|集団のなかにある孤独
――おふたりの作品歴にも関わってくることですけれど、小谷さんの映画は基本的に女性がたくさん出てくる。逆に三宅さんのは野郎どもの映画だと思うんですよ。
三宅 あー、そうですね。いや、そうなんですよね。
――小谷さんの映画は女性にカメラが自然に向いていくって感じがするんですよ。メキシコに行っても女子生徒だったりとか、縫い物してるおばあちゃんだったりを撮っていく。過去の作品を見ても、小谷さんがカメラを向けているだけじゃなくて、女性たちもカメラの前で話すことをひそかに求めていて、小谷さんがすっとそこに入っていくことで自然に語りが引き出されていく。『フリーダ・カーロの遺品』で印象的だったのは、おしまいのパリフォトの場面で、男の人はすごく批評的な視点で話をする、でも女性はむしろ自分の話をし始める。女性の自分語りを引き出すのがすごく小谷さんの映画だなと思ったんです。
小谷 三宅さんの映画は、『Playback』もそうですけど、いつも見るとなんか秘密基地に連れていってもらったような感じがあるんですよ。クラスでもぼくはあんまり友達がいないタイプだったんです(笑)。目立っている男子グループに普段相手にされないんだけど、「お前今日ついてこいよ」って誘ってもらって秘密基地へ行って、彼らのやってる世界観みたいなものを見せてもらえる。その世界に入れてもらえる、っていう感じがこの作品にもすごくあった。
自分はだから全然そういう生い立ちじゃなかったし、女性ばかり出てくると言われて実際そうなんですけど。自分ではよくわからないんですけど、そういう意味ではけっこう育ちに影響しているのかなと。子どもの頃、父親が事故で父性感を失ってたし、母親が児童養護施設で働いていた関係で、女の人ばかりの環境に自分がいたし、そういった女性のアクチュアリティとか、内側のある瞬間が出たというところにビビッドに行くっていうのはあるかもしれない。べつに女性だけを撮りたいと思ってるわけでもないんですけど。
――逆に三宅さんの映画は、自然に野郎どもが画面に集ってくるっていう印象がありますね。ノリだけのどうしようもない感じとか(笑)。
三宅 ほんとどうしようもない(笑)。みんな大抵最初にカメラ持ったときに、そのとき好きだった女の子に向けたりするということを聞いたときに、意外だったんですね。まったく自分はそういう発想をしていなかった。ぼくはいつも男ばかりを撮っていますが、単体で一人の物語にフォーカスするというよりも、集団を撮っているというのがあるんですよ。ぼくはずっとサッカー部で、友達はわりとわちゃっといる方だったんですけど、いまだに集団作業とかチームでつるんでるということに対して憧れやロマンチックなものを持っている。映画を作ることでいちばん楽しいのは、それもチームだと思っているから。映画作りもチームだし、映っている連中もチームだと自分としてはいちばんハッピーみたいな。それがあるのかな。
小谷 けど逆説的に言うと、集団のなかにいるからこそ孤独を感じるわけで、やっぱり三宅さんは監督なわけだから、みんながどれだけ居ようが仲が良かろうが、絶対的に孤独なポジションじゃないですか。この映画って、これだけで観ると彼(OMSB)がすごく孤独に見える瞬間があるんですよね。それぞれが役割があって、それぞれのいいところも出ているんだけど、でも画面上センターにいたり、みんな寝てんのかな? っていう時間帯があったりとか。そういうことが三宅さん自身を投影しているというか、監督が見えてくる感じがあった。集団のなかにいるからこそ、強烈な孤独も映っているんじゃないかなと思ったんです。
三宅 「チーム」を言い換えるとするなら、「おれたち」みたいな複数形で表現することは実はできなくて、「あなたとわたし」という、結局それが増えているだけだということが、世の中に生きている自分の実感だと思うんですよね。そこにいちばん自分のいまの感情が反応するから、そこで何が起きているのかということに興味がいくんだと思います。そこにたまたま女性があんまり出てこないという。
小谷さんの映画を見ていて思ったのは、たまたまそこの場で出会ったひとたちに語らせていると思うんですけど、そのひとにもたまたまフリーダに重なる人生があったりというのが隙間で見えてきますよね。それがいろんなところで重なるから、たしかにフリーダ・カーロや石内さんがまんなかにいるけど、それ以外のひとたちもその中心を共有しているというか、大袈裟かもしれないけどいわば彼女たちもまたフリーダであり、フリーダもまた彼女たちである、というような世界が見えてくる気がしたんです。どんどんそれが広がっていくというのが快感だったし、また出てくる人出てくる人メキシコだからみんな綺麗で、それで夢中になるっていうのはもちろんあるんですけど(笑)、それはおもしろかったですね。