【Interview】わたしを魅了した“赤浜魂”〜『赤浜Rock’n Roll』小西晴子監督インタビュー

映画『赤浜Rock’n Roll』より©ソネットエンタテインメント 

とりつくしまのないところから撮影がはじまった

——この映画は、漁業を担う組合長の阿部力さんと、県の提示した防潮堤の計画に反対し続ける川口博美さんのふたりが軸になっています。おふたりを映画の軸に据えた理由はなんですか。

小西 阿部さんは、ここは漁業の町だから若い漁協のリーダーを、ということで誰かに紹介されたんですけど、はじめはとりつくしまも無かったですねえ。ほんと、全く相手にしてくれない。「マスコミの人は良いところだけ撮っていって、限られた季節にしか来ないし、放送後は音信不通だし…」って。阿部さんは人見知りだから、すぐ仲良くなれる人でもないんですけど。

でも、この町で復活させるものといったらそれは漁業しかないってみんな言うし、私の方も、彼らの手間ひまかける仕事を見ていましたから、ここは漁業の現場で頑張る阿部さんを撮らせてもらうしかないと思って、頼み続けました。1年間、まるごと撮らせてください!と言って。

そうしたら、2013年の2月になって、船にのせてもらったんですよ。最初はわかめ、次は昆布の船でした。生まれてはじめての経験でしたが、とにかく寒いんですよ。朝の2時か3時に出て行って、2月だから、マイナス6度。彼らは一生懸命働いているから寒くないけど、こちらはガチガチガチ震えて。寒すぎて、手も凍える。そんな感じの撮影を何回か続けたら、態度がちょっと優しくなりましたかね。ああ、こいつら本気なんだなって。とにかく寒かったんですよ。もう寒い。ほんと寒い。

漁師の仕事って、ほんとうに重労働なんですね。昆布とかわかめって、ヒモを垂らしておけば勝手に生えてくると思っていたら、前の年からていねいに仕込むんです。種まきって言うんですけど、10月ぐらいから昆布やわかめの胞子を大きく育てるために、間引きもやるし、お掃除もやる。そういう仕事があって、あの美味しいわかめができるのね、ということが身体で分かってきたんですよ。

阿部さんは、そのような仕事を続けながら悩みはあるし、いろいろと難題を抱えていますが、そこに果敢にチャレンジする姿勢を撮りたいなと思いました。未来は明るいかというと、そこは問題だらけなんですが。

——個人的には「大槌ロックフェスティバル」の若頭として奮闘する阿部さんの姿が印象に残りました。

小西 地域の若手の一番手、ということでお祭りに積極的に顔をだすみたいなことは昔からあるんですよ。小さな頃から太鼓を叩いたり。そこにみんなも参加するからああなる…コミュニティがちゃんとしているんですよね。それにしても、阿部さんは太鼓が上手でしたね。太鼓みながら、うまいねーって。

——川口さんとは、どういう経緯で出会われたのですか?

小西 川口さんには被災地の現状を知ってもらいたいということで、東京で講演された時に出会いました。そこから家に通って、いろいろ話を聞かせてもらうことになりました。

川口さんも、はじめはとっつきにくかったですね。オープンなようでいて、なかなか腹のうちを見せないんです。でも2012年のお盆の時に、自宅の跡地に七夕の飾りがあって、亡くなった孫の翔也君が「みんながしあわせになりますように」って書いた短冊があるのをみて、思わず泣いちゃったんですよ。今でも思い出すと悲しいんですけど、感情移入しちゃったんですよね。それから話をしてくれるようになりました。

——川口さんは、なぜ防潮堤に反対されたのですか。      

小西 川口さんが言っていたのは、14.5メートルの防潮堤が県と国から提案されたが、それにノーと言って、現状復帰の6.4メートルで良いという案を彼が中心になって取りまとめたんです。それが2011の11月か12月です。残念ながら、川口さんがノーと言った決定的瞬間には、私は立ち会えていません。

そうしたら、役所が今度は防潮堤の復旧を、6メートル40センチの現状復帰のものの後ろに、11メートルの高さで作ると言い出してきたんですよ。せっかく民意が決めた事を否定する、嫌がらせのような計画が出てきて、それをなるべく低く、ということで、問題は現在も解決していないんです。これは映像に残して、全部オープンに記録していかないと、防潮堤を高くされてしまうかもしれない。そういう気持ちで撮影を進めましたね。

——行政の、民意を聞いているようで聞いていない面の記録を映画に残す、ということですか。

小西 はい。防潮堤だけの話にして、「民意のゆくえ」というタイトルにしようかなと思ったぐらいで(笑)。自分たちの計画を否定されるのは、役人としては非常に辛い事なんでしょうね。それをおもむろに見てしまったので、せっかく住民が自分たちで考えた案を生かしてやっていく事を考える方が大事だし、それを最後まで見届けなくちゃ、ということを考えました。

映画『赤浜Rock’n Roll』より©ソネットエンタテインメント 

——映画を観ると、阿部さんや川口さん以外にも、大槌の自然の風景をかなり丁寧に撮られている印象を持ちました。どのような思いで大槌の町を撮られていたのですか。

小西 防潮堤はまだできていないけど、今の暮らしを残しておかないと、全然違う町になっちゃうかもしれない、という危機感はありましたね。はじめは漁業と防潮堤の話を別にしようと思っていたんですけど、この二つは絡んでいて、やっぱり分けない方がいいんじゃないの?という話になりました。漁業をやってきた町だからこその防潮堤反対なので、二つの話のバックは一緒ですね。

——地元の方々以外にも、わき水や海と陸の関係を話す大学の先生が出てくるのはなぜですか。

小西 山から湧いてくる水があるから美味しいお魚が育つけど、防潮堤はそれをぶっ壊すかもしれない、という文脈ですよね。防潮堤ができたら水流が変わるし、稚魚も育たなくなるので。実際にそういう心配をしている人がいっぱいいるんです。奥尻島(1993年、北海道南西沖地震で被災)なんかでは、防潮堤ができたあと魚が捕れなくなった、という影響が出ているんですよね。そこを立証したかったんですけど、そこまで話は進みませんでした。

——先ほど、大槌の人々の暮らし方に「先入観が崩された」とお話されましたが、被災をして、その後を生きる人々を撮ることに対して、どういう距離感を持っておられましたか。「被災地を撮る」事に対して、私は身構えてしまう事が多いので。

小西 私の場合は、この町はどうしてこんなに豊かで良いところなんだろう、というところから入ったから、町の良いところを撮るにはどうしたらよいかをずっと考えていました。被災地と呼ばなくても、大槌は魅力があるから、あまり被災地を撮る、という感覚はなかったですね。中央依存体質みたいな町の問題も、無いわけではないのですが。

——この映画は、大槌の今の暮らしに向き合っている映画ですが、みなさん震災で親族を無くした方でもありました。そういう、ある種の喪失を抱えている方々と接していくのに苦労はしませんでしたか?

小西 普通ですね。普通の人と接するように接しました。短冊ポロポロ以降は、川口さんも自分の気持ちを話してくれるようになりましたが、私の態度は変わりません。ただ川口さんは、仮設住宅で、まだ遺体の見つかっていない孫の翔也君の写真に囲まれながらずっと暮らしているから、写真を見るたびに何ともいえない気持ちにはなります。

——タイトルは『赤浜Rock’n Roll』ですけど、むしろ映画で描かれている暮らしはフォークというか、目の前にあるものと丹念に向き合っているような印象を受けました。

小西 そういう事、聞く人多いなあ。「ロックンロールってどういう意味ですか?」とかね。

最初は『海と生きる』ってタイトルだったんですよ。でも阿部さんには「ダッセェ」って言われて(笑)。『ひょっこりひょうたん島』にしたほうがいいんじゃない?という人もいましたが(笑)、ひとことでいえば、彼らのプライドというか、意地というかをタイトルにしたかったんですよ。あとは「この町は悲惨ですよ」みたいなアプローチはしてこなかったので、彼らの意地やプライドみたいなものをあらわす言葉を見つけたら「ロックンロール」になった、ということでしょうね。

映画『赤浜Rock’n Roll』より©ソネットエンタテインメント 

▼page3  編集で見えてきた もうひとつの大槌のすがた につづく