【Interview】「撮る人」と「ものを書く人」の17年 『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』中村裕監督インタビュー

昨年99歳で逝去した作家・瀬戸内寂聴(1922-2021)の、晩年の知られざる一面をカメラで記録した稀有なドキュメンタリー『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』が、現在公開中だ。監督は、本作が映画としては初監督となる中村裕。通称「裕さん」。実は筆者(佐藤)と職場を共にする先輩テレビディレクターでもあるのだが、本作は『いのち  瀬戸内寂聴 密着500日』(NHK)をはじめ、これまで何作も放送されてきた裕さんによる寂聴さんに関するドキュメンタリーの集大成ともいえる力作だ。
ドキュメンタリーは取材者と対象者の人間関係が大きく問われる表現ではあるが、17年にもおよぶ「裕さん」と「先生」の関係のありようは、「プライベートな」とか「濃密な」とか、ありきたりの言葉を軽く凌駕する、人間と人間の豊かな“交流の時間”の記録でもあった。(取材・構成 佐藤寛朗)


ドキュメンタリーを志すまで

ーー瀬戸内寂聴さんという人間の魅力と、取材者として通ううちに、自分を晒しながらその魅力をとらえていく中村監督(以下、裕さん)の物語として、1冊の小説を読んだ読後感のようなものをこの作品に感じました。はじめ取材者と被取材者だったおふたりの関係性のありようが、17年という長さの中でどう変化していったのか、それを中心にお聞きしたいと思っています。
まずは裕さんのキャリアについてですが、そもそも大学を出て一般企業に就職されて、そこからどう、ドキュメンタリーに関わられることになったのですか。

中村:中学生の頃は、友達の影響で映画をたくさん見て映画監督に憧れたんですが、現実には撮影所は人を採らなくなっていたし、自主映画を撮ってキャリアを上げていくまでしてやりたいとは思っていなかったんですよね。高校からラグビーを始めて、大学ラグビー部の先輩の勧めでライオンに就職して、ウイークデーは営業、週末はラグビーをやっていました。

営業の仕事は嫌ではなかったのですが、毎日同じ人間としか会わないじゃないですか。例えばテレビや新聞を見てこの人面白いなと思った時に、僕の中では沢木耕太郎さんというノンフィクション作家が一番の対象であったんですが、この人に会いたいと思っても「ライオンの営業をやっています」って言ったら、ただの読者と思われてしまう。会いたい人に会う大義名分を立てたい。それが大きなきっかけでした。

あとは、ライオンにいる頃CMに出演する機会があって、撮影現場にいる人たちが楽しそうだなって思ったんです。いい大人がガムテープとかを持って一生懸命走り回っているでしょ? 何もないところから形になるものを生み出して、見た人が触発されたり感動したりする。それに憧れたんですよ。

――CMといえば、裕さんは、「チャーミーグリーン」という洗剤のコマーシャルに出演されています。あれは在職中だったんですか

中村:最初は広告代理店や制作会社の人など、縁故のある人が出演していたものが、人気が出て「出たい」と投稿が来るようになって、その中から選んでいたと思うのですが、たまたま人がいなくて「お前出ろ」と言われて。コンテを渡されて「前回よりはるかに難しいステップで」と書いてあるけど、具体的には何も書かれていないんです。稽古場で振付師に「やってみて」とか言われても、できるわけがない(笑)。結局、買い物袋を持って家で真面目に練習して、神戸でロケをしたんですが、現場では、画の中にファンタジックな家並みの一角を作るというので、電信柱の緑色のソフトカバーを、全部隠したりしているんです。そういう作業を、スタッフがテリトリーを持ってやっているのを、面白がってみていました。

そうこうするうちに龍村仁さん*1が率いるオンザロードという会社から「人を採りたいんだけど、来ませんか」って話が来て、全く偶然だったんですけど受けたんです。龍村さんは、僕が卒業した後の早稲田のラグビー部を、TBSのゴールデン帯の番組で撮っていて、それを新入社員として手伝っていたラグビー部の佐々木卓(現・TBS社長)という同期が「面白い奴がいますよ」と進言してくれたこともあって、まあ蛮勇を振るって移っちゃったんですけど。

――裕さんのCM出演エピソードは、先ほど名前の出た沢木耕太郎さんの「彼らの流儀」の一章にも書かれています。そのことと、裕さんのノンフィクションやドキュメンタリーへの志向とは関係があったのですか。

中村:オンザロードに入った時には頭になかったですね。ただ、ドキュメンタリーを制作する会社に入ったことで、会いたい人に会いに行ける大義名分のチケットは手にしたんです。沢木さんにも連絡して親交ができたし、その後もたまに誘われて、お酒を飲んだりしました。沢木さんの取材を受けたことは僕にとっては大きくて、取材を受ける心理というか、意味がよく分かったのもその時です。

「彼らの流儀」の最後に「ちなみに、中村家ではチャーミーグリーンは使っていない」と書いてあるんですが、そのゲラを読んだ時に沢木さんに「”今も使っている”って書いてもらえませんかね」と言ったら「嘘になる」と怒られて。

「”使っている”と書いてほしい」というのは、その実、10万円のギャラもらったとか、CMに出るプロセスとかが赤裸々に書いてあって、沢木さんからすれば事実を淡々と書いているだけなんだけど、ライオンの広告制作部から「イメージが悪くなった」と怒られたんです。「CMはファンタジーの中にあるのに、なぜリアルを見せないといけないのか」と言われて、ちょっと幻滅したんだけど、要は僕が前職に対してカッコつけたかったんです。自分が矮小化されているように感じて「もうちょっとフレームアップしてほしい」みたいな。そういう心理が取材を受ける側に生じるということは、以後肝に銘じました。自分が取材をするようになって、出演にはリスクやデメリットがあることも説明するようになったのは、その時の体験があるからです。

――その話は、今回の寂聴さんへの取材の仕方に繋がる話だと思います。制作会社に入って、ディレクターとしてドキュメンタリーが撮れるようになるまで、それから結構時間がかかったのですか。

中村:5年くらい通販番組のADやディレクターをやったのですが、普通の制作会社のような、例えばニュースに企画を持っていって足がかりを掴む、みたいなことは全くありませんでした。龍村さんにも撮影助手としてついたのですが、彼が作るものは結構特殊なドキュメンタリーで、音楽的な才能やセンスが凄く求められたりするから、ある時怒られて、反発して、干されるというと変だけど、覚えめでたくなくなっちゃったんですよ。それで、ヒマになっても給料だけはもらっていたから、それを良いことに、当時テレビマンユニオンにいらした是枝裕和さんに突然電話したんですよ。フジテレビにNONFIXという枠があるのを知って、自分で企画書を書いて相談に行ったら、数日後にフジテレビに一緒に行きましょうといって、連れていってくれたんです。そこからですね。

『先生ひどいやんか!大阪丸刈り狂騒曲』(94)ってタイトルの、大阪市内に残っていた丸刈り校則をめぐって、校則が必要な大人達と、反対する中学生が組織を立ち上げるのを、その中学校を取材しながら撮ったんですが、NONFIXって関東ローカルなのに、番組が放送されてほどなく、大阪市内の丸刈り校則が撤廃されたんですよ。稚拙な取材、稚拙な編集でしたけど、あれが自分の出発点だと思っています。今考えるとNONFIXを年間1本やっても会社は儲からないんですが「何も仕事していないわけじゃないからいいよ」と言ってくれて、その後も『ドキュメンタリーの定義』(95)や『シリーズ東京・東京を嗅ぐ』(96)というのをやらせてもらったりしました。

才能は無くても小説の1本は書けるように、ドキュメンタリーの1本は撮れるじゃないですか。今、自分が一番興味があることや、身の回りに起きたことをそれなりに丁寧に撮って、人にわかるように編集すれば、見てもらえるものになると分かったので、この仕事をしていくしかないと思いました。

映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』より

▼Page2 瀬戸内寂聴さんとの出会いと関係 につづく


*1 龍村仁(1940-) 映画監督、映像ディレクター。1963年NHK入局後、ディレクターとして「18歳男子」「海鳴り」などの話題作を製作、1973年「キャロル」(のちにATG映画化)制作を機にNHKを退社、フリーとなり、のちにオンザロードを設立、『ガイアシンフォニー 地球交響曲』シリーズ(92-2021 現在第九番まで制作)などを手がける。