【Interview】「僕らの根っこはシュルレアリスムとアヴァンギャルド」〜『断食芸人』足立正生(監督)&山崎裕(撮影)text 小林蓮実

1960年代より数多のアヴァンギャルド(前衛)映画を生み出し、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)や日本赤軍とともにパレスチナ革命に身を賭した足立正生監督。レバノンでの3年間の禁固刑、強制送還後にも偽造私文書行使(偽造された文書の使用)で懲役2年、執行猶予4年。それを経て制作された『幽閉者(テロリスト)』から9年、第一次世界大戦直後にフランツ・カフカがモルヒネを打ちながら死の淵で執筆したという面妖な短編を原作とし、足立監督は新作『断食芸人』によってさらに奇矯な世界観を確立した。

テレビドキュメンタリーや是枝裕和監督作品での、独特の映像美に定評のある山崎裕カメラマンと足立監督とは、日大芸術学部映画学科の学友だった。彼らの出会いと交流、時代の空気感から、それぞれの道に進み、そして再び学生時代同様の「映画論」「映像論」を闘わせながら撮影された本作、最後に今後のことまで。予想以上に仲のよい、お2人の貴重なトークを、ぎゅっとダイジェストでお届けする。
(取材・構成=小林蓮実、撮影=馬込伸吾)
金子遊のドキュメンタリストの眼3 足立正生監督インタビューも、ご参照ください。



僕たちは「実に生意気だった」。


——そもそもお2人は、どのくらい仲よしなのでしょうか(笑)

山崎 いや、大学入学当時、あっちゃんのことは知らなかった。この強烈な「顔」を3年生くらいまで見たことがなく、「ある日突然現れた」という感じなんだ。

足立 僕は1959年、60年安保闘争の時代に入学し、デモばかり行っていた。そして、日大映研(日本大学芸術学部映画研究会)に「反安保の学生運動を撮りたい」という話を持ち込んだら、それをきかっけに学外のFAA(ファー:1960年にVAN映画科学研究所に改名)で「運動体風に」制作しようということになったんだ。このように僕は学内で活動していなかったが、山崎は学内の真面目な撮影研究会のボスをしていた。だから、実際の交流は、安保闘争が終わった後だな。

山崎 映研は、演出・撮影・脚本などの部会に分かれた大学の組織だったから、学校から予算ももらっていた。俺が撮影部会の部長になった際、演出部会は小笠原隆夫(現:日芸教授)や、もしくは青白い顔の「理論派」が部長になると予想していたら、「演出部会の部長は足立だ」と突然紹介されて、「あんなやついたの!?」と思った。「喧嘩が強いから部長になった」「腕力でのしあがった」という噂だった(笑)。

足立 日芸の映画学科は当時、シュルレアリストの巣窟で、学校側のカリキュラムやオリエンテーションの方向から外れた作品ばかり手がけていた。すると、学校側に「もう予算は出さない」「映研を解散しろ」といわれ、新映画研究会(新映研)をつくることになる。

山崎 俺も小学生の時から映画が好きで日芸に入学したが、みんなの話題は「シュルレアリスムだ」「アヴァンギャルドだ」「瀧口修造だ」(笑)。

足立 映画ももちろんビジネスだし、当時はプログラムピクチャー全盛から下降する途中だった。でも、日芸に澁澤龍彦や安部公房、大島渚などを呼んで話を聴いても、僕らは「それで」という態度で、実に生意気だったんだよね。みんなで『悪人志願』(60年・田村孟監督)の世界にあこがれた。そして、ネオダダ(50年代後半〜60年代のダダイズム復興。ジャンク・アートなども含む「反芸術」的な運動)グループも新たな運動を始めた。さらに、読売アンデパンダン展(49〜63年、新人発掘のアート展)に出品した作品が猥褻だとして撤去された後の撮影監督・吉岡康弘などとも交流していて、美術・文学・映画などのジャンルを意識することはなかったね。アートやものづくりの運動的な場を作ることができ、そこには共感や同意も、論争もあった。

山崎 演劇・写真・詩人・美術・パフォーマンス……すべて垣根がなかった。赤瀬川源平や谷川俊太郎も、VAN映画科学研究所に出入りしている。それらの経験から、「自由でいいんだ」という実感・気分があったんだよね。

——そのような時代の感覚の中、お2人が初めて一緒に手がけたのは1961年、新映研の第1弾作品、『椀』ですね。

足立 そう。『椀』では、ミニコピーという、図書館の資料を記録するために用いられていた、コントラストの強い特殊なフィルムを用いることにした。

山崎 しかもハイコントラストにして、ソラリゼーション(現像時に露光を過多にすることでモノクロの白と黒を反転させること)風で、「カチカチ」の絵に仕上げることを狙った。

足立 ところが富士フィルムに行ったら、ミニコピーフィルムHRIIはスチール用でムービー用はなく、これはパーフォレーション(縁の細長い送り穴)にパラつきがあってカメラにひっかかり、幾度も撮り直すことにもなってひと苦労だった。

山崎 図書館の記録用のフィルムは100巻きしかなく、長いシーンが撮れなかった。そこで、暗室で100巻きをつないで200巻きを作り、切れないようにと願いながら撮影したが、なんとか撮れたんだ。それで僕は、現像にも携わっていた。

足立 しかも、現像したら、どのようにあがるのかがわからない。ここが、いちばんおもしろい。

山崎 現像液の種類や温度を変えてはテストをして、あっちゃんやカメラマンに見せ、どのようなトーンでいくかを決めた。足立正生という存在を強く意識したのは、この時だね。『椀』のテストデータは後輩に渡し、63年の『鎖陰』で活用してもらった。

足立 次に山崎と一緒に作ったのは、67年の『銀河系』。

山崎 当時、俺たちは映画を観ては、新宿の「緑苑街」という路地や、そこにあった「ノラ」という飲み屋、大島渚一派行きつけの「ユニコーン」などに入り浸っていた。そこにさまざまな人が紛れ込み、映画館の前に戻って喧嘩になって、あっちゃんがすごいパンチを繰り出したのを1回だけ目撃したんだ。あの時は、映画館のガラスが吹っ飛んだね。

足立 そのくらいにしとけよ(笑)。当時、僕は「酔っぱらいゴリラ」とも呼ばれていて、この喧嘩は『日本の夜と霧』(大島渚監督)を観た後のことだった。あと、日芸の同級生で、山本晋也は僕の恩人なんだよ。運動部や応援団に呼び出された際、蜜柑箱の上に立った晋也に僕は、「お前は反安保闘争をやっているんだってな。日大では学内での政治闘争をやったらいかん、というのは知ってるか?」といわれた。それに対し、学内でもやっていたが、「学外でしかやったことないぞ」と答えたんだ。実は、運動部のやつらは僕をリンチにかけようとしていたんだけど、高校時代の同級生を通じ、晋也と話を合わせておいた。八百長だよね(笑)。

山崎 「撮影やめろ」と、応援団の学生たちに、撮影所を取り囲まれたこともある。

足立 「わけのわからないSEX映画を撮っている」とね。それでも、山崎は真面目な撮影部会の部長だったが、おもしろいとおもったものは全部やってくれた。

『断食芸人』©荒木経惟 
▼page 2 山崎と僕をつないでいるのは、「おもしろいものを作りたい」「新しい方法や技術を作りたい」という情熱。につづく