【Interview】乱交するヴィジョン――ルーシァン・キャステーヌ=テイラー+ヴェレナ・パラヴェル監督が語る「ハント・ザ・ワールド ハーバード大学感覚民族誌学ラボ傑作選」 text 萩野亮

 

|移動とテクノロジー

――この4本のいずれもが、人間の移動とその形態をテーマにしています。馬、船、自動車、ロープウェイといった移動メディアと、カメラという記録メディアの遭遇の記録としてこれらの映画はあるのではないでしょうか。

VP そのような共通点は考えもしませんでした。(ルーシァンに)どうして気が付かなかったんだろう?

LCT (ヴェレナに)映画作家もアーティストも、自分の作品に対してそうした批評的な距離を取れないんだよ――。

たしかにこの4つの作品は、移動の形態とテクノロジーの記録になっていると思います。ただ、動物や人の移動ということだけでなく、たとえばどこかに「所属する/所属しない」というようなテーマも共通して見られるのではないでしょうか。「移動」と表裏一体にあるのは「静止」です。

たとえば『ニューヨーク ジャンクヤード』では、車は解体され、そこには断片的でハイブリッドな存在が残されています。そこに移動の自由はありません。自動車が解体されてゆく背景には、サイボーグのように新しいパーツとして生まれ変わってゆくという、「目的性の変換」というテーマがここにはあると思います。

『モンタナ 最後のカウボーイ』には「移動」というテーマがもっともわかりやすくあらわれていますが、人や馬であるよりも、中心にあるのは羊の移動です。それはまもなく最終章をむかえようとしている毎年の儀式的な移動であり、山を登っては降りてゆくという500年間にわたるアメリカの西部開拓史にある終焉がもたらされるということ、また西部劇に出てくるようなカウボーイに見られる神秘的で伝説的な世界が終わりをむかえようとしているということでもあります。

『マナカマナ』はもっとも移動とテクノロジーとの深い関係を見出せる作品だと思いますが、それはまさに16ミリカメラの400フィートフィルムで記録できる9分から10分という時間が、たまたまロープウェイの片道の時間と同じだったという、時間的な偶然の一致がこの映画を成立させているからです。けれども、寺院への移動についての映画でありながら、肝心の寺院は登場しません。目的地に到着させてくれない作品なのです。そこにはまた、「他者との対話」というテーマもあります。

あるいは、『リヴァイアサン』の漁船(アテネ号)は、同じ海域を行き来しているだけの存在であり、どこかへ移動するというよりは、特定の場所を破壊し、レイプし、消費し尽してゆく人間のいとなみがそこにはあります。

船は、いにしえからあらゆる文学作品にも登場しますし、歴史的にも奴隷を運ぶものであったり、漁船や客船として人を移動させ、あるいは沈没していったというさまざまな物語が付随している乗り物です。この映画で形式と内容の両面で特徴的なのは、移動はあっても時間感覚が欠けているという点ではないでしょうか。この映画では地面が映ることはいっさいありません。最後の字幕があらわれるまでは、この航海がどこへたどり着き、どういう歴史的文脈にあるのかが知らされません。世界のどこでも、暗闇は空間と時間の不十分な感覚をもたらします。そのことは同時にこの「移動」の目的が明快ではないということでもあります。

何かに所属したいと思う心情や、人間が搾取するという行動、人間と自然界や動物との関係性にも、この4作品すべてがかかわっていると思います。

『リヴァイアサン』 (c)Arrete Ton Cinema 2012

VP いま『ヒト』というインスタレーション用の20分ほどの作品をつくっています。日本各地、福島の原発の跡地などいろんなところで撮影したのですが、考えてみればこれもまた移動のひとつの形態をとらえた作品なのではないかと思います。そのときに、カメラの選択について考えるのは興味ぶかいことです。

『マナカマナ』はコンセプトとしても16ミリでの撮影ということが意味をなしているわけですが、『リヴァイアサン』におけるGoProは、ある種の進化かもしれません。わたしたちのそれまでの映画に、伝統的で、人間中心主義的な従来のドキュメンタリーの道筋に乗ってつくられているところがあるとすれば、『リヴァイアサン』でポスト・ヒューマニズム的な世界のとらえかたにわたしたちは遭遇しました。人に押し寄せてプレッシャーをかけてくる機械をどうすればとらえることができるだろうかと考えているときに、GoProのカメラが手に入ったわけです。

新作の『ヒト』で探そうとしているのは、人間中心主義に対する何らかの応答、意味づけであり、iPhoneに望遠鏡を組み合わせて撮影しています。技術的には『リヴァイアサン』から後退するかもしれませんが、携帯電話の象徴的するものが「世界への発信」、SNSで「セルフィー(自撮り)」などの映像を世界に発信してゆく個人の存在であるとすれば、望遠鏡は時間的空間的な「距離」を撮らせてくれるような道具です。このふたつを組み合わせたのは偶然だったのかどうだったのか、自問しているところではあるのですが(笑)。

『マナカマナ 雲上の巡礼』 (c)Stephanie Spray and Pacho Velez

|時間の経験はひとつではない

――『リヴァイアサン』における時間感覚の喪失、あるいは「時間と行為の齟齬」は、『マナカマナ』にも感じられます。ワイドスクリーンと同じ画角の窓枠をもったゴンドラが、暗闇を経てはめくるめく光景を映し出してゆく、あの作品そのものが「映画」のメタファーであることが、そのことにかかわっていると感じます。

LCT 『リヴァイアサン』では時間は伸び縮みしているのではないかと思います。観客は、見終わったあとにあれはどれくらいの時間だったのかを忘れてしまうような体験で、それは『マナカマナ』とは異なります。『マナカマナ』は実体験に近い時間であり、観客は同じ時間を生きながら体験できるような作品ではないでしょうか。そういう意味では『リヴァイアサン』は物語性においてもテンポにおいても反=人間主義的な映画です。

既存のドキュメンタリーは、映されている対象と生活時間を共有しながら見てゆくことが多いとするなら、『リヴァイアサン』はそれとはまったく異なる体験であるはずです。人間的ではない、宇宙論的な時間をそこに見出してゆく映画体験なのではないかと思います。『マナカマナ』はたしかに映画のメタファーとしてありますが、観客がそこで生きる時間とはそれほど乖離していないのではないでしょうか。

――ジャンクヤードで車が解体されて別の部品に生まれ変わるように、あるいは『モンタナ』の羊たちが毎年同じ山を、『リヴァイアサン』の漁船が同じ海域を行き来し、『マナカマナ』のロープウェイが往復をくりかえすように、この4作品に共通してあるのは「移動」というよりは「循環」であるというお話がありました。その「循環」にある儀式性のようなものが、人間の感覚を超えた「時間」を描いているようにも思えます。

LCT いまは流行らない考え方かもしれませんが、この80年間くらい人類学がいってきたことに抗っていうならば、すべての文化には時間を経験するさまざまのありようがあるのではないかということです。時間を直線的に経験することもあるでしょうし、サイクルやスパイラルのように経験することもある。そうした能力を文化のなかにもっているのではないかと思います。考えてみれば、英語において「時間」をめぐることばは、「直線的」であるとか「円環的」であるとか、すべて「空間」の語彙でもあります。時間と空間とを乖離させないようなことが、わたしたちの語彙のなかに入り込んでいます。

映画という人間が作り上げた文化そのものも、儀式化のなかにさまざまな時間の経験が取りこまれてきたとしてもおかしくはありません。たしかに『モンタナ』では、空間的時間的な円環構造が見られますが、それは羊たちがみずから行なってきたことではなく、人間が作り上げた循環です。とりわけ人間は性質として、「何かが始まり、終わる」という直線的に時間を経験したがるところがあります。洞窟壁画を見ても、始まりとクライマックスと終わりがある。けれども、実は時間の経験とはもっとゆたかなのではないかと思いますし、自然界にはさまざまな時間の経験の仕方があるのではないかと思います。西洋社会と東洋社会とを比較して、西洋社会のほうが直線的に時間を経験する、といわれたりもしますが、わたしとしては、それはポストコロニアルな差別的な考え方ではないかと思います。

|人間中心主義を超えて

――先ほどお話しにも出た『ヒト』という作品について、最後に聞かせてください。

VP もともとこれはフランスの団体からの委託作品で、芸術家と科学者を組み合わせて何かをさせるという企画で、人類学者や写真家、研究者、哲学者のような人が参加しています。「福島の原発事故についての何らかの表現」という大雑把な依頼内容だったのですが、全員で何かをつくるか、自分たちだけで制作するかという選択肢をあたえられていました。

当初日本にやってきたとき、漠然と、自分たちの確信のもてるようなものをつくりたいと思っていました。ただ、この国に住んでいない外国人として、それはおこがましい行為なのではないかという気持ちもあり、福島だけを撮るのではなく、北海道や広島や京都などにも出かけました。道中でどのようにするか悩みながらつくっています。

先ほどルーシァンが、わたしたちは偶然にアーティストになったといいましたが、今回も偶然に携帯電話に望遠鏡を組み合わせて撮影するという手法が手に入りました。遊びごころで始めたものが、思いがけなく見たことのないイメージが映っていた。それはこわれやすくはかないものであり、焦点が合ったと思えば次の瞬間には失われている。ふたつのレンズを組み合わせて、見えるか見えないかという奇蹟の瞬間をとらえる、手持ちの不安定な映像のもっているクオリティに魅了されました。この手法で、はじめて傲慢にではなく日本を撮影できると思ったのです。その映像では、人間が遠くにいながら同時に近くにも感じられるような微妙な距離感の表現に到達しました。当初のアイデアにくわえて、美学としてその世界のなかにある存在のはかなさを映しこむことができたのではないかと思っています。

結果的には、福島の原発事故についての表現であるよりも、いまの世界において人間がどれだけ地球にプレッシャーをかけて破壊しているか、ということに対するひとつの表現になっていると思います。ある意味では黙示録的ないまを生きる人類のありようを描く作品です。

LCT いまは新生代第四期の人類中心主義の時代(アントロポセンAnthropocene *)にあるとすれば、その次の時代の表現になるのではないかと思います。
*パウル・クルッツェンによる造語で、「人類の時代」の意

VP この作品では音響も重要な要素になっています。できれば映画館ではなく美術館のような場所でインスタレーションとして見てほしい。最初があって終わりがあるわけではありません。音響は6ch でサラウンド式に配置します。技術的な問題ではなくコンセプトにおいて、この作品は映画ではないと自分たちは確信しています。

LCT 映画は求められる要素が限定された芸術形態であり、それに応えるような作品ではありません。映画として見なしてしまうと、失敗作とされるかもしれません。映画にある、観客が同じ方向を向いて観賞するというドグマのようなものに合致する作品ではないということです。(了)

 

|公開情報

ハント・ザ・ワールド[ハーバード大学 感覚民族誌学ラボ 傑作選] 

『モンタナ 最後のカウボーイ』
監督:イリーサ・バーバッシュ、ルーシァン・キャステーヌ=テイラー
2009年/米/101分/35㎜・デジタル/原題:Sweetgrass
2009年ベルリン国際映画祭 正式招待
2009年ニューヨーク映画祭 正式招待

『ニューヨーク ジャンクヤード』
監督:ヴェレナ・パラヴェル、J.P.シニァデツキ
2010年/米、仏/80分/デジタル/原題:Foreign Parts
2010年ロカルノ国際映画祭 最優秀初長編審査員特別賞
2010年ニューヨーク映画祭 正式招待

『リヴァイアサン』
監督:ヴェレナ・パラヴェル、ルーシァン・キャステーヌ=テイラー
2012年/米、仏、英/87分/デジタル/原題:Leviathan
2012年ロカルノ国際映画祭 国際映画批評家連盟賞
2013年ベルリン国際映画祭 正式招待

『マナカマナ 雲上の巡礼』
監督:ステファニー・スプレイ、パチョ・ヴェレズ
2013年/ネパール、米/118分/デジタル/原題:MANAKAMANA
2013年ロカルノ国際映画祭 現代の映画人部門 金豹賞
2013年ロカルノ国際映画祭 最優秀初長編作品特別賞

公式サイト http://www.hunt-the-world.com/

★渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開中(他全国順次)!

|取材・文

萩野亮 Ryo Hagino
映画批評。neoneo編集委員、立教大学非常勤講師。編著に『ソーシャル・ドキュメンタリー 現代日本を記録する映像たち』(フィルムアート社)、「キネマ旬報」星取評ほかに寄稿。

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