【Interview】福島の“不安”と向き合う――『A2-B-C』イアン・トーマス・アッシュ監督インタビュー


福島で生きる子供たちに、今何が起きているのか——
在歴13年、イアン・トーマス・アッシュ監督の見た福島、そして日本

本作のタイトル『A2-B-C』 は、甲状腺検査における、膿ほうやしこりの大きさを表す判定記号のこと。膿ほうやしこりを持つ子どもが増えている、という結果に、やがてガンや白血病になるかもしれないと不安を訴える福島の子どもたちと、その親が主に登場する映画だ。
実は、この判定結果と原発事故による放射線被爆との因果関係は明らかではない。劇場公開にあたっては、そのことがひとつの壁となった。情報掲載を見送ったメディア曰く「確証のないものは、事実として報じられない」と。では、この映画が描いている「不安という事実」は、どのように捉えたら良いのだろうか? そのことを、イアン・トーマス・アッシュ監督と共に考えたいと思った。
取材にあたっては、山形国際ドキュメンタリー映画祭の“デイリーニュース”で『A2-B-C』の記事をまとめた鈴木規子さんが、再びイアン監督の話を聞きたいと申し出てくれた。この映画の話題の中心は、決して「日本在住のアメリカ人監督が福島を撮った」ということだけではないはずだ。
(聞き手・構成=鈴木規子、構成協力=佐藤寛朗)




海外映画祭での「福島」の反応

——山形国際ドキュメンタリー映画際で『A2-B-C』を初めて見させて頂いてから6ヶ月経ちました。その間たくさんの映画祭に参加され、受賞もされています。世界各国での反応はいかがでしたか?

イアン どこの国でも映画の内容にはびっくりされますが、それが議論になるかというと、ほとんどならないですね。たぶん映画祭に来ようと思う人、この映画を見ようと思う人は、もともと原子力の問題に関心のある人たちが多いんですよね。

唯一、ポーランドの“ファイブ・フレイバーズ映画祭”で上映したときは、ものすごい議論になりました。お客様の半分以上が原発OK側でしたから、びっくりしました。今、日本はポーランドに原発を売ろうとしていますが「日本が原発を作れば、皆がお金持ちになって、たくさんの仕事ができますよ」という売り方をしていて、ポーランドの仕事やお金がない人たちからすれば、やっぱり原発は欲しいと思うわけです。「せっかく私たちが頑張ろうとしているのに、何でやりにくくなるようなことを言うんだ」と言われて、70分の映画に対して、90分以上の議論になりました。

僕は日本からわざわざから来たので、福島のことを話したいと思って話を戻そうとするんだけど、どうしてもポーランドの政治や経済の話になってしまう。でも、それはそれで良いのかな、と思いました。映画をきっかけに議論が始まるのが、皆さんにとって一番大事なことなので。

だから、映画館でやらない限りは、普通の人がどう思うかはまだわからないです。逆輸入という形で日本に戻ってきて、映画祭や自主上映以外の劇場公開は今回が初めてなので、とても楽しみにしています。

——劇場公開にあたり、逆輸入(海外の映画祭で多数上映されてから、日本で上映する)という作戦をとったのは、どういう理由からなのですか?

イアン 完成直後、日本で何人かに見せた時に「これはどうかな」と言われたことがあって、「最初に日本で上映するのは無理だ」と思ってしまったんです。だったら、前に作った作品でできた映画祭とのコネクションもありましたので、できれば賞を取って(笑)、逆輸入という形で話題になれば、上映できるかもしれないと思いました。

——イアン監督の経歴を調べさせていただくと、アメリカとイギリスの大学院で映画を学ばれて、2006年の「Visions du Réel」(スイス・ニヨンのドキュメンタリー映画祭)では『the ballad of vicki and jake』という作品で、グランプリを取られています。これはどういう映画ですか?

イアン 麻薬中毒になったホームレスの若いお母さんの話です。最新の『-1287』は違うけど、その作品も、福島での映画の撮り方とあんまり変わらないんですね。ホームレスというテーマにしても、福島というテーマにしても、僕の映画は全部子どもに対する目線がメイン。あとは、子どもと親の関係ですね。そのことはあまり自覚していませんでした。『A2-B-C』を観た自分の大学の先生に、なぜいつも子どもについて撮るの?と聞かれて、言われてみればそうだな、と。

大人は自分で意思決定できるけど、子どもは親に言われる通りにしか動けませんからね。だから彼らのことは、いつも心配になるんです。


『A2-B-C』より



311から、福島へ

——映画の話に入る前にまず聞きます。2011年3月11日は何をしていましたか?

イアン 都内の友達宅に遊びに行っていたんですが、「あっ、死ぬんだ」と思いました。道に大きなひびが入って、全部そこに落ちて死ぬ、と思ったけど、怖くはありませんでした。揺れがおさまると、冷蔵庫の中身が全部出て、トイレの水も飛び散っていたので、しばらく掃除をしていました。夜の7時、8時ぐらいに初めてテレビをつけるまで、東北であんなに大変なことが起きているとは知りませんでした。

それでテレビを見て驚いて、最初の2日間はどうしようかと思っていたら、兄から電話がかかってきて「何やってんの? あんたはドキュメンタリーを作る人だから撮りに行けば?」と言われて。そうかなと思って、翌日水や乳製品やパンなんかがない状況を撮影しに広尾(東京都港区)に行きました。あの街は普段は外人がいっぱいいるのに、皆帰れと言われて、ほんとうに誰もいなくて。

そのうちに、屋内退避になっている南相馬市の福島第一原発から19キロ~30キロの圏内に子どもたちがまだ住んでいて、仕方がないから学校を再開すると新聞に書かれているのを読んだんです。意味がわからない、と思いました! 30キロ圏内は屋内退避になっているのに、30.2キロのところにある学校を再開し、屋内退避圏内の子どもをバスで通わせるなんて、どういうことだ!? と思って、調べに行こうと決めたんです。

——それが福島に行く最初の動機であったと。放射線被害のことは、どのくらい頭にありましたか?

イアン 原発事故が起きるまでは、考えたことがなかったです。よく(福島の取材時に、放射線量を)計っているんですよね? と言われますが、計っていません。結局線量の高いところに行くので、知りたくない。線量が高いから帰ります、とはならないんでね。福島に住むしかない皆さんの気持ちが、ちょっとだけ分かります。

怖くないわけじゃないですよ。でもこれは僕のポリシーで、自分の責任でやっていることで命が短くなるのであれば、それはそれでいいんです。何もしないで長生きするよりは、精一杯生きる短い人生の方がいい。とにかく、今やらなければならないと思うことを、僕はやらせて頂いています。

——実際に福島に行ったのはいつ頃ですか?

イアン まず3月20、21日ぐらいに石巻に行きました。物資を届けに行く人の車に同乗させて頂いて、途中、あそこが福島だよって言われたときに、次はここに来るぞって思いました。

『the ballad of vicki and jake』のカメラマンは僕の大学院の先生なんですが、その先生に電話をして、今度福島に行こうと思っているんですが、と言ったら、「僕も行く」って言ってくれたんです。来てほしいと思って電話したけど、「来てください」とは言えなかった。危ないかもしれないじゃないですか?  何も分からないから。でもその先生は来てくれた。で、翌日には一緒に福島に行って、『A2-B-C』の前作となる『グレー・ゾーンの中』という映画を撮りました。その後、YouTubeには、幾つかのショートフィルムもアップしています。『A2-B-C』の取材は2012年の10月からの4ヶ月ですが、その間、福島にはほぼ毎月通っていました。
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