大津幸四郎はドキュメンタリー界を代表するカメラマンである。岩波映画製作所の助手時代を経て、映画監督の小川紳介と組んで『圧殺の森』や『日本解放戦線 三里塚の夏』といった不朽の政治映画を撮り、土本典昭の「水俣シリーズ」の撮影監督をつとめた。その後も黒木和雄、アレクサンドル・ソクーロフ、佐藤真、セミョーン・アラノヴィッチといった名匠と共に、劇映画からドキュメンタリーまで先鋭的な作品を世に送りだしている。今回は「小川紳介トライアングル」の特集のために、盟友・小川紳介との関係について縦横無尽に語って頂いた。(聞き手/写真:金子遊)
岩波映画の時代
――大津さんは1958年に大学を卒業して、当初はジャーナリズムやマスコミ関係を志望していたそうですね。それが岩波書店の最終試験に残って、岩波映画製作所に入社することになった。岩波映画では最初から撮影部に配属されたのでしょうか。助手時代についてはお聞かせください。
大津 最初は、演出部の見習いでした。半年程、黒木和雄さんに、面倒見て貰いました。黒木さんと知り合わなければ、私その後の映画人生は全く別のものとなっていたでしょう。ざん新な経験でした。それから58年9月に、撮影部へ転属になった。そして一、二の現場に送り込まれましたが、最悪の撮影助手のひとりと目されました。岩波映画ですでに監督だった黒木和雄さんが、58年の秋に東京電力の横須賀火力発電所のPR映画『海壁』(59)を撮ったときに、サードの撮影助手として現場に入れてもらいました。60年には、黒木和雄さんが『海壁』の続編『ルポルタージュ 炎』(60)の現場スタッフに拾われました。撮影監督が小村静夫、チーフ助手が鈴木達夫でした。この頃小川紳介と出会った。『日本の郵便』(59)という郵政省のPR映画でした。現場は小川が助監督で、僕が撮影助手。16ミリフィルムの小規模な映画なので、監督、カメラマン、製作進行に助手2人の総勢5人くらいでした。撮影期間は3、4ヶ月だったでしょうか。
これが小川紳介との岩波映画の出合いだったのでしょう。小川は山本薩夫の現場を手伝ったことがあるといってましたが、実際は数日の応援助監督をやっただけだったようです。僕より1歳年下なので23、4歳でした。年齢的に、自分を実際より大きくみせて売り込むいう面もあったのでしょう。彼にはその頃から虚言癖がありましたね。僕も小川も鬱積したものを抱えていることが、お互いにわかりました。それで2人で酒を飲みながら、撮影が終わると、ありふれたPR映画の中身から絵コンテの批判までよく話をしました。僕は学生時代からシュルレアリスムに興味を持っており、PR映画の撮り方がつまらなく思えた。黒木和雄とつき合っていたこともあり、余計にそう思えたのかもしれない。59年の年末に、僕と小川で自分たちのバージョンの『日本の郵便』の脚本を書き、ガリ版で印刷して配りました。この共同台本を一緒につくったのが、小川紳介との深いつき合いの始まりです。彼は映画現場の経験はあまりなかったが、発想がおもしろいし、人を惹きつける話術の天才でした。
――岩波映画の時代に、議論の場としての研究会や「青の会」ができた話は有名です。大津さんのほかにも黒木和雄、土本典昭、岩佐寿弥、東陽一、小川紳介、鈴木達夫、奥村祐冶、久保田幸雄、田村正毅といった、その後の記録映画の世界を代表する映画人がそこに参加していた。これはどのような場所で、どのように行われていたのでしょうか。
大津 59年には60年安保の闘争が盛り上がっていて、進歩的な岩波映画製作所としては、デモがあれば会社のシャッターを下ろし、みんなで出かけていくという状態でした。「青の会」の前身である岩波映画の研究会がはじまったのは、安保の前の59年の秋頃だったと思います。外部から良いドキュメンタリー映画のフィルムを借りてきて、みんなでそれを見て議論をするという集まりでした。小川紳介は国学院の映画研究会出身で、学生時代に上映会を組織していたらしく、このときも彼がプログラムを組み、フィルムを借りてくる面で活躍しました。アラン・レネの『夜と霧』(55)、亀井文夫の『小林一茶』(41)や『生きていてよかった』(56)などの作品を見ました。会社の映写室も借りられた。
60年安保の後で、それが「青の会」になっていった。フランスのヌーベルバーグの映画が劇場公開されて、大島渚らの松竹ヌーベルバーグも話題になっていた時期です。自分たちにはPR映画しか作れないので、どうせならすごいPR映画を作るチャンスしかないかもしれないが、すごく面白いPR映画を作ってやろうという気運が盛り上がっていました。それが黒木和雄の『海壁』や『ルポルタージュ 炎』であり、土本典昭の『ある機関助士』(63)であり、後にフランスに渡って彫刻家になる藤江孝もいました。黒木さんや土本さんは監督なので顧問のような形としていて、「青の会」で中心だったのは、まだ一本になっていない演出部、撮影部、録音部の若い助手たちでした。そして岩波映画のPR映画を見て、その場でそれを撮った監督から話を聞いて、若い人たちを中心に議論をする。その場に監督がいるからあまりひどい悪口はいえなかったけど、監督と同席して議論するというスタイルは他の撮影所ではありえず、新しい会社だからできたことでしょう。
そうやって岩波映画のなかから、意欲的な映画の試みが出てきたのですが、そうなると必ず会社やスポンサー側とぶつかる。土本典昭の『ある機関助士』は何カットか切られて、それに抗議した土本さんが現場をサボタージュしたことがありました。岩波映画は優良企業になろうとしていて、PR映画の枠をはみ出ようとする監督やスタッフをきびしく締めつけました。岩波映画の撮影部の規定では、助手を5年間やる決まりなっていました。僕は3年目に1本になる機会があったんですが、周囲の反対で潰されました。ここにいてもPR映画しか撮らせてもらえないと思い、5年間勤めたのちに会社を辞めました。62年5月のことです。その頃、小川紳介もカメラマンの鈴木達夫さんと組んで、小田急電鉄とキューピー・マヨネーズの2本のPR映画を撮りましたが、両方ともスポンサーの反対でボツになりました。小田急のPR映画では、会社の重役のインタビューに禿げ頭や口元をアップで撮り、夜の新宿を電車が走るシーンでは、すべてコマ撮りやコマ落としで撮ったんです。その次のキューピー・マヨネーズではワンカットの長回しで、女の子の顔ばっかりを撮るという実験をして、小川紳介は会社から干されました。彼の方もそれで嫌になって岩波映画を辞めたんでしょう。ちょうどその頃、土本典昭と黒木和雄が岩波映画を辞めて、岩佐寿弥、東陽一、僕、小川がそれに続いたんです。
自主製作の映画へ
――東京オリンピックを目前にして、日本企業が高度資本主義の時代へむかって、どんどんPR映画を作るなかで、岩波映画も企業として一流を目指していったという背景があるわけですね。そのときに居場所のなくなった作家性の強い監督やスタッフが、みんな岩波映画を去っていったという…。
大津 その通りです。そして小川紳介はフリーになった後、ホンダ技研のテストライダーのPR映画の企画にかかりました。オートバイの耐久性を試すために、テストライダーがサーキットを回り続けるのを撮るというものでした。そのサーキットがあったのが静岡県の磐田市で、僕の出身地でした。脚本を読むと、オートバイ製品にいかに耐久性があるかということと、60年安保後に敗北した若い人たちがいかに日本社会のなかで耐えていくかという時代感情がうまく重ね合わされていました。しかし、映画企画としてはおもしろくても、何ら商品の宣伝にならないということで、スポンサー側からキャンセルになりました。小川は浜松に宿をとって、数日間テストライダーに取材していましたが、お金がなくて宿代も払えなくなった。それで僕の中学時代の友人に頼んで、お金を持っていってもらった。フリーの助監督をやりながら、自分の企画でPR映画を撮ろうとするんだけど、それがなかなか成立しないから一銭にもならないわけです。小川は宝酒造のビール工場のPR映画の企画もやりました。ビール工場で製造者たちがうまいビールを作ろうと苦労している姿を見せるドキュメントでした。プロダクションも決まっていたが、スポンサーが脚本にダメ出しをして企画が倒れてしまった。「真面目なPR映画は作れないよ」と、さすがの小川もがっくり来ていましたね。
その頃、黒木和雄も『あるマラソンランナーの記録』(64)という傑作を完成したのに、製作の東京シネマともめて上映されないという憂き目にあっていた。土本典昭は日本テレビで、プロデューサーの牛山純一と何本かのテレビ作品を作っていた。その中に後の『留学生チュア・スイ・リン』(65)の企画もあった。マラヤ連邦(1975年イギリスから独立し、マレーシアとなる)の完全独立を主張した、チュ・ア・スイ・リンは政治活動を理由に本国召還を命じられた。国際的な政治問題になることを恐れた日本テレビは企画をキャンセル、土本は即日「籐プロ」(後の自由工房)の工藤充のところに持ち込んだ。当時、工藤は細々とコマーシャルフィルムなど製作していて、全面的に製作にタッチする余裕はなかったが、軒先位は貸そうと制作本拠を「籐プロ」に置くことになった。ノーギャラだがフィルム代と現場費が出たんです。スタッフもボランティアでしたが、土本さんが企画からすべて自分で手がけ、本当に自分の撮りたい映画を作っているのを見て、小川紳介は衝撃を受けていましたね。『チュア・スイ・リン』の公開試写の日は暑い日でしたが、本当に頭から湯気をあげて「すごい映画だ。やられた、やられた」とカッカッしてましたね。
――目の前に自主製作をはじめた土本典昭というお手本があったわけですね。それで小川紳介も、PR映画の企画ではなく、自分の手で映画を作ろうと思ったんですね。
大津 岩波映画時代に小川紳介が助監督でついた『若いいのち 法政大学の学生たち』(63)という作品がありました。企画会議のときに、法政大学の各学部を扱うなかで通信制学部についてはどうするかという議題が出た。当時の大学総長の谷川徹三が「あんなのものは学部ではない」と却下し、映画では扱わないことになったそうです。小川はそれが頭にきて、通信教育部について調べました。そうしたら「働きながら学べる」という売り文句で入学した学生のうち、最後に卒業するのは1割に満たないということが判明した。小川はその事実にショックを受けていましたね。それでPR映画ではオミットされた通教生たちについて、自主製作の映画で作ることにしたのでしょう。
小川紳介の監督第一作となった『青年の海 四人の通信教育生たち』(66)の撮影は65年8月から始まりました。大学の通信教育学部にはスクーリングという期間があり、夏休みの間に大学へ集まってきて何週間か勉強するのです。僕はすでにカメラマンとしては小さな作品ですが、1、2本を手がけており、そこへ小川が手伝ってほしいと話を持ちかけてきた。ぼくが付き合ったのは最初の4週間です。法政大学の教務主任をしていた斉藤さんという人は日本共産党の人で、自分の持っている書籍を売り払って製作費の足しだと言って小川に渡していました。小川は岐阜の祖父が持っていた高価な壷や陶器を売り払って、資金の足しにしました。現場では僕がカメラを回している後ろで、小川とプロデューサーが「明日のフィルムどうしようか、金ないんだよ」と話し合っているような有り様でした。
――『青年の海』は法政大学の通教制が舞台です。その頃、法政大学は通教制を廃止しようとており、その一方で文部省は全国的に通信制大学を4年制から5年制に変えようとしていた。こうした通教制をめぐる状況と4人の通教制の大学生が戦うといった内容です。学園紛争を扱うときに、もっとも弱者であるかもしれない通信教育の学生を撮影対象にしたわけですね。この映画のテーマの一つには、通信教育で「働きながら学ぶことは素晴らしい」という社会的通念に対する疑問符があるでしょう。
大津 最初から4人の学生にスポットをあてる構成だったのではありません。撮影を進めるうちに通信教育部の自治会委員長をやっていた栗林豊彦が打ちとけてきた。山根誠はエアコンの設置や掃除をしながら通信教育を受けている苦学生でした。それから立石泰昭と小林秀子が映画制作に興味をもちはじめて、撮影に関わるようになっていきました。4人は自分たちが記録映画に撮影される被写体になったことを通じて、映画に興味を持つようになったのです。そこまでは良かったが、小川紳介は彼ら4人の何を撮っていいかわからずに逡巡しており、資金の問題もあって4週間がすぎた頃に撮影が中断したわけです。その後、小川は3ヶ月ほど姿をくらましました。
年が明けた66年1月に、4人の学生が再び集まって、撮影が再開しました。そして、映画にあるように4人が「通信教育ってなんなんだ」「学問するとか勉強するって一体どう言うことだろう」と話し合いはじめたのです。小川は通信教育の学生が抱える状況を、この4人のなかに見つけていくという構成にしたんですね。体の空いていた奥村祐冶さんが後半の撮影を担当しました。撮影は2月にクランクアップし、編集作業には僕も付き合いました。銀座の東劇地下にあった松竹試写室を借りて、マスコミ試写会をやりました。マスコミから評論家まで様々なところへ案内を出したのですが、ほとんど誰もこなかったんです。父親と妹と弟の3人の身内だけしか試写会に姿を現さなかった。これが小川紳介という映画監督のスタート地点でした。
『圧殺の森』
――その年の6月には『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』の撮影に入っており、翌年の67年に完成しています。この作品のカメラマンは大津さんですが、どのように企画が立ち上がったのでしょうか。
大津 マスコミ試写会は失敗に終わりましたが、小川紳介は『青年の海』を一橋大学や他の大学の新聞会に見せたら、若者達の悩みがヴィヴィッドに描かれていると、好評を得ました。そして、次の作品では大学新聞会が企画をバックアップすることになった。早稲田大学の学館闘争に見られるように、自治会が管理していたものが壊されたり奪われたりという事象が、あちこちで起きていました。学生の自治が、学問の自由が壊されようとしているのです。そして、学生運動に関わったせいで大学当局から退学させられるという事例も出てきました。早稲田や明治、それにもっと小さくて若い国際基督教大学のようなところでもパージがあり、都留文化大学では大学との交渉のもつれの末、沢山の学生が退学処分になりました。一つだけ、まだ学生が闘っていたのが高崎経済大学だったのです。
高崎経済大学では、学生たちが学生ホールと呼ばれる自治会館を占拠し、学生たちは起訴されながらも裁判闘争をしながら、そのバリケードのなかで頑張っていました。小川は大学新聞会を通して映画製作の話をもっていき、彼らに会って撮影許可を得ました。大学キャンパスのなかで学生ホールだけは治外法権になっていたから、そこへ自由に入って撮影ができることになった。退学処分になった者たちが、学校の外側ではなく学内に残っていたので、非常にドラマティックに物事が展開していきましたね。高崎経済大学の学生たちに初めて会いにいったら、10代後半から20歳前後で、ヒゲは伸び放題で何日も風呂に入っていない状態でした。当時の高崎経済大学は開校して数年の若い大学で、そのようなほとんど誰にも知られていない大学で若者たちが学生ホールに立てこもり、大学当局からは退学処分を命じられ、器物破損や暴力行為などで警察に起訴されながらも斗いつづけていた。過去にもこんな事例はなかったでしょう。当時の学生闘争の原形がここにはありました。
――実際の撮影はどのように進行したのでしょうか。学生たちの表情や話し方は自然ですが、16ミリフィルムのアリフレックスのカメラですから、撮影をすればガラガラと音がするわけですよね。
大津 小川紳介や僕たち撮影隊が高崎経済大学の近くに部屋を借りたら、体育系学生や大学職員に踏みこまれる恐れがあったので、となり町に拠点をもうけました。そこから車で大学に通い、裏門の垣根にある1メートルぐらいの穴から学生ホールへ出入りしました。僕たちの姿は、大学当局や右翼の体育会の連中に見られないように気をつけました。忍者でしたね。照明をたくことができないので、自治会館の学生たちが話し合うシーンは自然光だけで撮っています。学生たち5、6人が、学生ホールのなかにある委員会の一室に長いすを持ちこんで寝泊りしていました。大学の開講中は何が起こるかわからないので、ただひたすら自治会室にひそんで時を過ごすのが仕事でした。
彼らはしゃべりはじめると『圧殺の森』の映画のなかにもあるように、政治的なアジテーションのような話し方になってしまう。それでも、その情熱がどこから来るのか興味を持って聞いていました。監督、撮影、録音に撮影助手が2人いる5人の撮影隊でした。となり町の部屋で朝起きると、助監督の吉田司の女友だちが朝飯をつくってくれた。そして昼すぎには学生ホールに日参し、半日のあいだ或るときは暗くなるまでそこにいる。カメラをまわさないときも、その場所にいつもいるわけです。だから学生たちも僕たちの存在に慣れてきて、互いの関係性ができてきた。そこまでいくのに2週間くらいはかかりました。
――学生が立てこもっている学生ホールの室での閉塞感が映像で表現されていますね。学生たちが話し合うときは顔のアップばかりで、カメラを意識しない自然な表情です。学生たちが水浴びしているシーンも素晴らしいと思うのですが、カメラマンとして苦労した点を教えて下さい。
大津 『圧殺の森』で学生たちのアップばかり撮ったのは、小川もどこかで言っているけど、テレビでカール・ドライヤーが『裁かるゝジャンヌ』の放映があって、その影響を受けています。それは顔のアップで微細な表情の変化を見せる作品ですが、ドライヤーは裁判所のなかを再現する巨大なセットをつくりましたが、その全景は全く見せず、ジャンヌ・ダルクと裁判官の顔のアップだけで表現していました。毎日のように顔をつき合わせていると、若者達の素顔がだんだんと見えてくるようになり、顔の表情をアップで撮りました。逆にいえば、顔くらいしか撮るものがない現場の状況だった。片目だけの顔にしてみたり、豊かに動く手の表情を撮ったり、撮影的な冒険もしました。ひとりのリーダーと聞き手を撮るのではなく、ひとりひとりの個人をアップで撮りながら、個人の集まりからな成る集団をあらわそうとしたと言えばいいでしょうか。
ただ、学生たちもずっと室内にいると気が滅入るから、ときどき川原のようなおおっぴらに話せるようなところへいって、息抜きをしていました。山登りの好きな男がいて、バリケードを抜け出して、山登りへ出かけようとしたことがあった。ところが「みんなが籠もっているのに、自分だけ山登りとは何事だ」と連れ戻されました。その男は腐って、噴水プールで水遊びをはじめました。おもしろいと思ってとっさにカメラをまわしました。それが『圧殺の森』のなかで一挙に開放感がひらけ、映画のトーンを変える重要なシーンになりました。
――機動隊の突入と逮捕の圧力が近づいてきて、学生たちが徐々に追い詰められるなかで、闘争から抜けようとする人が出てくる。その人たちは言いわけとして、父親や家族、自分のプライベートの問題を前面に出してくきます。そして、9月に続々と逮捕者が出たというエンドロールで映画は終わります。
大津 大学当局は新たな処分をしようとしていました。親と学生を呼びだして、親には「このままいけば、あなたの息子さんを退学にするしかない」と恫喝する。なかには学生ホールまで訪ねてくる親もいて、そういう親はかなり勇気がある珍しいケースで、息子の立場を認めているところもあったんでしょう。学生ホールに立てこもっている学生たちは、とにかく絶対にその場所を退去しないという方針でした。ところが、9月に入って夏休みの終わり頃になると、今夜にでも機動隊が踏み込んでくるんじゃないか、という危機感が高まって、その夜のうちに一旦引き上げようということになりました。カメラは最後にグループの委員長が出ていくところを追っています。
――同じ1967年には『現認報告書 羽田闘争の記録』(67)も撮っています。日本がアメリカのベトナム戦争を支援することに反対し、佐藤栄作首相が南ベトナムを訪問するのを阻止しようとした闘争です。そして、10・8の第一次羽田闘争において、京大生で中核派の山崎博昭が機動隊の装甲車に轢かれて死者が出ます。そして11月12日に佐藤首相がアメリカに訪問しようとして、これを阻止しようとする第二次羽田闘争が起こり、この日から撮影がはじまったわけですね。
大津 『圧殺の森』の完成が67年10月ですが、編集で音づけをしている最中、10・8の羽田闘争の事件が起きました。その少し前からヘルメットにゲバ棒というスタイルが出てきて、闘争のスタイルが大きく変わってきました。学生がスクラムを組んで機動隊へぶつかっていき、機動隊の方も学生を取り囲んで力で抑圧するといった力比べになっていました。それで10・8の新聞記事とラジオニュースを聞いて、山崎君が轢死されたことを知りました。機動隊の装甲車にひき殺されたとか、学生がそれを乗っとっててひき殺したとか、情報が錯綜していました。小川も私も、『圧殺の森』で砂川の斗争現場の撮影で、学生と機動隊の激突を目のあたりに見ており、武器や装備で優る機動隊の暴行だと考えた。斗争現場でどんな暴力が振るわれているか見てみよう。小川の活動がはじまった。そして次の11・12の羽田闘争を撮ることになった。岩波映画の労組からの協力もあり、大学の新聞会からのわずかな援助もありました。それで『現認報告書』を撮ったのです。
――この時代、機動隊員がまだ盾を使っていなくて、それでケガ人が多く出たということです。それから歴史的には、ヘルメットとゲバ棒がという新左翼のスタイルが定着した闘争という位置づけもあります。『現認報告書』の撮影現場についてお話ください。
大津 デモをしている学生の隊列に機動隊が襲いかかり、それを阻止しようとして、ヘルメットをかぶってマスクをしてゲバ棒を持った学生が阻止線を張るといった具合でした。たしかに機動隊のジェラルミンの盾は数が少なくて、全員が持っていなかったかもしれません。現場ではテレビや新聞のマスコミのカメラマンが、機動隊の背後から撮影をしていました。僕たちのような少数派がその反対に学生たちの側にまわって撮っていた。日本映画新社と岩波映画からカメラを7台借りてきて7台で撮っています。現場には黒木和雄、土本典昭、鈴木達夫、田村正毅といった岩波映画の研究会や青の会のメンバーが参加してくれました。いわば11・12が『現認報告書』の初日でした。そうして学生と機動隊の衝突を撮ったあとで、模型などを使って山崎君がどうやって殺されたかを検証するシーンを撮りました。
――小川監督は11・12のときに、目の前で学生がメタメタに殴られていて、自分はカメラをアリバイにして見ていることに後ろめたさがあったと言っています。撮るって何なんだと自身に問いかけ、カメラを銃にかえて機動隊を撃ちたいと思ったとのことです。このような心理的な動機が、次の『三里塚の夏』へと向かう契機になったのでしょうか。
大津 それはありますね。その場にいて、このまま黙っていていいのか、カメラを回しているだけでいいのか、という逡巡はありました。僕たちには映画を撮る能力しかない。撮ることが唯一の有効な表現方法なんだと考えるしかなかった。機動隊に抵抗すれば、ひたすら殴られるだけだという現実もありました。『圧殺の森』の頃、演出家としての小川紳介はじっと現場で観察していて、その場で何が撮れるのか、それをどのように構成できるか、ひとつひとつ体験を積み重ねながら撮っていくスタイルでした。『現認報告書』の頃になって、小川は持ち前のアジテーターとしての能力を発揮しはじめます。「キャメラは闘う武器である」というフレーズですね。僕の考えでは、カメラは撮ることでしか武器にならないのに、小川紳介という人は時々そこから逸脱していくようなところがありましたね。でも小川の真意は、カメラは撮影行為を通して真実に達し、告発の武器になるとでも言ったらいいでしょうか。
『日本解放戦線 三里塚の夏』
―― 68年1月に三里塚でロケハンをしていますね。小川監督や大津さんには、学園闘争を題材にしたドキュメンタリー映画を撮ってきて、今度は地域闘争を撮りたいと動機があったのか。それとも、ロケハンの時点で「農民」というテーマが出てきたのでしょうか。
大津 三里塚の空港反対斗争は土地をめぐる斗い、空港反対斗争はもう一つ冠で、斗いの主体は農民だろうと漠然と考えていました。しかし新左翼全派がこぞって三里塚詣りをし、斗争支援に現地入りをはじめると、これまで曲がりなりにも斗争慣れした学生達が斗争を牛耳るのではないか、更に派閥争いのお荷物まで持ち込んできはしないかと危惧されてきました。1967年12月、小川は新左翼の或るセクトの紹介で、反対同盟の戸村一作さんと接触しはじめました。翌67年1月、反対同盟の「映画班」として、三里塚の街から少し離れた長原というところに宿を借り、7、8人の野郎共が共同生活をしながら調査とか部落ロケハンなどをし始めました。この頃から、斗いの中心は農民なんだ、百姓の斗いを撮ろうとテーマがしぼり込まれてきました。
――68年2月から7月末までの撮影期間、半年近く三里塚に住みこんだわけですね。ずっと機動隊と反対同盟の衝突があるのでもないでしょうし、撮影をしないときの日常はどのように過ごしていたんでしょうか。
大津 2・26の空港反対デモから本格的に撮影を開始するんですが、その前にいわばリサーチの期間がありました。反対同盟の組織や人数を把握したり、三里塚に住んでいる人々の家を車でまわって調べたり、一軒一軒のうちが条件派なのか反対派なのかを区分していきました。基本的には長原宿舎に住みこみ、朝起きて飯を食べて、部落をあちこちまわる。団結小屋をのぞき、本部がどこにあり櫓がどこにいくつ立っているかなどを調べて、反対同盟のリーダーたちに会うといった生活でした。『三里塚の夏』の冒頭のシーンにでてくる「赤風」を撮った4月頃から、反対同盟と全学連の闘争だけではなく、地元の部落のなかへ入っていって、そこに住んでいる人たちを撮りはじめたんですね。
―『三里塚の夏』のタイトルあけに農地が出てきて、パトカーのサイレン音とヤグラの上でドラム缶を叩く農夫が映され、空港公団職員と私服がぞろぞろと出てきます。この映画が全学連の学生たちではなく、農民と公団や警察権力の戦いなんだというのが示されていますね。
大津 編集では、あのような映画的な繋ぎになっています。それぞれの撮られた日時や場所がバラバラなショットをつないで、モンタージュしているんです。たとえば、公団や警察が来たことを知らせるために、農民がヤグラの上でドラム缶を叩きます。こちらもそれを狙って撮ろうと待っているのですが、角度が悪くてうまくいかない。それでも、本当に敵が来たときの迫真性を撮らなくてはならない。だから何度か撮影をして、一番良いもの使っているわけです。その反対に、機動隊がスイカ畑に踏みこんでくるところは偶然に一発で撮れました。スイカ畑の主である若者を狙って撮ったわけではなかった。それでも、彼の背後に機動隊がいるという構図で何とか撮ることができました。
小川紳介が現場で何をしていたのかよく聞かれますが、彼がカメラマンの僕に指示を出すことはほとんどありませんでした。撮影の後半は現場に一緒にいないことのほうが多かった。カメラはアリフレックスSTで、一度に100フィートしか回すことができない。だから、現場へいって撮れるものから撮っていくしかない。何を、どのレンズで、どのようなフレームで撮るのかはすべて任されていました。老人行動隊長の芹沢さんを正面から撮って、彼がこの土地は明治天皇の御用牧場だった明治大帝の偉業を継ぐと話しながら糞を撒くシーンがありますね。あれを撮った頃から、小川は完全に後ろの方で見ているようになった。或る種の信頼関係ができたのでしょうね。同じ頃に、それまでなかなか入れなかった婦人行動隊のなかにカメラが入り、おっかさんたちの顔のアップを、ワイドレンズを使って、近寄って正面や横から撮れるようになった。反対同盟の人たちも僕らの存在に慣れてきて、こちらも人間的に親しみを持つようになってきた。それで機動隊と婦人行動隊の間に入り、ちょうどいいアングルから25ミリや50ミリの標準レンズで撮影しました。
――『三里塚の夏』の農家の女性たちの姿や声に、どうしようもなく惹きつけられます。たとえば、団結小屋を望む農地で、機動隊の大部隊に対して婦人行動隊が「帰れ」コールをやるシーン。田村正毅さんのカメラが櫓の上から撮ったショットをはさみ、大津さんは地上で女性の顔のアップをどんどん撮っていく。それでいて、お茶を飲みながらおしゃべりしたり、農家の子どもたちが自転車で通りかかったり闘争現場の日常性も撮っています。
大津 小川と話し合っていたら、俯瞰的な画がほしいということになった。俯瞰で撮れる場所は櫓の上しかない。それで田村正毅君にカメラを一台借りてきてもらい、Bカメをお願いしました。
――監督の仕事に編集作業があると思うのですが、『三里塚の夏』の機動隊と全学連が渾然一体となって闘争するシーンは実は2・26と3・10と3・31の三日間の映像をおりまぜて構成しているとのことですね。
大津 前のふたつは場所もほとんど同じで、マスとマスのぶつかり合いとして、わりあい画的には共通点がありました。ところが、3・31の方は実際には衝突が起こらなかった闘争です。先に機動隊に道を封鎖されてしまったんです。インサートのように青年行動隊の映像をはさみ、「ここにいたら退路を経つだけだ」とやっているシーンがその日の映像です。それと同時に、前者は午後から夕方にかけてのできごとで、後者は朝方のできごとという光の違いの問題もあります。それらを無視して繋げているところに小川の編集のマジックがあると思います。これらの映像をつないだ上に、反対同盟のリーダーである戸村一作の演説がボイスオーバーでかぶっています。そして、ときどき戸村さんの顔のアップもインサートされて、かなり複雑にしているわけです。
あのシークエンスは、戸村一作の演説をどのように使うかというところから出発していたのでしょう。戸村さんが室内の集会でアジっている映像を撮ったが、そのままでは長くはもたない。あれを撮ったときは、カメラがはじめて部落に入ったときで、戸村さんもカメラを意識して、アジテーションになってしまった。その映像と音声は使いたいのだけど、それぞれ単独ではもたないので、3つの別々の日に起きた闘争を編集で入れこんでいった。戸村さんの演説も、機動隊と全学連の衝突も両方とも使いたいが、単独で使うと冗漫になってしまうということだったのではないか。映像と音声のシンクロが発達していない擬似シンクロの時代では、あれはよく使われる編集の技術だった。でも作り物くさくなって、ドキュメントの精神を失ってしまうと小川は考えたのでしょう。シンクロの時代になると、小川はこの技法を否定してワンカット・ワンシーンの長廻しに固執した。
――『三里塚の夏』で大津さんが逮捕されるのは7月11日ですね。助監督と一緒に逮捕されています。よくまあ、B班が大津さんの連行されるところに間に合いましたね。
大津 B班の田村君にカメラを用意して近くで待機していてもらったんです。櫓の上から撮ったシーンのカメラをまだ借りていて、数日前から僕が逮捕されそうな予兆もあった。逮捕は覚悟していたが、ただでは逮捕させたくなかった。権力側に連行されるとき、多くの人が悲惨なまでに殴られて、泥まみれになる姿を見ていました。どうせなら堂々と捕まり、カメラの方を見返すくらいの形でやりたかったんです。
映像には映っていませんが、逮捕のあらましはこうです。最初にやられたのは、演出助手の松本武顕君でした。彼は若い頃から髪がうすくて、ヘルメットをかぶるのが嫌いだった。それで雨のなかで官憲に襲われて頭を殴られとき、溝のなかで失神したんです。おかげで逮捕を免れた。僕と撮影助手の大塚登君は条件派の家の庭に逃げこんだ。台所へ隠れたが、官憲が後からドアをぶち破って、僕たちを捕まえました。大塚君は機動隊に囲まれて随分と殴られたそうです。僕はカメラを持っていたので殴られなかったが、盾でぐるりと囲まれて下半身を随分と蹴られた。両側を機動隊に挟まれて連行されている最後の瞬間、B班の田村正毅のカメラが間に合い、撮影することに成功したんです。最後はストップモーションで止めています。ほとんど戦争映画かアクション映画の編集ですよね。
――ラストで柳川初江さんが闘争を語るシーンも、ついに農婦がカメラの前で語りだしたという感動があります。
大津 あれを撮影したときは曇りの日で、初江さんが手拭いを頭に姉さんかぶりに巻いて、あのようにしゃべり出したので撮影と録音をしました。初江さんの話自体、農民の闘争への覚悟を語るもので過激な内容でした。初江さんが息子を誉めそやす話をしたので、撮影が終わった後に、初江さんの息子の顔を入れたいなと思った。それで待っていたら天気がよくなって、ちょうど息子が猫車を押して畑から戻ってきた。彼のすばらしい笑顔が撮れました。せっかく天気が良くなったので、もう一度初江さんの顔を撮ろうという話になった。それで映像は2回分をつなぎ、録音は最初の方だけを使ったんです。
『三里塚の夏』のラストシーンでは、空撮で三里塚周辺を空から撮った映像に、ベートーベンの音楽を小川がかぶせました。僕は撮影をしながら、いつかはこの風景が成田空港の建設によって消えてしまうのだと思い、丹念に撮りました。人家があり、畑があり、田んぼがあり、神社があり、かつてはあそこに人々が住んでいた。実は僕は2012年になって、監督でプロデューサーの代島治彦さんと一緒に三里塚に通い、かつての反対同盟のメンバーたちに会ってインタビューをして歩いています。
小川紳介と大津幸四郎
――『三里塚の夏』を最後に、大津さんは小川紳介と組むことをやめましたね。その後に小川プロは三里塚で7本の映画をつくっています。そこにはどういう理由があったのでしょうか。
大津 1つには公にいっていることですが、小川紳介が「小川プロ」という固定した製作集団をつくったことですよね。監督の名前をつけることに僕はかなり反対しました。小川個人の作品ではなく、登場している反対同盟の人たちの作品であり、支援した人や参加したスタッフの作品でもある。これは集団的な活動でもあるのだと。それから、小川個人が段々と天皇のようになってきました。天皇制に反対するグループが、自分たちのなかに天皇を作ってはいけないと思ったのです。それが表向きの理由です。土本典昭さんの現場では、撮影中は監督を頂点としてやっていても、それが終われば自由になります。しかし小川の場合は、撮影をしていようがしていまいが、ずっと共同で暮してスタッフとして扱われるところがありました。そういうことのしんどさがありました。
もう1つには内的な理由があります。小川紳介は三里塚をシリーズにすると言っていました。『三里塚の夏』があったから、次は「三里塚の冬」だと安易に考えていた。『三里塚の夏』では厳しい闘争のなかで、農民たちの素顔にかなり迫れたという自負がありました。日本の記録映画の歴史のなかで、ここまで闘争の素顔に迫れた作品は他にないのではないかと思いました。だから、僕としては『三里塚の夏』に勝る作品をつくる自信がなかったんです。やればできたかもしれないし、前へ進めたかもしれないが、自分でも怖かった。『三里塚の夏』の次に下らない作品を撮りたくなかったし、シリーズで質を維持するための力量とエネルギーは途方もないものだと思えた。土本さんとの水俣シリーズを除けば、僕は一作主義というかワンテーマでひと作品しかつくれないことも関係していた。「これをシリーズで作り続ける力は、俺にはないだろう」と思ったんですね。
案の定、二作目の『日本解放戦線・三里塚』、通称「三里塚の冬」では、小川紳介は演出家として相当苦しんだようです。何か撮らなくてはならないが、何を撮っていいいいか分からなくて虫を撮ったり花を撮ったり。お金はどんどん出ていく。傍目で見ていて「僕が残ってやるべきだったかな」と心配になったときもありました。テーマも決まっていない、対象も定まっていない、漫然と撮るしかなかったのでしょう。何ヶ月もの間、朝にスタッフを撮影へ送りだすと、自分は宿舎に残って本を読んでいたということです。その頃にきっと柳田國男に出会ったのでしょうね。それを読んで、土地の風土といったテーマが出てきて、それが後年の『辺田部落』にまで繋がっていったのでしょう。
――小川監督から離れたことの理由のひとつに、経済的な側面はなかったのでしょうか。
大津 それは経済的には苦しかったですよ。プロのカメラマンですから、『圧殺の森』から『三里塚の夏』に携わっている時期には、月額で3万から5万円くらいもらっていました。しかし、それも毎月毎月ちゃんと全額支払われるわけではない。まだ30代前半でしたが結婚していました。『圧殺の森』の撮影のときに最初の娘が生まれています。だから撮影が終わったらすぐに別の仕事を見つけないと、生活できなかったんです。撮影後に編集につき合うにしても、何か別の仕事をしながらという感じでしたね。でも映画以外のサイドワークに走らないで、映画一筋でなんとか生きていけたことは幸せと言えば幸せでした。
――いま振り返って、小川紳介監督の演出についてどのようにお考えですか。
大津 土本典昭さんは岩波映画の時代から、編集マンのイセチョウこと伊勢長之助のテンポの良い編集を学んでいました。きちっと調べ上げた上で、緩急をきかせた編集で事実を知らせるところが特徴です。土本さんは浪花節的に観客を泣かせることも好きでしたね。それに比べて、小川紳介という監督は「三里塚の冬」あたりから長回しを自分のスタイルにしていきますが、細かい編集にはこだわらないところがありました。土本さんは登場人物の人間性を浮き彫りにすることには熱心だったが、民俗的なところへ没頭していくような芸当はできませんでしたね。反対に小川紳介は技巧的なことに無頓着で、映画をそつなくうまく作ろうとしなかった。その根っこには若い頃にPR映画の世界で苦労して、大胆にPR映画におけるオーソドックスな映画作法を壊そうとしたときの考えをずっと引きずっています。
小川紳介には、内側にヘビを飼っているようなところがありました。本当は内に籠もりやすい孤立するタイプの人間だったのだと思います。ところが、まわりに人がいるとテンションが上がって能弁になるんです。そこは表裏一体だったのではないでしょうか。もう1つ、小川は若い頃に映画が作れなくて苦労をしたせいか、いつも映画を撮れないことに対する飢餓感を持っていましたね。だから、三里塚シリーズに見られるように、常に映画を作っていなくてはならなかったんです。日常生活と撮影期間の区別がないから、どこへでもスタッフと一緒に住みこむことができたし、そうしていれば、いつでも映画を撮っているようなものだから、彼の巨大な飢餓感も満たされたのでしょう。僕はそのようなあり方には耐えられなくて、小川と決別しましたが、彼にはそのような映画の道しかなかったのだと思います。土本は映画作りの方法で、変革的でアバンギャルドでした。小川は映画作りを思考する時アバンギャルドそのものだった。小川は意外に観念的で撮影現場に立つことを嫌ったのかもしれない。一方、土本は実践的な変革者で、撮影現場に立ちながら見ることで自分を変えていったとも言えるでしょう。
【インタビュイー】
大津幸四郎 おおつ・こうしろう
1934年静岡県生まれ。キャメラマン。1958年静岡大学卒業後、岩波映画製作所に入社。5年間撮影助手としてつとめるが、PR映画に限界を感じ退社。同時期に岩波を退社した土本典昭と小川紳介のキャメラマンとして活動。『圧殺の森』(67)『パルチザン前史』(69)『水俣ー患者さんとその世界ー』(70)『不知火海』(75)などのキャメラマンをつとめるほか、黒木和雄『泪橋』(83)、沖島勲『出張』(89)など劇映画も撮影。90年代以降は佐藤真、ジャン・ユンカーマン、熊谷博子など若手映画監督とも組み、2005年に自ら撮影・構成した作品『大野一雄ひとりごとのように』で監督デビューを果たす。
【聞き手プロフィール】
金子遊 かねこ・ゆう
映像作家・批評家。劇場公開作に『ベオグラード1999』『ムネオイズム~愛と狂騒の13日間~』、編著に『フィルムメーカーズ 個人映画のつくり方』『吉本隆明論集』など。neoneo編集委員。