【連載】ドキュメンタリストの眼 vol.23 タル・ベーラ(映画監督)インタビュー text 金子遊

ハンガリーが生んだ孤高の映画作家タル・ベーラ。日本では『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(二〇〇〇年)や『倫敦から来た男』(二〇〇七年)といった代表作が公開されているが、初期の作品はまだ未紹介になっている。二〇一一年に完成した『ニーチェの馬』をもって、本人は長編映画の製作からの引退を表明している。その後は後進の指導にあたり、『象は静かに座っている』のフー・ボー監督らを輩出している。今回、一九九四年に完成した七時間一八分におよぶ映画『サタンタンゴ』の劇場公開にあわせて来日したタル・ベーラ監督に、主にその映画の演出術についてうかがった。
(聞き手・写真=金子遊、通訳=匿名希望氏)


『サタンタンゴ』について

——まず『サタンタンゴ』についてお聞きします。前半はハンガリーの寒村における医師、イリミアーシュ、少年シャニ、妹エシュティケ、その母親、中年男フタキらをめぐるエピソードが、時間が進んでは戻って、また進んでは戻ってくるという具合に進行します。後半にイリミアーシュが村に帰った後から、時間はまっすぐに進行します。クラスナホルカイ・ラースローの原作小説からスタートして、資金集めのために脚本を書き、またそれを破棄して新しい脚本を書いて、このような構成にいたったプロセスがどのようであったのか教えてください。

タル・ベーラ この映画の企画は、友人のラースローから処女小説『サタンタンゴ』を原稿で渡されたことから始まっています。わたしはひと晩でその小説を読み終えて、惚れこみ、ラースローに気持ちの上でつながりを感じました。それで彼とわたしの二人は、映画をつくることに決めました。それから、わたしは二年間かけて、この映画の舞台となるハンガリー大平原のいろいろな場所を歩いてまわりました。それはロケハンという側面だけでなく、その土地に住む人びとのことを知り、その土地の風土や考え方を知り、その風景を理解し、その風景の意味を知り、その土地の時間の流れを理解するための行為でもありました。ある程度の知識を得たところで、「さて、どうしようか」と考えた。そのときに、わたしは原作小説のドラマツルギーと構成をそのまま活かそうと決めました。

ただ、そうやって旅を続けているときに、ポケットに入っていたのは映画の脚本ではなく、ラースローの小説の方でした。彼はこの映画で、わたしとふたりで脚本を担当することになりました。とはいえ、完全に忠実に小説を映画化したわけではなく、映画ではさまざまな変化を加えています。彼の小説の文体をそのまま映画に置き換えることは不可能だといえます。全般的なところで、この小説を映像の世界に落としこむ方法を見つけなくてはならなかった。わたしはそこでおこなった行為を「脚色」とは呼びません。むしろ、現実というものを通して、あるいは現実からくる映画的な言語を通して、この小説を映像に翻訳したのだという風に思います。ですので、映画の構造は原作小説から変えることはしていません。

おっしゃるように、『サタンタンゴ』という映画の前半と後半を含む構成は、三つにわかれています。一部と二部は、物語を少しずつ積み上げていくプロセスです。三部において、物語が終焉を迎えることになります。最初に資金を集めるために脚本を書きましたが、そのときはリニアーに近いかたちの時制で進む物語になっていました。およそ9年後にやっと製作費が調達できる目処がついたときに、ラースローらと打ち合わせをして、原作小説に近い章立ての構成にもどすことに決めました。そして、すべての章の終わりに、ラースローの小説の文章を入れることにしたのです。

あなたは後半の物語が、時間軸として直線的に進んでいくといいましたが、わたしはそのようには思っていません。後半もまた純粋にリニアーな時間軸にはなっていないと思います。イルミアーシュやペトリナとともに物語が進む場面もあれば、次の章では村の人びと一緒に時間を経験する部分もあるわけで、物語は木の根や枝のようにさまざまな方向へ分岐していっている。しかし、それらのすべてが終わることになります。医師が、彼の知ることになったことをすべて書きつづり、そこで物語は終焉を迎えることになる、そのような構成だと考えています。

『サタンタンゴ』

——この映画における約一五〇カットの多くが、長回しで撮られたことが強調されます。しかし、そのこと以上に、カメラが少しずつながらずっと移動し、動いていることの方に驚きを感じます。そして、それらのショットがこれしかないという位置、フレームサイズ、コンポジションを獲得していることが真の驚きです。イリミアーシュと子分が風のなかを歩いているショット、濡れた地面で牛たちが交尾をしているショット、酒場にゆっくりとカメラが入ってきて主人が立ち上がるショット。原作の小説や完成された脚本から、どのようなリハーサルとカメラテストを経て、現場における長回しと移動撮影に至るのか、『サタンタンゴ』の具体的なシーンを例にお話ください。

タル・ベーラ それは本当にわかりません。あなたの質問は、たとえれば、料理人の方に「いま、そのおいしい料理をどうやって作ったのか」と訊くのと同じような性質をもっていますね。演出をするためには、感じなくてはなりません。料理をつくっている場合、もう少し塩を入れようとか、ハーブを加えようとか、スパイスをかけようとか、感覚的に味覚で感じながら調理をしていくものです。それと同じように、劇映画の演出にも決められたレシピがあるわけではありません。特に『サタンタンゴ』という映画では、原作小説に書かれたハンガリー大平原で起きるできごとを見せようとしたわけで、そのなかで自分がやらなくては行けなかったことは、映像にとって正しいリズムと正しいタイミングを見つけることでした。それが自分にとっては重要なことでした。なぜかというと、わたしたちの人生というものは、その空間のなかで、その時間のなかで起きているからです。それが、制作中の自分にとって最大の、創作の鍵となる問いかけになりました。もう少しをそれを深く掘り下げたいと考えた。その映画の物語にとって、正しい映画的言語を見つけなくてはいけなかったのです。

『サタンタンゴ』の映像で見せたかったのは、ハンガリー大平原のあり方です。その土地は本当に平らな平野になっており、それがどこまでもどこまでも続いていくような、何もない風景なんです。そのような土地、そのような風景をどのようにして映像言語で伝えることができるのか。そこには、もちろん自然が広がっているので、雨やぬかるみ、人間たちや動物たちを描きながら、その複雑な全体像を何とかしてとらえたい、映像で見せたいと考えたのです。大平原を前にして、どのような映像のコンポジションをとり、どのようなカメラワークを使いたいかと考えるときに、それは自分の頭でこねくり回すものではなく、向こうからやってくるものなんです。それはただ、起きるものです。それは立ち現われるものなんです。自分自身が撮影するロケーションの現場に座って、考え、そしてこの場面における主題、あるいは核になるものは何かと少しずつ理解していく。そうやって理解を進めながら、ただ撮っていくしかないのです。

ところで、『サタンタンゴ』のラストシーンでは、鐘の響きが聴こえてきて、それまで彼の見聞を書き記していた医師が「天の響きからと思ったら、魂の響きではなかった」というセリフをいいます。そして、窓をすべて閉めてしまう。この医師は村で起きることを観察しているわけですが、そこで起きる多くのことを見逃してもいる。映画、そして人生に必要なものはなんでしょう。照明、つまり光です。それをすべて閉じてしまうということは、物語や映画の終末を意味します。それだけにとどまらず、「世界を見る」ということに終止符を打つことでもあり、医師はもうこれ以上世界を見たくないと感じ、窓を閉じてしまう。彼がラストシーンで書いている文章は、実は映画の冒頭と同じことを書いている。そうやって映画の円環が閉じられるわけです。

たとえば、誰かに『ニーチェの馬』をどのように撮ったのかと訊かれたら、『サタンタンゴ』に比べて、あの作品の方が難しかったと答えることでしょう。なぜなら、室内のシーンばかりで構成された映画だからです。登場人物がテーブルの前にいて、窓際やドアの前に移動し、またテーブルの方へもどってくるといった動きが多かった。そのような映画を撮るにしても、とにかく現場で感じなくてはいけません。空間を感じながら、あるいは、場所がもっているリズムを感じながら、映像というものは自然に立ち現れてくる。もちろん、映画監督には撮影をして画を正しく見つけ、編集によって映像のリズムを見つける仕事があります。それは、監督のもつテイストからくる面もありますが、その場所で起きることに耳を傾ければ、自然に感じられるものなんですよね。

——おもしろいですね。話が映画を演出することの、核心の部分に入ってきているという感じがします。

タル・ベーラ 理解して頂きたいのは、まず、そこで何が起きているのかということを感覚しなくてはいけないということです。それが本物の、現実的な映画づくりです。映画をつくるなかで、自分がもつ知識に問いかけがくるわけです。そして、それを少しずつ変更しながら、慎重に押し進めていかなくてはならない。だから、それをどのように撮るかは自分が決めるものではない。それは感じること、感性の問題です。撮影の対象となる登場人物たちに共感し、思いを寄せる力の問題です。俳優の人たちはそれぞれが異なった個性をもっており、人によっては同意を求める人がいるし、他方で平手打ちを求めるような人もいます。ですから、監督はひとつの大きなオーケストラを前にした指揮者のように、そこで何が起きても、きっちりとまとめていかなくてはならない。それが映画監督のもうひとつの、本当の仕事だといえます。

『サタンタンゴ』

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