【Interview】ドキュメンタリー・フォトグラファーの肖像 #01 友となり、隣人となり、暮らしのなかでシャッターを切る――藤元敬二さん

『Abandoned Region』より © Keiji Fujimoto.

|車窓から見える暮らしに自分の不安を重ねた――『Abandoned Region』(北朝鮮)

――ネパールのあとも、世界各地で写真を撮られていますね。行き先やテーマはどんなふうに決められているのですか。

藤元 ネパールの後、しばらくはニューヨーク在住の写真家の下でアシスタント兼フォトリタッチャーのようなことをしていました。ただこれが性に合わなくて(笑)。そんな日々にフラストレーションを抱えていたときに、やはりドキュメンタリーを撮りたいと思って、とにかくきな臭い場所に行こうと思いました。

世界で危なそうな場所、あまり撮られていない場所はどこかと考えて、北朝鮮だと思ったんです。ただ、いきなり入国しようとしたら許可を取るのもたいへんだし、入れたとしても撮れるものはかぎられている。中国側の国境がゆるいと聞いていたんで、そこから何らかの形で撮りたいと思い中国へ向かいました。吉林省の延辺朝 鮮族自治州という、北朝鮮とロシアに囲まれた場所でした。とりあえず北朝鮮との国境橋が架かっている 図們市へと向かい、夜な夜な地元のおっさんたちと酒呑んだりしながら情報収集をしました。

彼らの話によると、脱北者や密輸が多いのは、もっと南の、森が密集した地域ということでした。オレ、バイクも車も頭の病気で運転できないんですよ。歩くしかないから、とりあえず国境を南下していって、途中に家があったら泊めてもらって。一週間くらいかかりましたかね。国境の脱北者が多いといわれる地域へ来たときに巡回中の中国警察に捕まりました。すぐに釈放されましたが、それで帰るわけにはいかなかったので、またちょっとポイントを変えて国境付近を歩いていたら、また捕まったんですね。本来は国境付近の林なんかは外国人立ち入り禁止区域なので、「民家に泊めてもらう方式」で行っていたら、そのうちに地域の人たちが 通報し始めて。通報されては捕まって、ということを何回もくりかえしていました。

これ以上捕まったら中国にいられなくなるぞと思って、「そうだ、住めばいいんだ」と(笑)。国境にテントを張ってそこに住んでいたら、森に身を隠せるし、中国の警察に捕まることもない。そして2月の終わりから 国境にテントを張って暮らし始めたんですよ。ただその時期でも国境はマイナス30度になるんで、とにかく寒くて。しかも国境に向かう途中のバスにあったかいダウンを忘れてしまう(笑)。あまりに寒いから、持っていた服をぜんぶ着て、靴下は四重にして寝袋にくるまっていました。一日中震えているような日が何日かつづいて、さすがに帰ろうかなと思っていたら、ちょっとずつ気温が上がり始めたんです。

 

『Abandoned Region』より © Keiji Fujimoto.

 

――どれくらいテントで過ごしたんですか。

藤元 全部では数ヶ月に渡りますが、2週間に一度は食料調達と休養で街へと戻っていましたね。住み始めてしばらくした頃、当初は森のなかにテントを張っていたんですけど、国境が僕が思っていたよりも穏やかな雰囲気だったので、どうせなら景色のいいところに移ろうと思って、川沿いの、北朝鮮からまる見えのところにテントを移してしまったんです。日中は撮影をしながら、対岸に暮らす北朝鮮の人に手を振ったり、話したりもしていました。

数日後の早朝、テントをたたく音で目が覚めました。誰だと思ったら北朝鮮国旗のついた服を着た兵士が立っていました。半分寝ぼけていたんですけど、相手がパスポートを求めていることがわかり、とりあえずパスポートを渡しました。目が覚めてくると「やばいぞ」というのがわかってきて、戻ってきたら連れていかれるなと。逃げようと思ってカメラを鞄に詰めていたら彼らが戻って来ました。連行を促され、仕方ないから、荷物をまとめて付いていくふりをしました。そのあいだにどうしようかなと考えていて、親より先に死ぬのはまずいから殴って突破するしかないな、という結論を出していました。素直についていくふりをして、兵士達が後ろを向いた瞬間 に頭を殴って、ひるんだすきに銃を奪って、使い方がわからないのでそれを草叢に捨てて。もめていたら、他の北朝鮮兵士達が草むらから表れて銃を向けられました。抵抗の仕様がなくなったので、手を挙げると、靴ひもを抜かれ、彼らと共に凍った川を渡り北朝鮮へ連行されたんです。

北朝鮮に連行されてから最初の2日程は国境の兵舎で過ごしていました。兵士達はみんなオレのことを朝鮮語のペラペラなスパイだと思っていて、朝鮮語で話かけてくるんですよ。「わからない」と言っても「わからないふりをしているんだろう」と。喧嘩をして興奮していたこともあって最初は怒りの感情しか沸かなかったのですが、落ち着いてくるとさすがに「どうしよう」という気持ちになりました。2日程して、車で一時間ほど走った場所にある大きな町の警察署へと連行されました。車窓から見えた北朝鮮やそこに暮らす人々の姿は、自分の不安な気持ちと結びつき、今でも脳裏に焼き付いています。

辿り着いた警察署では4人の警官達と通訳の中学生が待っていました。その頃にはオレも自分の反抗的な態度を改めることを決め、北朝鮮から解放される為には、おそらく彼らを敵にまわすよりは、味方に付けた方がいいと思うようにな っていました。そして生活態度や礼儀をよくしていったんですよ。例えば、ごはんのあとに「おいしかった」と伝えたり、とりあえず笑っておいたり。悪気のないやつなんだと思われるようにしようと心がけました。毎日毎日同じような取調べを受けながら4日ほど過ぎたある朝、突然「帰っていいよ」って言われました。

最初は 信じられなかったのですが、カメラも手荷物も全て返してくれ、ずっと僕の担当してくれていた女の警察官と、通訳の男の子、仲良くなっていた看守達が車で最初に捕まった国境のポイントまで送ってくれました。雪解けの時期だったので、川面の氷も随分溶けかかっていたのですが、彼らは最後まで僕が川を渡るのを見送ってくれていました。最後は川の向こう岸でみんなで手を振ってくれました。

――よく生きてましたね(!)。

藤元 あのときは泣きましたよ。でかいカメラをもって国境にテント暮らしをするなんて、一般人ではないことはわかっていたはずなのに、上には伝えずに特別に解放してくれたんだと思います。釈放後は、興奮状 態から、日暮れ後にもかかわらず靴ひものない靴で街まで続く徒歩3時間ほどの土路を休憩もいれずに ひたすら歩き続けたことを覚えています。人生で一番気持ちのいい汗をかきました。

 

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