さて、内容について。以下はインデックス。ふつうはジョージ・マーティンのところをマーチンなど、表記はLPにあるママにした。
A面
- 1・ビートルズ登場
- 2・ビートルマニア誕生
- 3・熱狂のビートルマニア/歌:「抱きしめたい」
- 4・ビートルズを動かす男―ブライアン・エプスタイン/歌:「スロー・ダウン」
- 5・ジョン・レノンのすべて
- 6・億万長者は誰か
B面
- 1・永遠のスター、ビートルズ/歌:「ユー・キャント・ドゥ・ザット」「恋におちたら」
- 2・ビートルズ・サウンド陰の男―ジョージ・マーチン
- 3・ジョージ・ハリスンのすべて
C面
- 1・ビートルズ映画第一弾―ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!/歌:「ハード・デイズ・ナイト」「アンド・アイ・ラヴ・ハー」
- 2・ポール・マッカートニーのすべて
- 3・ビートルズ・カット誕生~ポールについてもう一言
D面
- 1・ビートルズの人生観/歌:「ツイスト・アンド・シャウト」
- 2・ビートルマニアの犠牲者たち
- 3・ビートル・メドレー/歌:「今日の誓い」「すてきなダンス」「リトル・チャイルド」「のっぽのサリー」「シー・ラヴズ・ユー」
- 4・リンゴ・スターのすべて/歌:「ボーイズ」
- 5・世界のリバプール
僕が手にした東芝EMI盤は、1970年代にUK、US、日本の各オリジナル・アルバムが順次再発された時のもので、立川直樹の解説と、高橋淳一の全訳がついている。おかげで語学力ゼロの僕も、内容が分かる。
ガッチリと読みながら聴き直してみたが、改めて、ナレーションばっかりだ……と途中でモゾモゾ飽きてしまった。残念ながら、上出来な聴くメンタリーとは言えない。
そのナレーションに興趣があれば、話はまた違うわけだが、
「ビートルマニア、即ち、ビートルズ的狂熱が、世界中に受け入れられた理由は、ここにあるのです。新鮮さ、動き、サウンド、エキサイトメント―これらのビートルズのもつ基礎的成分が、リバプールの音楽醸造の大釜に入れられていたのです」(訳文)
人気の秘密を語る部分にして、これである。大仰だが、ほとんど説明になっていない。
ファン目線の音楽雑誌をめくると、今でもこういう文章が多い。実際、ロックやポップスの人気アーティストについての文章は大抵、シビれたことがある人には何を言いたいのか斜め読みでも伝わるし、シビれたことがなければ何回読んでも意味不明なようになっている。ロックの熱狂の共有は、自ずと密教の法典めいた性質を帯びる。そうした事例の、これはハシリなのかもしれない。
メンバー4人の個性の紹介は、1964年の時点では、かなり的確。
表情が厳しく「怒れる若者」の代表のようなジョンが、どうやら4人の精神的なリーダーである。
一番後から加入したリンゴは、一歩引いたユーモアの持ち主で芝居っ気がある。
こんな具合。特に、ジョージは言葉数の少ない没頭主義者、には吹き出した。のちのインド狂いを早くも予言している。へえ、となるのは、ポールの存在感がまだ薄いことだ。ベース担当で左利き、ジョンと一緒に曲を書いていて……程度しか、言うことが見つかっていない。現代のアマデウスっぷりが覚醒する前の、周囲から見た序列は“3人目”だったんだね。
ナレーションの合間に挿入される4人のインタビュー音声は、思いのほか少ない。他の目的で収録されたものの流用だろう。『アンソロジー』シリーズ(95-96)など公式基本資料が出揃った今となっては、意外な発言はほとんど無い。ジョンが、あなたたちやエプスタイン氏はすっかり億万長者ですね、と水を向けられて、
「(収入の)ほとんどは女王様のとこへ収まっちゃうのさ。女王様が億万長者なのさ」(訳文)
と、いらつき兄さんの地を小出しにしている位かな。
楽曲も、フルサイズではない。「ツイスト・アンド・シャウト」だけが未発表のライヴで(同年のハリウッド・ボウルでの収録らしい)、オッとなるのだが、これも途中でフェイドアウトされる。
全体をつなげている、ザ・ビートルズの曲のストリングス・バージョンは、キャピトルお抱えのホリーリッジ・ストリングスによる演奏。当時流行のストリングス・オーケストラらしさが味わえる。こういう、流麗で平和なサウンドがポピュラー・チャートを占めていた反動で、ロックンロールが台頭するわけだから、いささか皮肉な組み合わせではある。
楽団を率いていた作曲家のスチュー・フィリップスは、後にテレビドラマ「宇宙空母ギャラクティカ」(78~79)や「ナイトライダー」(82~86)の音楽を手掛けて売れっ子になるひと。その点では本盤、サントラ・ファンも要チェックかもしれません。
最初のアメリカ・セールスは失敗―ケネディ暗殺で流れが変わった
内容そのものについては、ざっとこういう具合に、淡々とした記述にならざるを得ないのだが。
吟味すると面白いのは、こんな地味なアルバムがよくもまあチャートの上位に入ったものだ、当時の人気は凄かったんだな……という、背景のほうだった。
日本盤でおなじみ、ザ・ビートルズ・クラブの解説などを参考にさせてもらいながら、ポイントを整理してみよう。
○1962年10月5日―イギリスEMIからデビュー・シングル「ラブ・ミー・ドゥ」発売
○1963年1月11日―シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」イギリス発売。初のチャート1位
○1963年2月 ―アメリカでの初シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」ヴィー・ジェイから。ヒットせず
○1963年3月22日―アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』イギリス発売。アメリカでの発売は見送り
○1963年5月6日―アメリカでのシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」ヴィー・ジェイから。ヒットせず
○1963年8月23日―シングル「シー・ラヴズ・ユー」イギリス発売。63年の年間チャート1位に
○1963年9月16日―アメリカで「シー・ラヴズ・ユー」発売。スワンから。ヒットせず
○1963年11月22日―ケネディ大統領暗殺事件
○1963年11月29日―シングル「抱きしめたい」イギリス発売。チャート1位
○1963年12月26日―アメリカで「抱きしめたい」発売。初めてキャピトルから。チャート1位
○1964年2月7日―ケネディ空港で初のアメリカ到着
○1964年2月9日―『エド・サリヴァン・ショー』1回目の出演、推定視聴者7,300万人
○1964年2月16日―『エド・サリヴァン・ショー』2回目の出演、推定視聴者7,000万人
○1964年4月4日―アメリカで再発も含めたシングルがチャート1位から5位までを独占
4月4日のチャート独占曲は、1位から順に「キャント・バイ・ミー・ラヴ」「ツイスト・アンド・シャウト」「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」。さらに同年夏には、映画『ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』が封切られ、再度の訪米でハリウッド・ボウルを会場にライヴ。
11月に発売された本盤が、ビートルズと名のつくものなら何でも欲しい、出して、キャー!な勢いのなかでの緊急発売だったこと、ナットク。
時系列にして眺めてみると、2つの妙味が浮かび上がってくる。
ひとつ。えッ、ビートルズって最初はアメリカでぜんぜん売れなかったのか。
ふたつ。ケネディが暗殺された前と後では、えらい風向きの変わりようだ。
ひとつめの理由は明快。イギリス、ヨーロッパではすでに大人気のザ・ビートルズだったが、EMI傘下のキャピトルは発売を見送ったため、セールスしたのはヴィー・ジェイ、スワンといった小さなレーベルだった。恵まれないアメリカ・デビューだったのだ。
キャピトルに先見の明が無かった、と言い切るのは少し酷。当時は、音楽市場の規模や発信地としての影響力の大きさではアメリカが他国を圧倒。イギリス産のものが入り込む余地と前例が無かった。増してやロンドン出身でもないローカルな新人に、「いちいち予算出してらんない」が実際のところだったと思う。どんなにスペシャルなものだろうと、流通が小さければ苦戦するんだ。これもまた教訓である……ビートルズが教えてくれた。拓郎か。
それだけに、ふたつめは、けっこう怖いようなところがある。おやおや、ビートルズってどうも商売になるようだぞ、とキャピトルが無視できなくなってるタイミングと、ケネディ暗殺の時期がピッタリ過ぎるのだ。
アメリカ国民の間にぽっかり空いた心の穴を、ビートルズが埋めた―こんな歴史小説的な、ドラマティックな見立てを、確かにそうだったのだと認めざるを得ないところがある。
アメリカの人気番組『エド・サリヴァン・ショー』にザ・ビートルズが出た回は、7,000万人以上が見た。視聴率でいうと70%以上の数字になるらしい。アメリカで売れる=世界で売れる、の時代の話だ。もし、ぼちぼちの結果だったら、どうなっていただろう。
こういうifは、僕の場合、もし野茂英雄が大リーグで結果を出さなかったら、もし中田英寿がセリエAでレギュラーを獲得していなかったら……と置き換えて考えると、さらにリアリティが増す。