郎さんの職場から、車でいっしょにお宅までおじゃまするというシーンで、岩淵さんが助手席に乗って、僕と辻井さんは後ろに乗って撮影していたんです。あの車内の会話がすっごい面白かったんですよ。岩淵さんは狙ってそういう質問をしているんだろうと思ってずっと撮っていたら、途中で止めて「これちょっと全然面白くないんで」って言い出して(笑)。岩淵さん自身は質問を意識的にしてるんじゃないんだなとわかって、それはすごい面白かったですね。こんなに面白いのに、それに気づいていないで単純に質問しているというその素直さというか。それを意識的にやっていたら、たぶん画にも現れていたんだろうと思うんです。それがないのが岩淵さんのチャーミングなところだなと。

――山内さんのカメラも意識的にそういう岩淵さんをフレームに収めていますね。

山内 岩淵さんがまず質問して答えてくれる人がいる、というところからしか物語が進まないと思いましたね。

岩淵 そもそも撮影に入る前に、僕も山内さんもカメラを持って2台体制で行こうと。僕が何か対象に対してカメラを向けて、それを山内さんのもう1台で俯瞰的に撮れるように配置していきましょう、という感じでスタートしていたんですが、最初の教会のところは僕もまわしているんですけど、その次くらいから僕がまわす意味があんまりないなと思って、やめたんです(笑)。

僕が『遭難フリーター』でセルフドキュメンタリーをやったあとから、1台の主観のカメラだけで行くのはもういやだなと思っていて、そのあとからカメラを2台持ったりとか、いろいろ実験をしていたんですよ。ただ2台カメラを持っても集中力が散漫になるだけでわけわかんなくなってきて(笑)。成立しなくなってきたんで、もう相手にカメラを渡しちゃうというパターンを作ったんです。

山内 ああ、それで『サマーセール』(2012)も。

岩淵 それもそうだし、他の作品でも、むしろカメラを渡して俺を撮らせるとかいう方法論でやっていたんです。今回も、途中からは僕はカメラをまわさなくなりましたけど、「自分でまわさなくてもいいんだ」というのは初めて気づけましたね。

それと山内さんに撮影をお願いしたい大きな理由は、光のページェントをきれいに撮ってほしかったんです。僕は技術も機材も足りないから、とにかくきれいに撮ってください、ということだけはお願いしていたと思います。

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『サンタクロースをつかまえて』©ballooner

僕らがサンタになる

――トシ子おばさんのシーンで、岩淵さんがサンタ帽をかぶっていましたけど、あれはどこまで「狙って」いるんでしょうか。

岩淵 というか僕は、企画会議のときからもう人数分のサンタ帽を買ってきて、「みなさんこれに関わる際はかぶってください」と言って、打ち合わせのときから俺はかぶっていたんですけどふたりともかぶらないんですよ、ずっと(笑)。「あれ、この人たちいつかぶるんだろう」って思って。撮影が始まったときも、一応持ってきてはいたんですけど、なかなかかぶらなくて。三人全員そろってかぶったのは、最後の風船のところですね。辻井さんが全然かぶらないから。

山内 辻井さん全然かぶらなかったね。

――あの、ごめんなさい、なんでそこまでしてサンタ帽をかぶったんでしょうか。

岩淵 雰囲気というか。僕らがちゃんとクリスマスを楽しまなきゃというか、そういう気持ちで。

山内 30前後の独身男が集まってクリスマスの光景を見たときに、岩淵さんと最初に話したのが、「ほんとはもうサンタクロースになってなきゃいけない年だよね」って。そういう立ち位置みたいなものがまずあって、今回は僕らがサンタになりたい映画でもあるんだというところがあったんですよ。

——おふたりのなかで、クリスマスの記憶で印象に残っていることとかありますか。

岩淵 僕はずっとクリスマスの華やいだのを、飽き飽きしながら楽しむというか、自分で作らなきゃという気持ちがあって。大学の22とか23のときに、『くまのプーさん』の「クリストファー・ロビンを探せ」という話があるんですけど、それがすごくいい話で、それを家で流しながら、友だちを呼んでケーキを作って、家の中を折り紙でいっぱい飾りつけしてパーティーをしようって。男2人呼んで、3人でケーキを食ってたんですけど、すぐに飽きて。結局「飲みに行こうぜ」ってなって近所のスナックでおねえちゃんと飲んでたら、かあちゃんから「素敵!」ってメールが来た。かあちゃんからすると、仕事から帰ってきて、扉を開けたら「メリークリスマス」の飾りつけが残っていたから、思わぬところでだれかがよろこんでくれたというのはすごくいい思い出だなと(笑)。

――今回の作品でも出てきますけど、お母さんがほんとうに素敵な方ですね。

山内
 3月のあの映像が、本編で使われているほぼそのままの状態で編集されてあって、それを打ち合わせのときに見たときに、とにかくお母さんがすごく魅力的で、とくに携帯電話でメールをしているシーンが本当に泣けるんで、この映像を映画にするためにもこれをやろうというくらいの気持ちだったんです。あれを見て、とにかく現場に行ってお母さんに会いたかったですね。

 ――今回は編集もおふたりでされています。時間軸が行ったり来たりしていて、かなり悩まれたんじゃないかと思うのですが。

岩淵 最初は3月20日の映像から始まる構成もあって、僕のいままでやってきた編集の癖で、そこに自分のナレーションで投げかけるというようなことをしていたときに、こういうのはナシのほうがいいんじゃないかという感じで、こっち側の言葉をなるべく削っていって、見えるかたちにしていった。クリスマスの余韻を感じさせるためにはどう構成したらいいかというなかで、3月の映像をどこに持ってくるかというのが一番悩みどころだったんです。

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yumbo©ballooner

音楽を伝える  

――岩淵さんの作品で魅力なのは選曲ですね。それが今回も前面に出てきていると感じます。麓健一さんの『メリークリスマス』という楽曲は、麓さんの持ち歌だったんですか。

岩淵 そうですね。ただ音源化はされていなくて、ライブでたまに歌うというくらいで。この映画の前にひとりで仙台にロケハンに行っていたんですけど、そのときに僕が撮影した麓さんのライブの映像から抜いて、クリスマスソングをいくつか入れて持ち歩いていたそのなかのひとつだったと思うんですよ。それで教会を撮影することに決めて生誕劇の話を聞いたら、『メリークリスマス』がまさにそのことを歌ってる曲だと思って。それを聞きながら光のページェントの下を歩いていたらとても気分がよかったので、これはぜひ使わせてもらいたいと思いました。

――yumboさんのライブ映像は、地震直後のYouTubeのものも出てきますが、バンドの存在はそれ以前からご存知だったんですか。

岩淵 けっこう前から知っていて好きなバンドだったんですけど、本編でも使っている、3月20日に「火星の庭」で『鬼火』を演奏するという映像もだいぶ前から見ていて。僕はyumboと仙台とをいつもセットにして考えていて、仙台で撮るというときに、すぐにyumboというのが頭に結びついてきたんです。まだ面識はなかったので、メンバーの澁谷(浩次)さんに電話でお伺いを立てて、インタビューの撮影をOKしてもらえた。演奏シーンも別途撮りたいと思っていたら、たまたま12月25日にライブがあって、それをそのまま撮影させてもらいました。

—―はっぴいえんどの『春よ来い』はラジオから流れてきたものをそのまま使われていますが、あの曲を選択されたのは。

岩淵 あのシーンを撮った3月21日にNHKで「大瀧詠一ざんまい」というのが流れていて、それを車内で家族と聞いていて、まさにあのタイミングで『春よ来い』が流れていたというのと、もちろんいろんな曲がかかっていましたけど、あの曲が一番何かぐっときたというか。昔の歌なんですけど、故郷を離れた若者の歌というのが、何かそのときの自分の心境ともろに重なっていて、映画のことはそのときまったく考えていなかったんですけど、ずっと印象に残っていたんです。

山内 あの曲の「家を飛び出さなかったら今年のお正月もいっしょに家族とこたつ入って団欒してた」という歌詞が、そのまま「遭難フリーター」として家を飛び出した岩淵さんの――。

岩淵 「遭難フリーター」として家を飛び出したわけじゃないよ(笑)。

山内 (笑)。とにかく東京に出てきて、震災の場に立ち会えなかった岩淵さんのそのときの気持ちにすごくシンクロしているな、と編集しながらずっと思っていました。

岩淵 音楽に関しては、山内さんや辻井さんは単純に知らない曲だったりするわけじゃないですか。だからちゃんと僕が説明しなきゃいけないというか、説得力のある曲じゃないとわかってもらえないと思ったので、そこを編集作業のなかで感じてもらえたというのは、伝わる音楽なんだなという実感が深まりましたね。

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『サンタクロースをつかまえて』©ballooner


ホームビデオが好きなんです

――終盤の、いろんな家庭のクリスマスの子どもたちの映像は、冒頭にも話が出ましたけど、やはりYouTubeから発想されたのですか。

山内 そうですね。クリスマスというのは子どもにとって絶対にいい思い出の日じゃないですか。「子どもにとってのクリスマス」というのは絶対にほしいなという話をしていて、そこから具体的に撮れるものとして、太郎さんに子どもがふたりいるというので、その寝顔を撮ってもらおうと。そこからからいくつかそういう寝顔を撮ったらいいんじゃないかというところに落ち着いていきました。

岩淵 僕はもともとホームビデオが好きで、昔の「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の視聴者投稿コーナーとか、「邦子と徹のあんたが主役」とか、ああいう視聴者投稿の映像がずっと好きで、「松本清張」というタイトルで、子どもがガラスにくちびるを押しつけているものがあって。それがいまだにおぼえているくらいトラウマになっていて(笑)。「なんだこれは」って。それはだからプロが撮った映像じゃないんです。それを「松本清張」という親のセンスもすごいし(笑)。あれはけっこう衝撃的で。映画の中にある、サンタからのクリスマスプレゼントを開ける子供たちの表情は、親御さんが撮ったらパンチのあるものが撮れるだろうと思っていたら、本当に全部よかった。

――ラストはふんわりした空撮で終わりますけど、あれはバルーンにカメラをつけられたそうですね。

山内 200グラムくらいの軽いちっちゃいカメラがあって、それを凧揚げの凧につけて飛ばすとかいうような映像はけっこう流行ってはいたんです。最後、サンタの目線じゃないですけど、結局この作品は岩淵さんの3月20日の個人的な映像から企画自体は始まっていますけど、そうじゃなくて、仙台の町に生きる人々が主人公の映画だと思うんで、それを最後見下ろしたいというのを岩淵さんから言われて。

岩淵 これは山内さんにも言ってなかったんですけど、『アンダーグラウンド』(エミール・クストリッツァ監督、95)のラストの、地面がバゴーンと割れて離れていくというエンディングの、あのイメージだったんです。全然違うんですけど(笑)。

山内 初めて知りましたよ(笑)。

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『サンタクロースをつかまえて』©ballooner

「あとはまかせた」

――山内さんは今回撮影だけでなく、プロデューサーとしても作品に関わられたわけですが、何かこれまでとは違う発見のようなものはあったのでしょうか。

山内 そんなにいままでと違うことをやっているという感じはないんです。監督やスタッフとのなかで自分がどういう立ち位置でいるかじゃなくて、ドキュメンタリーの場合はとくにそうですけど、目の前にあることに対して自分がどう向き合うかということだと思うんですね。それが今回は撮影だけじゃなく、対象と向き合うなかで編集やプロデュースもやる必然性が生じてきた、そういうことなんだと思います。

――大宮監督ももともとはプロデューサーで、自分が監督をやっていても常にそういう目をもっていますね。そのあたりは影響を受けられたんじゃないですか。

山内 それはだいぶあると思いますね。やっぱり大宮さんも現場へ行くと、「こう撮ってほしい」とかいうのはないんですよ。「じゃあまかせた」という感じで、その「まかせた」のなかに、ここは自由にやらせたほうが対象と正面から向き合った映像が撮れるという、そういう判断があるんだと思うんですね。

 ――岩淵さんは今回スタッフと組んでやってみていかがでしたか。

岩淵 映画作りって面白いなあ、と新鮮な気持ちでやれたので、それが画面に出ていればいいなと思うんですけど、ただ僕はちょっと依存症的なところがあって、山内さんに「次もよろしくお願いしますよー」みたいな感じで言っちゃったら、「何か企画を考えてください」と言われて(笑)。自分で惹きつける何かをちゃんと考えないといけないんだなと思って、それはちょっと反省しています(笑)。

このあとまたひとりでカメラを持ってやったほうがいいのか、場面場面で「よろしくお願いしまーす」と言ったほうがいいのか、わからなくて。今回の映画で、「(3月20日の)家族の場面が一番よかった」って言われると何かくやしいんですよ。あれって事故的に撮れたものが多くて、他の部分は自分たちで計算してやったところだから。もっと計算して力強いものが撮れるようになりたいなと思います。

 ――今後もおふたりで協同されたりとかは。

山内 たぶんあると思いますね。ふたりとも同じ立ち位置でいるのがすごい新鮮で面白かったんですよね。同じ30で、同じ学年なんですけど、結婚も就職もできずに。

岩淵 結婚は関係ないでしょ(笑)。今後は山内さんをびびらすようなことをやって、雪山に放り出して「あとはまかせた」と言えるようになりたいですね(笑)。今回は山内さんも辻井さんもそうだし、山本タカアキさんにも音に関しては相当やってもらった。音楽の感じ方ってやっぱり主観的なものだから、わかんない人にはわかんないものではあるんだけど、僕らが最初に持っていた音のイメージをすごく広げてくれた。今回はそういうスタッフの力が映画を支えてくれたと思っています。(了)

 岩淵弘樹監督よりメッセージ

萩野さんが構成してくれたこのインタビュー原稿の加筆・修正の連絡がきたのが2012年12月7日で、この日、17時40分頃に東北地方で大きな地震がありました。僕は東京で、職場のテレビでその報道を見ていました。「津波警報が出ました! みなさん高台に避難してください! 東日本大震災を思い出して下さい! 高台に避難してください!」とアナウンサーは切迫した声で避難を呼びかけていました。僕はすごく胸が苦しくなり、仕事の手を止めてテレビをじっと見ていました。そして思い出しました。

2011年の震災後、幾度も続く余震の報道を見ながら、自分は東京にいていいんだろうか? 仙台を見殺しにしてるんじゃないか?といつも思っていました。家族や友人たちが今頃、どんな思いでいるのかわからないことがつらくて仕方がなかったからです。

今日の大きな地震があって、また同じことを思って、これからもまたこんなことを思わなければいけないのかと思うと、本当に気が滅入ります。誰もがそうだと思います。

また津波がくるのか…・・・仕事が終わって携帯電話で逐一情報を調べるため、twitterを見ました。すると、『サンタロースをつかまえて』のアカウントが津波の注意を呼びかけていました。僕はインターネットに消極的で、twitterの書き込みは全て山内さんに任せていました。

「宮城県に津波警報。。。みなさんが無事でありますように。」
「宮城県岩手県等、東北の満潮の時間は21時前後です! 予想時刻を過ぎても油断しないでっ!」 
「津波警報・津波注意報はすべて解除になりました! よかったっ! ほんとによかった!」

映画の宣伝アカウントが、緊急の注意を呼びかけている様子に、僕は驚きました。そして、その情報が実際に東北に住んでいる人への情報提供につながっていれば、すごいことだと思いました。この場を借りて言うのも変な話だけど、山内さんに感謝したいです。

その晩、急いで新幹線に乗って実家に帰りました。ちょっとした用事があったのですが、その用事よりも家族の無事をこの目で見たいと思っていました。駅に迎えに来てくれた母親は「もう嫌だ」と言っていました。母親の働く仙台新港は、津波の被害で一度は壊滅的な状態になった地域です。駐車場に停めていた母の車は津波で流されました。

「去年の津波で松林が整備されたから、また大きな津波がきたら今度は命を取られるかもしれない」と母親は言いました。「でも来年で定年だから、あと一年働けば職場からは離れられる」と続けて言いました。まだ震災は終わっていないと感じる出来事であると同時に、この場所で生活をすることを逃れられない地元の人たちのため息を感じました。

今日、12月8日から『サンタクロースをつかまえて』の東京での上映がはじまります。僕はサンタ帽をかぶって、舞台挨拶をします。僕はこの映画で、震災後も綿々と続く生活の小さな豊かさを歓迎したいと思っています。ですが、それはまた一瞬で崩れてしまうかもしれない、不安定な状況であることを無視出来ないとも思っています。

どうか、彼らの穏やかに揺れる灯を消さないで下さい。ただただ、そう願っています。

岩淵弘樹 2012年12月8日・早朝 仙台の実家にて

【作品情報】

『サンタクロースをつかまえて』 Chasing Santa Claus
(2012/日本/HD/80min) 

企画・製作:ballooner 監督:岩淵弘樹 プロデューサー:山内大堂
撮影:山内大堂、岩淵弘樹 録音:辻井潔、沼倉光乃 編集:山内大堂、岩淵弘樹 
整音:山本タカアキ 宣伝・配給:東風

★12/8(土)より渋谷ユーロスペースにて3週間限定クリスマスレイトショー。
ほか全国順次公開。(フォーラム仙台:12/22〜28上映)

公式サイト:http://chasing-santa.com/ 

【プロフィール】

岩淵弘樹 いわぶち・ひろき

1983年宮城県仙台市生まれ。映画監督、介護職員。東北芸術工科大学映像コース在学中に制作した『いのちについて』(2003)が「ショートショートフィルムフェスティバルアジア2004」に入選。 2005年の卒業後、自身の埼玉県の工場で派遣社員としての自身の生活を記録した『遭難フリーター』(2007)が「山形国際ドキュメンタリー映画祭2007 ニュードックスジャパン」「第32回香港国際映画祭」「第16回レインダンス映画祭」に招待され、2009年に一般公開された。第22回東京国際映画祭「日本映画・ある視点部門」作品賞受賞の『ライブテープ』(2009・松江哲明監督)のメイキングドキュメンタリー『ライブテープ、二年後』(2011)の撮影・編集を手掛ける。若手監督とミュージシャンが集った映画×音楽のオムニバス上映「MOOSIC LAB 2012」にてシンガーソングライター・大森靖子と作品完成を目指す自身の関係を綴った『サマーセール』(2012)を発表。現在は都内で介護福祉の職につきながら、豊田道倫や前野健太などのPVの撮影やライブ映像の制作を行う。

山内大堂 やまうち・だいどう

1982年神奈川県生まれ。日本映画学校映像ジャーナルゼミ在学中からカメラマンとしてドキュメンタリー映画制作に携わる。主な撮影作品に『アヒルの子』(2005・小野さやか監督)、『ただいま それぞれの居場所』(10・大宮浩一監督)、『無常素描』(2011・大宮浩一監督)、『季節、めぐり それぞれの居場所』(2012・大宮浩一監督)『ドコ二モイケナイ』(2012・島田隆一監督)。現在、ドキュメンタリー映画のみならず、TVドラマやPVにも参加、活動の幅を広げている。