【記録文学論③】『アメリカの黒人演説集』 text 中里勇太


 

トニ・モリスン「ノーベル文学賞受賞演説」

(荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』所収)

 

Once apon a time———(むかしむかしのことでした……)

 

 1970年に小説『青い眼がほしい』でデビューしたアメリカの作家トニ・モリスン。代表作『スーラ』、『ビラヴド』、『ジャズ』などで知られ、アメリカの黒人文化の複雑さと豊かさを描きつづけた彼女は、1993年に黒人女性としては初めてノーベル文学賞を受賞した。その受賞演説に臨んだモリスンが、この誰もが知っている一句、語りを喚び起こす一句からはじめたことの意義は、殊に社会が言葉を死に体で扱う事例が散見される昨今の日本において、もっと深く省察されてもよい。

 

 むかしむかしのことでした。

 この一句からはじまる語り、子どものとき、さらには歳を重ねてからも、寝室で、居間で、ときには酒場で繰り返される語りに、わたしたちはじっくりと耳を傾けるべきである。効率を第一に考え、情報伝達に重きを置く状況がいつまでも続いてよいものだろうか。効率のよい言葉なぞ、どこまでいっても言葉の硬直化を免れることはできない。語りに耳を傾けるわたしたちの目の前では、活き活きとした言葉の情景が繰り広げられるはずだ。喉を震わせ、声を震わせ、生きている言葉が発せられるために、硬直した言葉を出来るかぎり避け、自分で言葉を生みだしていかなければならない。

 この受賞演説でモリスンが選んだ語りは、異なる文化・地域において変奏される、言わば象徴的なひとつの物語だった。彼女は言う、「われわれが情報を獲得し、保持し、咀嚼するのは、基本的にお話(ルビ:ナラティブ)を通してだと私は信じております」。モリスンがなじみ親しんできたお話。そこでは、お婆さんは奴隷の娘で、アメリカの黒人で、町外れの小さな家に住んでいる。そのお婆さんと子どもたちのあいだで交わされる、手の中の小鳥をめぐるやり取り、それをとおし、モリスンは自らの文学作品におけることばの在り方を語っていく。

 

 目は見えないけれど、賢い人として、町の人々から敬われ、畏れられているお婆さんが、町外れの小さな家にひとりぼっちで住んでいる。ある日、そこへ子どもたちがやってきて、お婆さんに問いかける。

「お婆さん、僕の手の中に小鳥がいるんだけど。小鳥は、生きているか、死んでいるか」。

長い間おし黙っていたお婆さんが穏やかに、そして毅然とした声で応える。

「わからないねえ。あんたが持っている小鳥が、死んでいるのか、生きているのか、わからないねえ。でもはっきりしているのはね、それがあんたの手の中にあるということ。あんたの手中にあるってことだよ」。

 

 大人たちの言う、お婆さんの賢さをいかさまであると思い込み、その無能力を証明しようとやってきた子どもたち。その問いに企みが含まれていることを感づいたお婆さんは、手の中の小鳥の生き死に対する責任を子どもたちに問うた。小さな命への責任を問うことで、目的を遂行するための行為、「力そのものではなく、力を行使する手段」へと、子どもたちの注意を促した。

 慣れ親しんだ話をそう読み解くと、モリスンは一旦立ち止まる。そして、手中の小鳥を言葉と解釈し、お婆さんを作家と見なすことで「作家にとっての言葉」、「言語」、また「言葉」へと考察をめぐらせる。

 考察のなかでわたしたちはすぐに「死んだ言葉」と出会う。じっさいは、わたしたちのまわりにはびこる無数の「死んだ言葉」たちをそこで改めて発見するのだ。たとえば、「検閲され、他を検閲する、国家統制主義者の言葉」。それは「積極的に知性をくじき、良識を立ち往生させ、人間の可能性を抑圧する」ばかりでなく、問いかけを受けつけない。ときにそれは「年若い学校の生徒に畏敬の念を抱かせ、専制者に避難所を用意し、世間に安定と調和の誤った記憶を呼び起こ」す。彼らは「服従する者のみを相手に、また服従を強いるためにしか言葉を使わ」ず、「人間的本能」へ到達することはない。

 ここでいう「死んだ言葉」によって到達不可能な「人間的本能」とは、どのようなものだろうか。文中では、バベルの塔の崩壊を巡る伝統的解釈を覆す示唆がその一端を示す。塔が天へ届きそうになったことで神の怒りに触れると、それまで同じ言葉を話していた人々が違う言葉を話すようになった。もし人々がひとつの言葉を話しつづけていれば、塔の建設は促進され、天国への到達も可能だったという解釈に対し、「いったい誰の天国かしら」とお婆さんは首を傾げて問いかける。

「どのような天国かしら。天国に達するには、時期尚早だったのでは。少し急ぎ過ぎたのではないかしら。他の言語、他の考え、他の物語(ルビ:ナラティブ)を理解するために、時間を割くことができなかったのですから」。

 理解することに時間を割き、ときには理解できず、問いかけることに時間を割く。そこでは、言葉をもちいることがひとりひとりの違いを生み、言葉にそれぞれ独自の意味をつくりだしていく。服従や検閲、監視を前提とした「死んだ言葉」にはない言葉の営み、複雑で骨が折れるけれど、僕たちにとって確かな歩みとなる営みがある。

 

 言葉を巡る考察をつづけるモリスンは再び立ち止まり、お婆さんと対峙した子どもたちにもう一度目を向ける。お婆さんの言葉、そしておそらくは作家としてモリスンが読み解いた言葉、「小鳥はあんたの手中にある」という投げかけに対し、子どもたちは何を聞き取ったのか? それは「可能性を開く文言」だったのだろうか、「ガチャリと錠前をおろしてしまう文言」だったのだろうか。

 モリスンは子どもたちに目を向ける。子どもたちの胸に響いたお婆さんの声を内面化する。

「それはあたしの問題ではないねえ。あたしゃ年寄りの婆さんで、黒人で、しかも目が見えないよ。あたしに今、わかっているのはね、あんたがたを助けられないってこと。言葉の未来はあんたたちのものだよ」。

 じっさいにお婆さんは何も答えていなかった。自らの身体に埋めた秘密を守ろうと、洗練された言葉を用い、言葉巧みに堅固な壁、子どもたちに関与しないという壁を築いたお婆さんは、その「特権的空間」のなかへ退去していく。お婆さんの沈黙に困惑した子どもたちが、めいめい思いついた言葉を口にし、その場を満たす。モリスンのなかで、子どもたちの企みだったものは単刀直入な質問へと変奏される。子どもたちの問いかけは、「命って何なの。誰か教えてよ。死とは何なの」という真摯な心持ちを含んだ、切実で緊急の問いかけだった。

「生きているも死んでいるも何も、僕たちの手の中に小鳥はいないよ。僕たちにはお婆さんと、大きな問いがあるだけなんだ」。

 子どもたちは思いつくかぎりの言葉でその場を満たし、全身で問いかける。

 子どもたちの言葉がひととおり終わり、お婆さんが沈黙を破る。

「今はあんたがたを信頼するよ。手の中にはいない小鳥を持った、あんたがたを信頼するよ。じっさい、あんたがたが小鳥を捕まえたからだよ。ほうれご覧。すばらしいこと。あたしたちがしたこの事さ。一緒にしたんだねえ」。

 

 モリスンがあえて作家と見なしたお婆さん、最初の問いかけを挟んだお婆さんの二つの沈黙は、一方に言葉を「無機的なシステム」、「人間が制御できる生きもの」として捉えて、他者に対して構える側面があり、また一方では、固い意志によって口を噤むことで、抹消されやすい言葉の救済を他者に促すという側面を持つ。つねに揺らぐその沈黙のなかで、ここでは子どもたち、つまりわたしたちが想像し、可能性を描き出す力、言葉の生命力を体現した。自分たちで生みだしていく言葉。それは決して新奇な言葉でなくてもよいだろう。文中には、言語を使用する者の「微妙で複雑な産婆的特質」という、容易な説明を拒み、多くの含みを持った魅力的な言葉がぽつんと置かれている。産婆が生命を取り出すことを生業とするように、わたしたちそれぞれも生まれてくるときから、言葉に息を吹き込み、新たな語りを喚び起こす存在なのかもしれない。

 

【書誌情報】

アメリカの黒人演説集 ―― キング・マルコムX・モリスン 他 ――
荒 このみ 編訳

岩波文庫・404頁 定価 945円(本体 900円 + 税)ISBN978-4-00-340261-0

自由と平等はアメリカの夢と嘘でもあることを明かす黒人の歴史.奴隷にとって7月4日とは何か問いつめたダグラス.南北戦争後も偏見と闘った男たち女たち.視野をアフリカへ世界へと拓いたガーヴィー.公民権運動,キング,マルコムXの闘争,ハーストンやモリスンの溢れる物語をへて,今オバマの時代まで21人の声を聴く.

【執筆者プロフィール】 

中里勇太 なかさと・ゆうた

81年生。編集業・文筆業。発売中の『KAWADE道の手帖 深沢七郎』(河出書房新社)に作品解説を寄稿しました。他に評論「死後・1948」(文藝別冊「太宰治」)、「応答としての犯罪的想像力」(文藝別冊「寺山修司」)、「わたしたちは想像する」(祝祭4号)など。Zine「砂漠」クルー。