|何かが当たり前になるとき――『Missing Half』(ネパール)
――まとまった作品はネパールで撮られたのが最初ですか?
藤元 当初は新聞社のインターンで行ったんですね。通っていた大学とネパールに結びつきがあり、つてで新聞社を紹介してもらいました。ただお祭りや交通事故の写真なんかを撮るだけの新聞社の仕事だけだとぜんぜん面白くなくて、休みの日に勝手に自分のプロジェクトを撮りに行っていましたね。
――人身売買のシリーズ『Missing Half』が強烈です。
藤元 このシリーズはネパールに働いていた頃に撮影を始め、今年初旬にネパールに再び出向き完成をさせました。カトマンズから比較的近い場所にあるランタン山脈の外れにある電気も通っていない村で撮影をしました。当然外国人は誰も行かないところでしたね。初めて外国人に会ったという人たちもすごく多かったので、最初は村人達との信頼形成がとても大変でした。タマン族という不可触民の部族です。
――そんな誰も行かないようなところにどうやってたどり着いたんですか。
藤元 カトマンズで知り合った新聞社の人が、カトマンズ北部には帯状に人身売買が多い地域が固まっていると教えてくれたんですね。だからその辺り行けば地元の人は何か知っているだろうなと思って、とりあえず向かいました。街に着くと、エイズの人たちが集まって暮らしている小さなNGOがあったんですね。 まずはそこに泊まり込み、みんなと友達にになりました。彼らが教えてくれたのが、その街から、バスで8時間くらいガタガタの道を走り、さらに5時間程山道を歩いて、辿り着くギャンフェディというタマン族の村だったんです。
辿り着いたものの、最初はどうしていいかわかりませんでした。村の中心に一軒だけ、かんたんな食料品なんかを扱った商店があったんです。そこの女性のオーナーが、微妙に英語がわかるようで、最初はその人にずっと通訳してもらっていました。なんで英語がわかるのかなと思っていたら、彼女自身が昔インドの売春宿で働いていたことを教えてくれました。
自分の売春宿での経験を得意そうに話す彼女の姿をみて、人が売られていくことや自分が売られたことに対する嫌悪感がないことにびっくりしましたね。インドの売春宿で働いた経験は、むしろ村では彼女のソーシャル・ステータスになっているようでした。多くの村人が読み書きさえできない中で、デリーという都会を知り、富をなしている。実際に村で目立つのが彼女の様な女性ですから、売られていくことに抵抗を感じていない女の子も多いと感じましたね。人身売買には、売られてゆく一瞬の悲しみの姿だけではなく、継続されていく中で染み付いた生活の臭いがするものなのだと感じました。
――人が売られていくまさにその場面が撮られています。どうやって撮ったのですか。
藤元 日程が合う日は村に泊まり込んで、それを何度も繰り返す中で村人達と仲良くなりました。その流れで、毎年12月に近くの村で行われる大きなお祭りでは、混雑に紛れて警察の目をごまかしやすい為、たくさんの女の子が売られていくという話を聞きました。お祭り当日には、インドの売春宿からたくさんのブローカー達が訪れて、次々と女の子達を買っていました。
――フォトストーリーの並びが巧みです。紙幣を大写しにした写真のあとに、おじいさんの強烈なクロース アップがつづきます。あの表情、皺、目に、すべて刻まれているようにさえ思います。
藤元 彼が娘を売ったのはもう30年前の話なんですね。思い切って、売ることになった時の話を聞くと、突然彼の表情が変わりました。まだ人身売買が今程当たりまえではなかった時代にそれを経験した年配の方々のほうが、心に痛みを持ち続けているように感じましたね。何かが当たりまえになると、それ以外を非常識とすることでしか世の中を疑えなくなる。村という狭いコミュニティーでは尚更です。大小問わず、どんな社会にもそういったことはあります。
▼Page3 「車窓から見える暮らしに自分の不安を重ねた」へ