【Interview】福島の避難指示区域にひとり暮らす男を追った『ナオトひとりっきり Alone in Fukushima』 中村真夕監督インタビュー

福島第一原発から12キロの福島県富岡町。現在も「避難解除指示準備区域」に指定され、夜間は人の立ち入れない無人の町にひとり残り、ダチョウや牛、猪豚や犬猫と暮らし続ける男がいる。松村直登さん、55歳。『ナオトひとりっきり』は、『ハリヨの夏』(06)『孤独なツバメたち〜デカセギの子どもたちに生まれて〜』(13)の中村真夕監督が、この松村直登さん(以下ナオトさん)のもとに、2013年夏から8ヵ月間、通って作られたドキュメンタリー映画だ。4月18日より、新宿ケイズシネマで公開される。

ナオトさんは、反原発や政府への憤りを決して声高に叫んだりはしない。無人となり荒れてはいるが、どこか伸びやかな時間の流れる故郷をめぐりながら、淡々と動物の世話を続けている。中村監督により丁寧に捉えられたその光景はシュールでもあり、微笑ましくもみえるのだが、状況や放射線の問題を考えると笑えない。そのことを、僕らはどう捉えたらよいのだろうか。中村監督に話を聞いた。
(取材・構成 佐藤寛朗)

畜産家でもないのに震災後に動物を飼い始めた 不思議な人に会いに行く

——まずナオトさんとは、どのようなきっかけで出会ったのですか。

中村 私はテレビで震災関連番組の仕事をしていて、女川や石巻など、他の被災地はけっこう行っていたのですが、福島は扱いづらいということで、手がけていなかったんです。いつかは行きたいな、と思っていていろいろ探していた時に、ナオトさんが取材されている海外メディアの動画を見て、すごく面白いなと思ったんですね。

局の人に相談したら、そもそも取材に行くことを許可できない、と言われました。私が被曝しても責任が取れないから内容以前に無理です、と。線量計の携帯が義務づけられていたり、そのあたりは今でもナーバスなんです。

2013年の夏の段階でダメと言われて、それでもこの人に会いに行きたいと思って、その年のお盆にはじめて行って撮り始めたのがキッカケです。海外メディアの短いレポートはいくつかあったんですが、長期で取材したものはまだ無くて、ナオトさんに長期取材をしてもいいですかと申し出て、「いいべ」と言われて始まりました。問題が問題だけに、延々と撮り続けることもできたのですが、とりあえず季節が一巡する2014年の春で区切りをつけてまとめたのがこの『ナオトひとりっきり』です。

——私もナオトさんの存在は映画を観るまで知らず、そもそも警戒区域に人が住んでいること自体に驚きました。なぜ、日本のマスメディアは彼のことを取り上げないのですか?

中村 彼の元にはいろんな局の人や新聞記者が来るのですが、国としては、あそこに人が住み、残り、動物が生きている状況を出されたくないから、大手メディアでは取り上げられないんです。彼は動物の世話をするということで、富岡町役場から特別に許可をもらって住んでいるのだけれども、そういう前例を作られると国は困るわけですね。東京新聞と共同通信が一回報じたぐらいで、あとのメディアはほぼ皆無。NHKには、震災の証言記録で取り上げられたのですが、住んでいる場所が曖昧にされて、どこからか動物の世話にきているおじさん、という扱いになっていました。ちゃんと報道してくれないと、彼は憤っていましたね。日本のメディアに対して不信感を持っていたんです。

松村直登さん

だから、私もやるなら自主制作でやるしかない、と思ってはじめたんです。そもそもお金が無くてスタッフを雇えなかったのだけれども、雇えたとしても、お金で来てもらう仕事ではないな、と思いました。もしスタッフが被曝して十年後に責任を取れるか、と言われたら、私も取れないですからね。撮影機材は持っていたので、いわきでレンタカーだけを借りて、ひとりで月に1、2回。2、3日づつ、8ヵ月間彼の元に通いました。

——2013年夏の取材開始時点で、東日本大震災の発災から2年半が経っています、その時期に、あえて福島の原子力災害の話をやろうと思った理由は何ですか。

中村 3.11の時は、私も海外向けのテレビニュースを制作する仕事をしていて、直後から被災地に乗り込んで撮っている同僚もいましたが、人の悲劇を見せ物にすることが、私には心情的にできなかったんです。

私、9.11の同時多発テロをニューヨークで経験していて、二週間後にワールド・トレード・センターの跡地に行って、まだ遺体が埋まっているような状況をみんなバシバシ写真に撮って、観光地と化しているのを目の当たりにしたんです。テレビでも、ビルから人が落ちてくるのが盛んに流れていて、そういうのは私には無理!と思ってしまいました。だから自分にできることしかできないな、と思って、震災直後は泥かきのボランティアに行ったりしていましたけれども。

2、3年経って、そろそろ風化してきているかな、という時に、津波にあった被災地は、悲しみさえ乗り越えられれば、高台に家を造るとか、未来への展望が何となく見えてきているけれども、福島の場合は何も収束していないし、先が見えていない。そこをきちんと伝えなくてはいけないなと、思ったんです。

その時点で既に福島に関する「震災映画」や「震災番組」がたくさん作られていましたが、新しく映画を作るなら、警戒区域の中に入るしかないと思いました。被曝のリスクを背負うことにはなるけれど、警戒区域の中で実際に何が起きているかというのは、ほとんど分からないし、知られていないですからね。たまたま2013年の春から、ナオトさんが住んでいる地域が「避難解除指示準備区域」といって、日中だけ出入り自由な区域になり、入りやすくなったのも大きかったです。それまでは、あの地域はゲートに囲まれて、手を尽くさないと入れなかったんです。

線量の高い地域に行くことに対しては、最初は葛藤しましたよ。私も一応未婚の女性ですから「女の人がいくところじゃないよ」と言われましたもん。鎌仲ひとみ監督に相談したら「そんなとこ行っちゃダメ!」って怒られました。映画にも出てきますが、まだ大熊町の原発に近い所では、車の中でも、ふつうの線量計では針が振り切れちゃうような状況なんです。

——はじめからナオトさんだけを撮りにいったんですか?それともある程度、取材できそうな人をリサーチしたのですか。

中村 あの地域で、避難先から通って家畜の世話をされている方は何名かいます。その中には有名な「希望の牧場」の吉沢さんもいて、ナオトさんとも飲み友達のような関係ですが、吉沢さんは牧場の規模も大きくて、お姉さんやボランティアも含め団体としてやっているのに対し、ナオトさんは、警戒区域内にある自宅で牛を30頭、たったひとりで飼っている。ボランティアも、めったなことでは来ないんです。

そもそもナオトさんは鉄筋工で、畜産の経験など全く無かった人なんです。そんな人が、何で動物を飼い始めたのかが謎だったんで、それを解き明かしたいと思いました。彼は福島第二原発の建設にも関わっていて、原発関連の仕事で儲けてきた人ですからね。

海外メディアでは、彼を畜産家だとか、動物の為に残ったとか報じていましたが、畜産家でも動物愛護家でもなんでも無いんです。動物を助けたい正義感で動いているというよりは、残った動物も同じ富岡町の仲間なんだ、と。「両親を避難させたあと、一人残って置き去りになった仲間の面倒をみていたら、出られなくなってしまった」といって、自分と動物を同列の目線でみているんですよ。

——当然、避難勧告は何度も受けているんですよね

中村 もちろん。何度も言われたけど彼は無視して、そもそも自分の家にいて何が悪い、みたいな理屈です。電気も水道も止まってしまい、しばらくはろうそくで生活していました。今でも下水道はきていません。こちらも取材に行くときは大変でした。隣りの楢葉町にコンビニがあって、弁当やお水を全部買ってから中に入らないといけない。中に入るともちろん何も無い。それでいて「午後3時までには退出してください」と、ずっと変なアナウンスが流れている。私は外国で長いこと暮らしていましたが、最初行ったときは、外国でもなく、日本の中でもないようなこの地域は何なんだ?タルコフスキーの「ゾーン」みたいだな、と不思議な感覚でした。

▼page2 声高に原発批判をしない人が 警戒区域に住み続けるワケ につづく