撮れたものの内容が 作品の長さを決める
——話を聞くと、今回入らなかった部分にも、面白いエピソードがたくさんありそうです。どれぐらいの時間、カメラを回したのですか。
関口 撮影期間は前と同じ2年間ですが、『毎アル1』の60分テープ150本分に対して、『毎アル2』は100本までいかないですけど、80本ぐらいはありましたかね。
——しかし、結果的にできた作品は51分です。日本の映画の基準で行くと51分は短いですが、関口監督の他の作品も同じぐらいの長さなんですね。『毎アル2』をその長さで良し、とした根拠を教えていただけますか。
関口 前々作の『THE ダイエット!』は58分、監督デビュー作品の『戦場の女たち』でも55分です。『毎アル1』ではじめて90分を超えたので、自分でもびっくりしたんですけれど。
映画の尺は一体誰が決めるのか?という大きな問題がありますよね。プロデューサーや映画館主だと、興行として1日に何回か上映をするために、例えば60分以上90分以内にする、という発想があると思うんです。でも私は、映画の尺を決めるものは、結局、撮れたものの内容だと思っています。
長い映画にすれば、何でも入れられる、というか入れたくなっちゃうんじゃないですかね。でも私は、映画は引き算だって教わったんですよ。足し算ではなく引き算をしていく中で、本当に必要なものだけを見極める。そこからストーリーをどう紡ぐかが勝負であって、ドキュメンタリーでも劇映画的な構成を必要とするのだと思いますね。その経験を経て、ドキュメンタリーから劇映画の監督になった人も多い。それは、編集の基本をそう教わっているからだと思うんです。
私も、尺が長くて飽きさせてしまうよりは、短くてお客さんにもっと見たいと思わせたい、といつも思っています。その意識は、徹底的にオーストラリアの映画学校で叩き込まれましたね。私自身、のんびりしている割には、短い尺の中で何を見せられるかを考えるのが性に合っていて、そこにチャレンジを感じるんです。
パーソン・センタード・ケアを学びにイギリスに行く
——それでは、映画の具体的な中身についてもうかがいっていきたいと思います。
先ほども言いましたが、『毎アル2』では、関口監督が「パーソン・センタード・ケア」を学びにイギリスへ行く話が核となっています。「パーソン・センタード・ケア」の内容は実際に映画をご覧いただくとして、本作の中心にそこを据えた意図を教えてください。
関口 ひとつには、介護に限らず、この日本の今の状況がかなりヤバいんじゃないかという危機感が、私の中にありました。
例えばこの6月(取材時)、私は右股関節全置換の手術のために入院することになって、初めて母のもとを4週間も離れるんですけど、そういう状況になると、ふつうはみんなショートステイに入れるらしいんですね。ところが、そうすると認知症の人たちが、廃人のようになって帰ってくるって聞きました。
ショートステイで働く介護士さんは、一生懸命やっているのですが、やる方向性が間違っていると思うんです。上げ膳、据え膳で、認知症の人たちが何も分からないという大前提で世話をしちゃっているから、ショートから出てきた時には、自分の家のトイレも分からなくなっていることが多いらしい。こういったことが、今の日本ではごくあたり前に行われているんですよね。
家族もそうだし介護士さんもそうだけど、当事者が一生懸命やることにしか、評価の尺度が無いと思うんです。政府は政府で「介護は家でするのが一番いいに決まっている」とか言って、馬鹿なエリートが決めつけている。介護される側の身になった発想が全く無いんですね。私はもう日本はダメ!と思って。町医者の先生にもダメ!と思う中で、「パーソン・センタード・ケア」という、イギリスの心理学者が考えた概念に出合ったんですよ。
パーソン・センタード・ケアは、日本に入ってきて10年ぐらい経っているのですが、国立長寿医療センターの遠藤先生(『毎アル1』『毎アル2』に登場する医師)でもまだ訳しきれていないとおっしゃるんですよ。だからこそ知りたいと思ったんです。じゃあ、そのパーソン・センタード・ケアって何だ?というのを、発祥の地であるイギリスで学びたかった。これって映画監督として、当然な知的好奇心ですよね!(笑)
——「パーソン・センタード・ケア」ですが、簡単に言うと、その人の立場や歴史に寄り添って面倒をみる、という理解で大丈夫でしょうか。
関口 はい。認知症の人を理解するために、その人の生きてきた歴史を知り性格を知る。社会や他の人との関係を見る。いってみればあたりまえのことですよね。でも、認知症という色眼鏡をかけちゃうと、なぜそれができなくなるのか。認知症だから、何を言っても分からない、まともだった母親がおかしくなった、というのが今の日本の解釈の実情でしょう。
特に認知症は初期が苦しいんですね。本人が、自分がおかしい状態を認識できますから。ガンは進行したらそれで終わりだけど、認知症は進行した中等期のほうが、本人の苦しみが終わるんですよね。母も進行して「今は幸せ」と言うし。
ところが今の日本のやり方は、認知症は早期に発見して、薬を飲んで進行させないように歩かせて、計算でもやらせたほうがいい、という。それは初期の辛いところにずっといろ、という理屈になるのではないのか。本当に本人にとってそれが幸せなのかと聞くと、ほとんどの医者の中には答えがない。だって、これってとても哲学的な問いかけなので、脳外や内科の医者では、無理なんですね。
だから私にとって話しやすいのは、海外の先生なんです。映画に出てきたように、ベンチに座ってフラットな関係の中で先生と話せちゃう。あの雰囲気の中だから、自分が抱えている問題や、不安をごく自然に話せるんですよ。
−—「パーソン・センタード・ケア」を学習して、監督が強く感じられたことはありますか。
関口 今回撮影をして確信的に思ったのは、多くの人が認知症になることで、ついに日本流の「猫かぶりのいいこちゃん文化」が終わる、ということです。私としては、それはもう万々歳ですよね(笑)。今までは、認知症は進行したら大変だというところで、体操とか、あれこれやらせていたわけ。そうすると「こんなのはやりたくない!」とか「上着を脱ぎたくない!」とかはっきり認知症の皆さんが意思表示をし出して、一斉に同じことはやりたがらないのね。私はそこに拍手をしたい!もういい子ちゃんじゃなくていいんだ!と。ひとりひとりの個性が認められる介護が、パーソン・センタード・ケアなのだと思います。「ジェンガゲームは好きだけれど体操は嫌い」とか、そういうことをきちんと理解して、実現してくれる介護をして頂きたい。
これから団塊の世代が定年退職して、いずれ介護を受ける時代になります。全共闘時代に戻って角材を振り回したら面白い!(笑)でも、今のまま一斉に体操をするような介護のやり方を見ていると、彼らも最後まで管理されてしまうのかと。いや、頑張って角材を振り回して欲しい(笑)。今の一般的な介護の在り方のままだと「この人はなんで角材を振り回すんだろう?」という個人の歴史までは、探ることができないのではないでしょうか。
私は今年、57歳になったんですが、高度成長期に生を受けた我々の偏差値偏重教育とか、高い点を取ってエリートを目指す、という日本の価値観が、大きな曲がり角にきていると思います。エリートイコールプランAしかない人たちなのね。人生におけるプランB、プランCがない。大きな挫折を知らないと、そこから外れるのにも勇気がいりますからね。結局、社会の多様性が無いと、認知症に対しても原発に対しても対応できるわけがないんです。
だから『毎アル2』は、ある意味では、パーソン・センタ―ド・ケアの紹介なのですが、何も認知症に限らず、子どもたちの教育もそうあってほしい、と思います。一人一人の個性を伸ばす教育を、と言っている割にできているのかなあ。パーソン・センタード・ケアは、私の中ではもうこれしかない、って思っている認知症の介護の考え方なんですね。認知症人口は、やがて800万人になると言われている時代の中で、さて、これからどうするの?ということへの、ひとつの回答だと思っています。
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