【Interview】農家の人々の気持ちに寄り添える映画作りを目指して——『天に栄える村』原村政樹監督インタビュー 

劇場公開から1年。福島を描いた1本の映画が話題を呼び、現在も全国各地で上映が行われている。原村政樹監督の『天に栄える村』だ。
映画の舞台となる福島県天栄村は“里山の風景”がひろがる人口6000人ほどの小さな村だ。村人たちは、恵まれた自然環境を大切にしながら農業を営んできた。なかでも日本一おいしい米づくりを目指す農家のグループ「天栄米栽培研究会」は、米のおいしさを競う全国コンクールで4年連続金賞を受賞するほどだった。
しかし、2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島第一原発の事故は、原発から70km離れたこの村にも、大量の放射性物質をまき散らした。人類史上類のない、米作地帯の放射能汚染。だが天栄村の農家は諦めない。村役場につとめる吉成邦市さんを中心に、自分たちの手でできることは何でもやろうと科学的なデータを取り寄せ、放射能に負けない米作りを目指して試行錯誤する。
震災前から天栄村の米作りを追っていた原村政樹監督は、村の人々の奮闘に密着し、106分の映画にまとめた。福島の「震災と原発事故に負けない人々」に感動しつつも、その姿をどのように伝えたら良いのか葛藤があったという。どのような葛藤か。監督にお話を伺った。
(取材・構成 佐藤寛朗  構成協力 舞木千尋)



天栄村との出会い

——映画の話に入る前に、まずは監督と天栄村の人々が出会うきっかけを教えてください。

原村 2009年に、ある番組の取材で奈良県のお米屋さんを訪ねたのがきっかけでした。経営者の入口さんという方が非常に情熱的な方で、各地の米農家と提携して、安全で美味しさも全国トップクラスの米を販売していました。入口さんには、環境がいいのに、高齢化や過疎化で放棄されている各地の田んぼを再生して米を作りたいという気持ちがあって、農家の方たちとそのような活動をしていました。そのなかの一ヶ所が、たまたま天栄村だったんです。

しかも、天栄村で入口さんと米作りに取り組んでいたのは、映画の中心人物になった天栄村役場産業振興課の吉成邦市さんと、彼の呼びかけで2007年に始まった「天栄米栽培研究会」の農家のメンバーです。吉成さん自身、平日は役場に勤める兼業農家なんです。彼には、村の主力産業である米作りを何とか立て直したいという思いがありました。しかも役場の人間でありながら、つなぎを着て農家と一緒になって田んぼに出ている。これには驚きました。

初めて撮影に行ったのは、吉成さんたちが荒れた田んぼの下見をしながら、そこで米作りをやるかやらないかを協議していた時です。お米屋さん越しに取材に入っていった僕は、当初は彼らがどういうグループかも知りませんでした。そこから2012年の米の収穫をするまで、4年半にわたる映画のおつきあいが始まったんです。

——監督は『いのち耕す人々』(2006)など、農業に関するドキュメンタリーを何本か撮っていらっしゃいますが、監督自身は、農家のお生まれではありませんよね?『天に栄える村』を撮影するまで、農業に対するイメージはどういうものだったのですか?

原村 母親の実家は農業をやっていましたけど、僕自身は農家の生まれではありません。話すと長くなってしまいますが、僕らの生まれた時代というのは高度成長期の真っただ中で、だんだん豊かになっていく中での違和感を持っていました。経済成長のもと人間の欲望は肥大化していくし、環境も破壊されていくけれど、その中で僕らが生きるのにいちばん必要なのは第一次産業なのではないか。しかも農業というよりは、人間にとっていちばん根本的に必要な食べ物を見直さなくてはならないのではないか。そういう考え方にひかれていました。

当時の僕は、牛山純一さんの『すばらしい世界旅行』が大好きで、アマゾンの奥地とかニューギニアの先住民へ取材に行くことに憧れていました。文明以前の生き方というか、人間の原点に触れてみたかったんです。高校時代は文化人類学に興味を持って梅棹忠夫さんの「モゴール族探検紀」を読んだり、大学では探検部に入って、ミンダナオ島の山地住民の部落に入ってみたりして、アジアをほっつき歩いていました。

ですから、この仕事をはじめた時も、アジアの文化を伝えたい気持ちがあったんです。桜映画社と契約した最初の年に、師匠の村山正実さんが『生きている土』(1984)を撮って、それに触発されたのかもしれないけど、日本の中で何か自分のテーマを、となった時に、自然農法や有機農法といった近代化ではない農業を見つめてみたいと思ったんです。

そこで、国内でも早い時期に有機農法を手がけた山形県高畠町に行きました。10日間ぐらい農家のお宅に泊まりながら、昼間は農作業を手伝って、夜は飯を食べながらいろんな話を聞く。それが僕の農業取材体験のはじまりでした。

取材をしていると、近代農業の現実がだんだんわかってくるんですね。今の日本の中で、農業の位置がどうなっているのかを知るし、単に人間の原点としての農業、というわけにはいかないことも知る。アジアに行っても、奥の土地には大資本が来て、土地を収奪してバナナとかのプランテーションにしていくし、一方でマニラのように都会のスラム、という現実もある。人間の原点を支える農業というよりは、農業が現代社会の中でどういう位置づけにあるかを合わせて考えるようになって、そのひとつの答えが有機農法だったんです。

——ということは、天栄村の吉成さんたち、という人との出会い以前に、天栄米栽培研究会が有機農法をやっている部分にひかれた面があるのですね。

原村 天栄米栽培研究会は、米価が下がり、まだ天栄村の名前も知られていなかった頃に「日本一の美味しいお米を作ろう」と吉成さんが言い出して、村の仲間が集まったわけですけれども、2007年の結成段階では、有機農業をしている方は、一部だけだったと思います。

有機農法、という発想が生まれたのは、都市の人との交流の中で、これから日本のお米で農家が自立して生きていくためには、農薬や化学肥料で作ったものよりも、安全性を重視して作ったものの方が、高く売れると考えたからです。味わいもあるし、環境を守ることもアピールできる。思想的に、というよりは、天栄村の米作りを永続させるための戦略として始めたことだと思うんです。村の農業をどうしたらよいのかを考えて、天栄村の各地域の中で有力な認定農業者たちが集まった、いわば前衛部隊。そういう側面もありました。

耕作放棄田というのは、もう基本的には誰も手をつけません。中山間地域で条件の悪いところでは、どんどん米を作らなくなっている。そういう場所で米を作るのはひとつの宣伝材料かもしれないけど、ふつうはやらないです。それくらい、田畑を作るというのは労力の要る、大変なことなんです。それがわかっているからこそ、彼らは原発事故の後も、目の前の土地を捨てずに、どうすれば将来へ引き継いでいけるかを模索している訳です。

メンバーの中には「本当に無農薬でできるかいね?」と言っている人もいました。でも、やってみたら、できた。「やってみよう」と声を上げた人がいたからできたわけですが、何かをやろうという時に、みんながついていく。その結束力は素敵だなと思いましたね。

農家というのは、一人ではもう太刀打ちできない時代になっています。農村を衰退させないようにする為に、地域の人たちが新しい方策を考えていかない限りは、日本の農業は立ち行かなくなる。そういう意味では、天栄米栽培研究会がやりはじめたことは、ひとつのモデルケースなんです。

『天に栄える村』より  ©桜映画社 右端が吉成邦市さん

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