クリスティーン、ポールと武田純子さん(2007年 札幌市)
「視線の病」としての認知症
第14回 「認知症ケア」の夜明け
(前回 第13回 はこちら)
認知症という、不治で進行性の病を生きることにどんな希望があるというのか?
この問いに人々がどんな答えを出そうとしたのかを記録するために、私はこの連載を書いている。
この問いを発したのは誰か?
認知症と診断された当事者である。だが、その答えを求めたのは、当事者だけではなかった。
当事者が声をあげるということには、池に石を投げるのと似たところがある。ドボンと音を立て石が姿を消した後、水面に波紋が広がっていく。その波紋も、たいていの場合すぐに消え、水面はもとの平坦さと静けさを取り戻す。だが、当事者の声が石と違うのは、場所とタイミングによっては、何年にもわたって波紋が広がり続けるということだ。あたかも波紋が池から川、川から海に伝わっていくように、地球を一巡してなおも続いていく。そして、波紋の及んだ先々で別の当事者が声をあげ、その声を聞いたまた別の当事者が声をあげる。ドボン、ドボンと石を投げ入れる人々が各地に現れるように、連鎖反応が起きるのだ。
クリスティーンの声は目覚まし時計のベルのように響き渡った。その音に驚いて飛び起き、諦めかけていた人生をもう一度、前を向いて歩きだそうと決意したのが、前々回の冒頭でブリズベン空港に到着した札幌の5人組、「楽団FUKU」だった。
だが、どうやって?
クリスティーンの本に手掛かりを求めたが、本には「どうなったか」は書いてあるが、「どうやって?」がよく分からない。クリスティーンとポールのところに行って、直接確かめようではないかと決めたのだ。
既に書いたように、この5人組は、50代で認知症と診断された男性2人とその妻たち、そして2人が通うデイサービスの施設長の武田純子さんである。その中で、クリスティーンが投じた石の波紋を最初に受け止めたのは、武田さんだった。
今回は、武田純子さんを通して、クリスティーンが発した声がケア現場に何をもたらしたかを見ていきたい。
武田さんは1949年、北海道十勝生まれの看護師である。クリスティーンと誕生日が1日違うだけの、同い年だった。この「生まれた年が同じ」という、たいていの場合さして意味を持たない事実が、のちのち大きな意味を持ってくるのだが、今はそのことには触れない。
それよりもまず注目しておかなければならないのは、武田さんが日本の「認知症ケア」のパイオニアの一人だということである。彼女の目覚めは、日本の認知症ケアの夜明けでもあったのだ。
どんな眠りから目覚めたのか?少し時をさかのぼる。
日本で認知症が初めて社会的な問題として認識されたのは、1972年、有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』がきっかけだったと言われている。年間売り上げ200万部に迫るベストセラーになり、映画化もされた。その頃、認知症の人は、医療からも福祉からも見放された存在だった。医療機関にかかると、「治らないから家で介護してあげてください」と言われ、福祉施設では、認知症のある人は受け入れなくてもよいとされていた。家で抱え込むしかなかったのだ。家族の手に負えなくなった時、行く先としては精神科病院しかなかった。だが、入院すると、元気だった人があっという間に寝たきりになり、亡くなることが多かったので、なおのこと家族で抱え込むしかなかったのだと、多くの人から聞いた。本にも書かれている。(例えば、宮崎和加子・田邊順一著『認知症の人の歴史を学びませんか』2011年 中央法規)。そうした状況での家族介護の悲惨さを描き、問題提起したのが、『恍惚の人』だった。問題提起はしたものの、解は示さなかった。小説で悲惨が終わるのは、老人の死によってだった。
武田さんが看護師になったのは、『恍惚の人』が出版される直前だった。最初の20年ほどは急性期病院に勤め、心臓手術の現場を取り仕切るなどしていた。小柄だがクルクルとよく働き、よく気がつき、責任感の強い武田さんは、一瞬の判断や措置が命に関わるような場面で、執刀医や他のスタッフから頼られる存在だっただろう。
その頃、武田さんの目に認知症は映っていなかったが、認知症の人の受け皿が各地に雨後のたけのこのように作られていた。「老人病院」である。老人病院とは、「介護が必要な高齢者を入院させ、死ぬまで預かる病院」(宮崎和加子の前掲書)である。本来入院する必要のない人が他に行き場がないという社会的な理由で入院するということで、「社会的入院」と言われていた。その実態は、多くの場合、「安住の地」とはとうてい言えないものだったようだ。
武田さんが初めて認知症の人と出会ったのは、1988年。札幌の老人病院で働き始めた時のことだった。それまで働いていた「病気を治す現場」から、「治せない人たちを預かる現場」へ、全く異なる風景が広がっていた。そこでは、自分で食事をとることがむずかしいお年寄りには、血管や鼻、胃などにチューブを入れ、栄養を流し込んでいた。本人は嫌がってチューブを抜こうとするので、ひもなどで手足を縛ることが日常的に行われていた。
武田さんにとってもっとも耐え難かったのは、延命治療だった。余命が長くないとわかっていても、生きている限り「治療」を行うことを多くの家族が望んでいた。亡くなる数時間前まで抗がん剤を注射し、100歳を目前に心停止した人にも人工呼吸器を付け、心臓マッサージを行った。肋骨が折れ、手がめりこんでいった感触を、武田さんは今でも覚えている。「年寄りを食い物にしている」と感じ、かわいそうでならなかったという。
自分たちの行っている医療は誰のためのものか? 1991年、同じような疑問を持つ医師などと老人病院を飛び出して診療所を設立。1994年には、診療所に付属する老人保健施設を作り、その看護師長になった。入ってくる人のほとんどが認知症だった。暴言、暴力、徘徊、妄想、失禁、便いじり、異食など、なぜそんなことをするのか、理解できるものではなかった。「まるで宇宙人みたい」と思ったこともあった。患者のための医療をしようと病院を飛び出した武田さんだったが、何を思っているのかわからない人たちに、どう関わればいいのか、手掛かりをつかめなかった。状態がよくなるわけではなく、「ただ預かっているだけ」だったという。
そんな中で最初の「目覚め」があった。きっかけは1996年、看護協会のモデル事業を引き受け、「グループホーム」を始めたことだった。グループホームとは、家庭のような環境で少人数のお年寄りとケアの専門職とが共同生活を行うケアの形である。そんなことで何か違いがあるのか?と武田さんも思ったものの、やってみるしかなかった。それほどまでに行き詰っていたのだ。6人のお年寄りと一つ屋根の下で一緒に生活し、「一人一人の気配を感じる」時間を持つうちに、「認知症の人は普通の人だ」と思うようになってきた。そして、どう関わればいいかがおのずとわかってきたという。
翌年には、認知症のグループホームの創始者であるバルブロ・ベック・フリース医師の教えを受けるため、私費でスウェーデンに赴いた。そこで武田さんが学んだのは3つの原則だった。
1.認知症の人の尊厳を大切にして、ゆっくり自由に暮らせるようにする。
2.本人の力が発揮できるように支援する。
3.最期の時まで、苦痛がなく、QOL(生活の質)の高い暮らしをすることが大切。
今見ると、あまりにも当たり前のことで、スウェーデンまで行く必要があったのかとすら思うだろうが、当時の日本のケア現場の常識からすると、とうていありえない「理想論」だった。
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