【Review】人はなぜ踊るのか 『躍る旅人 能楽師・津村禮次郎の肖像』によせて text 志賀信夫

©究竟フィルム

旅する身体

暗転して、場面は変わり、静岡県伊東市の日蓮宗本山・佛現寺、故板垣錬正日応上人の法要を映し出す。津村はそこでは僧侶の一員として経を読む。津村は25歳で出家しているのだ。そして30歳のときに佐渡に修行で行き、2年後、一橋大学観世会の学生を連れて佐渡にわたり、以来、通う。実は佐渡には日本全国の1/3、30の能楽堂があり、佐渡では「能は見るものではなく踊るもの」というほどだ。そして、1986年に佐渡市潟端の使われなくなった能舞台を地元の人が修復し、それからそこで合宿を続けている。

合宿の後は佐渡の二カ所で能の舞台を踊る。今回は森山開次も『HAGOROMO』を踊った。三宅が映画化した『トキ』は、佐渡の小学生たちの詩に基づいて津村が創作した作品。天皇家、皇族たちの流刑地でもあった佐渡という地に根づいた能は、荒い日本海や豊かな自然や神と交感するための舞い、踊りなのかもしれない。

津村は東京都小金井市に住み、1979年に作家の林望とともに小金井薪能を立ち上げた。そして毎年ボランティアとともに舞台をつくる。今回は華道家前野博紀のデザインの野外舞台で踊った。こうやって、長年、それぞれの地域と関わってきたのも、津村の生き方だ。

場面は変わって、斬新な表現で一世を風靡したマイムグループ「水と油」を解散し、多くの舞台をつくっている小野寺修二の『サイコ』。これはヒッチコックの狂気の映画を舞台にしたものだが、それを能楽堂でやるというのが、なんとも面白い。鈴木ユキオら個性的なダンサーの動き、そして面をつけた津村に刺されて倒れる小野寺修二で暗転する。

さらに津村は海外に飛び、インドネシアのバリ舞踊をガムランとともに踊る。ガムランに日本の囃子が加わるが、それが稽古のうちに、次第に合っていくところが面白い。演じられる舞台では、バリ舞踊の踊り手も津村も衣装と面をつけた姿で、どちらがと見まがうほど、しっくりいった舞台だった。この後、バリ公演のプロデユーサー小谷野哲郎率いるグループと、仙台公演も行ったらしい。

©究竟フィルム

幻想の身体

津村は新たな舞台を始める前に、謡を一つ謡う。声の響きを知り、ウォーミングアップでもあるが、これによって空間の空気感を得て、自分を空間に馴染ませるという。謡は、現代の私たちには、ある種の神秘性を感じさせる。その津村は、面をつけて舞う姿と素で舞う姿は異なる。特に『砧』で女の面をつけたときには、女性を感じさせ、夫を待つ女とその狂気が垣間見える。

考えてみると、能というのは不思議な身体表現である。というのは、自ら謡い、自ら踊るというものだからだ。いわゆる民族舞踊には歌いながら踊るというものはあるが、芸術とされる舞台表現では、音楽と踊りは分離して、踊り手と音楽家という形になっている。踊り手は踊りのみに集中するのが普通だ。なかではフラメンコが唯一、踊り手がサパテアーデで足、パルマで手、カスタネットなどを駆使するし、カンテ、歌のうまい踊り手もいる。ただフラメンコはスペインの民族舞踊的要素が強いと考えられる。

もちろん能も海外から見れば、一種の民族舞踊といえる。だが通常、民族舞踊は民衆が楽しみ踊るものが基本であり、能のように昇華して独自の様式美と芸術性を獲得したものとは別だ。また、能は動きが緩やか、ゆっくりだから、踊りながら謡うこともできるともいえる。しかし能は、踊りと謡いが一緒に学ばれ、研鑽される。謡うことは、呼吸法にも関わってくる。踊りの呼吸と音楽の呼吸は、普通は異なる。能はおそらくその一致の上に成立しているのだろう。そして、謡には言葉、意味があるのだ。

このように、能は謡曲も自ら謡う。通常のダンサー、踊り手が音楽は人に任せて、音楽家との距離をとることに対して、津村は両道であるがゆえに、さまざまな音楽家と完成度の高いコラボレーションが可能になっているのだろう。そして、能は過去の幻想的な物語を演じるものだ。非現実的といってもいい。しかし能楽は、謡の声と物語の神秘性とともに、現実を離れるからこそ、目の前で踊る身体の存在感が高まっていく。

この映画は、舞台公演のみを映すのではなく、それぞれの作品をつくる過程に焦点を当てる。それは津村と相手との交感を浮かび上がらせると同時に、創作の秘密に触れるところがある。

それと同時に、能がいかに多様に、さまざまな音楽、ダンスと混じり合って表現できるかを示している。その原因は、津村のスタンスにもあるだろう。人間国宝、伝統芸術といった権威に依らず、あくまで踊り、表現することを求めるからだ。

優れた踊り手というのは、一種の舞姫といっていい。音楽があれば踊り出す。あるいはどこでも踊る。踊りたい欲望が果てしなく強いのだ。穏やかな津村の佇まいと踊りの端々に、踊りに対する強い思いが浮かび上がる。この映画は、踊りとは何か、人はなぜ踊るのかを、津村を通して追究しようとしている。それぞれ十分な間をとった暗転で場面を変えていく手法は、あたかも舞台を見ているようだ。そんな丁寧な映画づくりで、踊りの残像が瞼に残り、また津村の踊りを見たい、と思うのだった。

【上映情報】

『躍る旅人 能楽師・津村禮次郎の肖像』
(2015/日本/110分/HD)

監督:三宅流
出演:津村禮次郎/小尻健太/酒井はな/森山開次/平原慎太郎/小野寺修二/Ni Wayan Sekariani、他
配給: 究竟フィルム

6月27日(土)より新宿K’s cinemaにてモーニングロードショー!(10:30)
公式サイト:http://www.odorutabibito.com/

■上映後 連日トークあり!

6/27(土)小野寺修二(演出家・俳優)
7/1(水)ロバート・ハリス(DJ・作家)
7/7(火)平原慎太郎(舞踊家・振付家)
7/8(水)小谷野哲郎(バリ舞踊家)
7/11(土)小㞍健太(舞踊家・振付家)×酒井はな(舞踊家)
7/12(日)森山開次(舞踊家・振付家)
7/17(金)野田秀樹(演出家・劇作家・役者)

※本作品に出演の津村禮次郎、監督・三宅流も全回登壇いたします。

【執筆者プロフィール】

志賀信夫(しが・のぶお)
批評家。舞踊学会員、舞踊批評家協会世話人。テルプシコール「舞踏新人シリーズ」講評者、ディプラッツ「ダンスがみたい新人シリーズ」審査員、批評誌『Corpus』編集代表。著書『舞踏家は語る-身体表現のエッジ』(青弓社)、共著『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)、『おどる人に聞く-日本の洋舞を築いた人たち』(三元社)、『フランス語で広がる世界-123人の仲間』(駿河台出版社)、『講談社類語大辞典』。編著『凛として、花として―舞踊の前衛、邦千谷の世界』(アトリエサード)。『図書新聞』『Invitaion』『TH叢書』、『DANCEART』『Dancework』『Dancecafe』『Bacchus』『表現者』などに執筆。Delfino Nero主宰。
サイト「舞踏批評」→http://www.geocities.jp/butohart/
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